煙霞の痼疾未だ止み難く候 其の七「小倉から由布院」

文字数 13,429文字

                              NOZARASI 8-7
 煙霞の痼疾未だ止み難く候
  其の七
   「小倉から由布院へ」
 
 湯田から萩往還を抜ける。
 萩に近付くにつれ風が冷たさを増してゆく。            
 肌を刺すような初冬の風が海から吹きつけ、海沿いの彼方に指月の山が幽かに見えた。
 吹き荒ぶ季節風に荒れる海を見下ろすように、その墓標は在った。
 風の音が、鎮魂の歌のように途切れては鳴り、鳴っては途切れた。
「よいか、重三郎殿、人を倒そうとする剣は、いつかは己をも倒す。まして、そんなにギラギラとした殺気のような恐ろしげなものを孕んでいては、尚更のことじゃ。力を抜きなされ、斬ろうとか、倒そうとか、勝ちたいとか、そんな邪念は捨てなされ。風になりなされ、風に、そよ風の如くにな。そして、時には疾風の如くにな」
 若い重三郎には何となく理解は出来ても、「そよ風になる」という事の本意は見えなかった。
 今は、その沢井の言葉が、己の目指した剣の原点となって行ったのだと思っている。それに気付くまでの何と永かった事か。
「故郷への帰り道には必ず寄って下されよ。二十年でも、三十年でも待っておりまするぞ」
 別れる時に沢井はそう言った。が、遅かった。           
 重三郎は、少し古びて墨痕だけが新しいその墓標に向い、もう一度手を合せ、荒れる海に目をやり一礼すると、別れを告げた。
 いつの日か、いや、そう遠くはない日に建つであろう己の墓標も、沢井の遺志のように、朽ち果てなば忘れてくれと、杉の木の墓標にしてくれと……。

 荒れる海に沿って西へ行く。少し暗い冬の海から、容赦なく冷たい北風と汐の飛沫が重三郎を襲い、体温を奪って行く。
 厭な予感がして、あの痛みを思い出す。
 海沿いの苫屋の煙が強い風に散っている、たまらず一休みを乞う。
 丸く見えるほど着込んだ親切な老婆に熱い白湯を戴く。
 冷え切った身体が、その白湯の温かさに、氷の解けるかのように五感を取り戻して行く。     「あと一里頑張りなさいまし。あの谷沿いに川を遡れば良い湯がございますよ。こんな寒い日にはうってつけの湯でございます、身体の芯まで温めてくれますよ」
 老婆に教えられた谷沿いの狭い道を行く。
 山間に入ると、風は急速に勢いを弱め、少しホッとする。    
 やがて風の音が途絶え始める頃、小さな湯治場へ辿り着いた。 
「海の方からいらしたかね。今日の海は荒れていましたでしょう、二、三日御逗留なさいますなら、着物お洗いしておきます。荒れた海の汐風に当たると、ベタついて、もうそのままでは着られませんよ」
 宿の老婆が親切に気を使ってくれる。
 上着と袴を渡すと、
「確りとした運針で、心の込められたお着物でございますね。奥様でございますか」と、畳みながら言った。
「いや、ちょっと知り合いの者が……」
「下着も出しなせぇ。遠慮なんぞ要りません、明日一日あれば乾きますよ。それまで浴衣と丹前でいなさいまし。それとも先をお急ぎなさいますのか」
「いや、何日かゆっくりとさせてもらいます」
 こぢんまりとして、湯田とはまた違った良い湯であった。
 狭い山間を流れる小さな川の辺り、人の声すらせぬ静かな湯に一人浸かっていると、遠い昔、何処かでこんな風にしていた自分が在ったような、そんな錯覚に陥って行く。
 が、重三郎にそんな時は無かった。
 剣のことしか頭には無く、風呂など、川の水で身体を拭くぐらいのものであった。逗留させて貰った稽古場で湯に入る事はあったが、ゆっくりと、こんな風に風呂に浸かるなんぞと云う事は無かった。
 体の芯まで湯の温かさに解されてゆく。夜空を見上げると、冬の澄み切った空に無数の星が綺麗であった。
 その時、重三郎は己が心に、今まで感じたことの無い不可解な強く熱い感情の走るのを覚えた。
「雪恵殿」
 思わず、小さく切なく雪恵の名を呼んだ。

「明日はもう大晦日でございますね」
 馬関海峡の舟の上で、大きな荷物を持った商人らしき男に声を掛けられた。
「御故郷はどちらでございますか」
「豊後でござる」
「お正月は御故郷でございますか」
「のんびりじゃ。これから博多、唐津と巡って、武雄の湯に行くつもりじゃ。故郷へは春までに着けばよいでな」
「春までに、でございますか。武雄から豊後まで、良い湯が沢山ございますね。と云う事は、湯治の御旅で……」
「そう云う事になるかのう」
「羨ましゅうございますねえ。私なんぞ、こうして中国路から九州、年中ウロウロと商いの旅を致しておりますが、湯治場へ泊れるのは、年に何回もございません。おまけに、いつも安宿でして」      「儂とていつも安い宿を探しての」
「同じでございますよね。宿は安くても、お湯は変わりませんものね」
「ははははは。そう云う事かな。それにしても、馬関の舟は速いのう」
「今丁度、下り潮のようでございますよ。この潮に乗れば、馬関海峡、あっと言う間にございます」
「いや、舟には弱くてのう、ちょっとの間でもすぐに駄目になる。速いと助かるというものじゃ」
「明日は大晦日、満月、新月に近い潮は、殊のほか速うございます。よぉく御覧なさいませ、岩場のあちこちに白い渦が巻いてございましょう、やがてあの渦が大きくなりそこいらに大渦が生まれます、慣れぬ者には少し怖いくらいではございますよ」

「三十有余年か……」
 重三郎は、故郷に繋がる九州の大地を、ゆっくりと確かめるように踏みしめながら歩いていた。
「春までで良い、あの春までに着けば良いのだ」                
 そう自分に言い聞かせながら……。
 この旅に出てから、重三郎の心の何処かに、故郷へ戻るという事に対する畏れのようなものが常に在った。それは、故郷へ近付くにつれ、少しずつ重みを増してゆくように感じられた。
 それが何故であるのか、三十有余年という永い年月の成せるものなのか……。それだけではないような気もしていた。
 それは、余りにも漠として捉えようのないもののように、重三郎には思えた。    
 今日は小倉で良いかと、宿も探さず、午後の小倉の城下を歩く。遠賀川の向うに御城を見ながら行き、やがて商家の並ぶ辺りに差しかかる。さすがに大晦日前、結構な賑やかさである。
 人混みの苦手な重三郎、雑踏の熱気に少し中られ、それを離れた。街並みの途切れた辺りで、ほどよい石の上に腰掛け休んでいると、
「兄者、兄者ではございませんか」と、往き交う人の中からあの人懐っこい宗吾の声が聞こえた。
 笠を外して重三郎の前に立ったのは、まさしく宗吾であった。 
「御主、どうしてここへ」
「その節は大変御世話になりました。御蔭さまで正月からはちょっと出世が出来そうでございます」
「ほう、それは良かった」
「小倉の御城で、正月に御前試合がございます。それに招かれまして」
「御主が戦うのか」
「はい、藩の稽古場の師範代が出る予定でしたが、足を挫いたとかで、私にお鉢が回ってきてしまいました」
「正月のいつ」
「三日、五つ半よりにございます」                            
「誰でも見る亊が出来るのか」
「多分。御城の前の広場だそうですので、何でしたら、私の名をお出し下さい、縁の者だと」
「よいのか」
「構いません、構いません、兄者ではございませんか」         
 相変わらず拘泥の無い男である。
「ところで、今日はもう宿を……」             
「まだ決めてはおらぬが……」
「御一緒で構いませんよね」
 酒を飲む仕草をしながら、懐っこく嬉しそうに笑う。
「大事な試合の前であろうが。それに一人では無かろうに」   
「私は、今日か明日着くと云う事になっておるらしゅうございますので、明日着いたと云う事にして、今日は大丈夫でございます」   
 面白い男である。しかし、沢井の門下とは云え、他藩の御前試合に、藩の選ばれし者として招かれるとは、これは想像以上に使えそうだなと重三郎は思った。
 重三郎は、宗吾に沢井を重ねて行く。心の師である沢井から皆伝を受けた男の剣を、この目で見てみたい。そう思い、小倉の賑やかさを我慢した。
 静かな旅を続けて来た重三郎に、小倉の暮れから正月の賑やかさは、少し苦痛であった。

 三日、五つ半に少し早く、重三郎は城の前に着いた。もう既に大勢の人逹が試合の始まるのを待っていた。
 白い幔幕が張られ、四囲の要所を警護の侍達が固めていた。
「後藤様でございますか」
 若い侍が声を掛けて来た。
「有田様より、小紋返しの竿袋をお持ちの方がお見えになられたら、案内宜しく頼むと承っております。こちらへどうぞ」
 案内された一隅に幾つかの床几が並べられ、試合に出る者たちの身内であろうか、既に十数人の侍達が腰を掛け、試合の始まるのを、今や遅しと待っていた。
「もう直に殿が御見えになられます。それから試合にございますが、有田様は、お一人のみ他藩から御招待されます特別な剣客にございますれば、午後の最後の試合にございます」
 案内の礼を言う重三郎にそう告げると、若い侍は低頭し下がって行った。
 午前の試合、格別に目を見張る程のものは無かったが、それなりに面白くはあった。
 午後、最後の試合であることが告げられると、場内の雰囲気は一変した。明らかに今までとは違った緊張感のようなものに包まれて来ていた。
 相手は小倉藩指南役の推す客分の剣客であるらしく、大下某と聞こえた。
 恐らく、互いの藩の面子が表に出ることを避けた人選、組み合わせであろうと思えた。が、毛利方は藩士である宗吾を送り込んだということは、これは揺るぎなき信頼があってのことであろう。

 互いに動きを探り合いながらの静かな試合の始まりであった。
 さすがに今までの試合とは違っているようである。
 ゆっくりと動く大下に、宗吾は己を扇の要に置き、小さく回るように正対するだけで大きくは動かない。大下が間合いを詰めて来ると、その分だけ小刻みに下がり、小さく木刀を揺らすだけで正眼を崩さない。その泰然とした動きは、何処か沢井を思い起こさせた。
 大下は、八双と上段を用いながら、小さく誘い、また牽制する。        
 先に動いた方が負けるかと、重三郎には見えた。
 だが、重三郎の読みは外れた。
 先に動いたのは宗吾であった。
 重三郎は、自分の予想とは違った展開に、思わず目を見張った。
 宗吾は正眼から上段へ構えを移すと、素早く間を詰め、大下の間の中へ踏み込んだ。
 勝機と見たか、大下の八双が撃ち下ろされた。
 僅かに体を引き、間合いを外しながら、それを宗吾の木刀が追った。
 ぎりぎりの間合いで、恐ろしく速い宗吾の木刀が大下の峰に追いつき、下段の位置で抑え込むと、すっと体を踏み出す。
 大下の木刀が宙を飛び、宗吾の切っ先が、その喉元へピタリと止まった。
「それまでっ」
 凛とした声が場内に響いた。
 一分の無駄も無い宗吾の動きであった。
 大下の技量を見抜いて、その間合いに踏み込み誘ったのだ。
 峰を押さえて踏み込んだ直後、木刀を滑らせ、小手を捕えて捻り上げる。絡めるように木刀と手首を抉り上げ、大下の木刀を宙に飛ばしてしまった。木刀ならではの技である。
 若くして沢井から皆伝を受けた男だけの亊はある。それにしても、あの一連の淀み無き動き、木刀の捌きの速さ、正に神業である。
 重三郎の予想を遥かに超えた宗吾の強さであった。
 一礼をして試合場を後にした。
 雑踏の中を歩きながら、
「風か……。そよ風と、疾風か……」と、重三郎の口から呟きが洩れた。
 そして、「風になりなされ、風に……」と教えてくれた、沢井の言葉が思い出された。

 その夕刻、
「兄者、明日お発ちになられるのでございましょう」     
 宗吾が宿にやって来た。
「御主、良いのか」
「構いません、構いません。御城の席はもう終わりました。上役が、これから祝いの宴席を設けると申されましたが、ちょっと疲れましたので明日にと御願い致して参りました」
「御主には負けるな。それにしても見事な試合だったな。間近で見る事が出来、良い勉強になった。強いの、さすがに沢井先生の皆伝だけの事はある」
「お恥ずかしい次第でございます。が、まだまだ兄者の剣には及びそうもございません。私にはあの時のように、相手の間合いの中に坦然と身を置いたまま、怨念のような殺気の籠められた彼奴の居合の、あの鋭い剣を捌くなどということ、まだまだ出来そうもありません。多分あれが、沢井先生の仰しゃられていた、そよ風になると云うことなのでしょうね」
「いや、儂とて負けるやも知れぬ、速いな、御主の剣は恐ろしく速い。まさに疾風じゃな」
「では一手」
「うんっ」
「冗談です、兄者とはやりとうございませぬ。御赦しを」         
「儂も、御主とだけはやりとうないの。それに、疾風とそよ風、同じ風では立ち合いにならぬであろうの。ははははは」
 笑って、「あっ」と、重三郎は息を呑み込んだ。
 重三郎の脳裏に、沢井との稽古の光景が蘇ってきた。
 沢井がそよ風だとすれば、攻める重三郎は、及ばずと雖も疾風ではなかったのか。己がそよ風に成り得れば、沢井は疾風に……。
 二つの風を、一本も取ろうとせず飄飄と立ち合うことで、身を持って重三郎に教えようとしていたのではないのか。
 その心を伝えんがために、沢井は宗吾をここへ導いたのか。
 沢井の教えを会得出来たとはまだ思えない。が、その糸口をやっと今、三十余年の時を経て掴めたような気がした。
 宗吾と剣を交えることなくそれを教えられた。立ち合うことだけが剣の修行ではないのだと、沢井は言った。父もまた、そう言っていたでは無いか、「人は、全て師ぞ」と……。
 重三郎、己の未熟を、今改めて知らされた。
 沢井に会って三十余年。やっとその足元に辿り着くことが出来たのだ。
 いつの間にか酔い潰れ、今日も宗吾は轟々と鼾を掻いて眠りこんでしまった。
 己は、少しばかり皆より秀でていただけだった。そんな事に気付きもせず、天狗になって故郷を出た。叩かれ、打たれ、強くなっていった。宗吾の若さの頃、やっと自分の力というものを知り、ぼんやりとではあるが一条の光を見出し、剣と云うものの中に身を置けそうな気がしたのだったと思う。
 宗吾の剣には、迷いも、淀みも、そんなものは微塵も感じられない。若さ故の驕りも見られない。ひょっとしたらこの男、己のように、叩かれ、打たれ、稽古場の床に惨めに横たわったことなど無いのではなかろうか。
 天が与え賜うた才と云うものがあるなれば、この男はきっとそれを与えられ生れて来たのであろう。
生きる縁として剣にしがみつくように修行の旅を続けて来た己とは、明らかに違っている。
 この男には、執着というものが感じられない。あの試合の時もそうだ、まるで木石のように対峙し、風のように舞った。若いこの男の何処から、誰があの剣を想像出来よう。嬉しそうに子や妻を語る時の姿は、凡庸として、それとは全く別の世界を生きている人間のようではないか。
 この若さである、ひょっとして、己とは全く別の、人知及ばぬ次元まで、この男の剣は昇り詰めて行くのではなかろうか。あの沢井のように……。
 宗吾の高鼾を聞きながら、ここまでしがみつくように修行を重ね続けた己の剣と、この男の剣との余りの隔絶に、重三郎は優しく穏やかな苦笑いを洩らすのであった。
 ひとり酒を酌む内に、高鼾を搔く宗吾を見る重三郎の目は、まるでわが子を見守る父親のような、慈愛を含んだ眼差しになっていくのであった。              
 
 朝、宿を発つ重三郎を、宗吾が見送りに出てくれた。
「ところで兄者、沢井先生の仰せられていたもう一人の皆伝とは、兄者のことでは無いのでしょうか」
「いや、儂は沢井先生の所へは十月ほどしか御世話になっておらぬ。まだ若く、未熟であった。皆伝なんぞ、とても戴けるような腕では無かった」
「そうですか。あの時先生は、お前ともう一人、もう三十年余りも前の頃、この若者なら私の跡を継いでもらいたいと思い、皆伝を与えようと心に決めた男がいた。だがその男は、修行の旅を続けたいと……。そして、それから一度も戻っては来ぬ、生きておれば相当の剣客になっていよう。もう一度遭いたい、遭うて、立ち合うて、風となったその男の剣を見てみたい。そう仰せられていました」       
「そうか、だが儂では無かろう……」
 自分の亊であろうかと重三郎は思った。沢井の心に報いることなく、あの時自分は、未知なる剣を求めて萩を出た。
 ここでも己は、人の心の優しさを踏み躙ったのではないのか。三十年も自分を待ったのだと云う沢井の思いに、重三郎は深く己を悔いるのであった。
「そうですか、先生は、皆伝なんぞ形だけのものぞ。故に私は皆伝書も何も形では与えぬ。だが、お前に伝うるものはそれぞ。後は己の人としての成長が己の剣となる、私ももう永くは無い、名など残そうとは思わぬ、故に流儀も名乗っては来なかった。私の剣は私一代。だが、お前と、あの男と、そして多少ではあろうが我が門を敲いた何十人かの弟子や、修行の旅の人達の中に残る。言葉にて伝えぬはそれぞ、心してゆけ〟と仰せられていました」
「……」
 重三郎は黙って聞いていた。
「まっ、先生の仰せられたように、どうでもいい事ですよね。兄者、それでは気を付けてお行き下さい。また逢えると良いですね。出来たらいつか、兄者の故郷の春に遭いに行きたいですね、妻や子を連れて」

 博多から、虹の松原へ出た。                
 冬の穏やかな海と空の青さ。その青を分かつ、目に痛い程に白い浜の砂と緑の松原。正に白砂青松、画に描いたような風景である。己が身も心も、全てがその一幅の画の中に吸い込まれ、生まれ変われるのではないかとさえ重三郎には思えた。 
 松浦川沿いに武雄へ向かう。
 結構賑やかな湯治場であった。と云うよりも、宿場の趣の強い湯治場であった。今日もまた、出来るだけ静かな宿を求めて、初めての武雄の街を彷徨う。
 余りの湯の好さに、一日、もう一日と逗留を延ばしてしまう。        
 いや、重三郎の心の中に巣食ったあの畏れが、それを手伝っていた。
 そんなある日、風呂へ入っていると、旅の商人らしき男が湯船の中で三人の客を前に、旅で仕入れたらしい話をしていた。
 聞き耳を立てていた分けでは無かったが、話の中に、有田宗吾と云う侍が殺されたと……。
「済まぬが今の話、最初からもう少し詳しく話しては戴けぬか」  
 商人に近付くと、重三郎はそう頼んだ。
「お知り合いなのでございますか」
「儂の知る有田宗吾のことであろうと思われるのじゃが。頼む」 
「はい」
 商人は少し驚き、顔を曇らせ、岩国や、周防のあちこちで同じ話を聞いたのだ、と話し始めた。

 正月十日の夜、徳山で一人の役人が惨殺された。その男の名は、有田宗吾。小倉の御前試合の最後を飾った侍だと云う。                       
 宗吾に間違い無かった。
 新年と、御前試合の勝利の祝いを兼ねた席の引け、酒好きということもあり、かなり飲んでいたらしく、おぼつかない足取りで帰宅の途中、夜陰に紛れて襲われたらしく、卑怯にも半弓の矢が三本、背中と胸と腹部に刺さっていたと云う。刀疵も、一人のそれでは無く、数人で襲ったらしく、滅多斬りの惨たらしいものであったと……。
 最初は、御前試合の恨みではと囁かれていたのだが、日の経ち、調べが進むと、試合の相手はまだ小倉を離れてはいず、恐らく、先日山口で彼に捕えられた盗賊の残党の仕返しであろうと……。
「間違い無いのだな」
 暗く沈鬱な表情で問い返す重三郎に、
「はい、山口、赤間、小倉と回って参りましたが、行く先々、同じ話で持ちっきりでした。お知り合いに間違い無いのでございますか」 と、商人も沈痛な面持ちであった。
「そのようだな……」
「それはそれは」
 湯の中で話を聞いていた者達が、重三郎に向かって手を合わせた。

 何と云うことだ、あの善き若者を。妻と、子が三人いるのだと、あんなに嬉しそうに語っていたではないか。まさかあの時の盗賊に残党がいたとは……。
 重三郎は臍を噛む思いであった。
 その夜は眠れなかった。あの懐っこい屈託の無い笑顔が離れてゆかない。ひょっとして残党達は、次に自分を狙うのか。さすれば宗吾の仇も討てようものを……。
 だがそれはあるまい。行きずりの旅の浪人を探し当てるなんぞと云う亊は、至難の業であろう。
 翌日、宿を発っても宗吾の事ばかりが脳裏に浮かび、どうしようもないやるせなさを引き摺っていた。
 秋月の城下を行く。
 静かな情緒のある城下である。
 が、重三郎に、今は縁の無い風情であった。
 秋月まで足を延ばしたのは、故郷の事を確かめておきたかったからである。
 母方の親戚が秋月藩に居た。故郷を出た時もここへ立ち寄り、二日ほど世話になっていたし、いきなり帰るよりも、故郷の様子を少しでも知ることが出来れば、それなりの心積もりも出来るのではと思ったのである。
 重三郎よりも少し年の主は、先年隠居願いを出し、息子に家督を譲り屋敷に居た。
 突然の訪問に、驚きの表情で重三郎を確かめると、涙を流し、
「御母上が喜びましょう。御父上はもう十年も前にお亡くなりになりましたぞ。七回忌の法亊の折り、そなたの事、皆案じておりました。よくぞ御無事でお戻りになられましたな。
 家は彦次郎殿が跡をお継ぎになられ、立派にやっておられます。家禄も増えたとかお聞き致しております、安心してお戻りなされ」と教えてくれた。
 母がまだ生きていた。もう八十に近い。重三郎の戻るまでは死ねぬと、口癖のように言いながら帰りを待っているのだと云う。
 嬉しかった……。
 が、心は晴れてゆかない。
 暗い表情の重三郎に気付き、               
「何か、御心配な事でもございますのか。故郷の事は何も案ずる事はありませぬぞ、皆様心から重三郎殿のお帰りを待っておられます」と気遣ってくれる。
 重三郎は、宗吾の件を話した。
「この秋月にも伝わっておりますぞ。小倉の御前試合の最後を飾った将来ある若い剣客が、旬日を経ず惨殺されようとは。それも卑劣な手段で……。まことに残念なことでございます。友を失のうては、さぞかし御心痛でありましょう、今夜は我が家にお留まりなされまし、何も出来ませぬが、せめて有田殿を偲んで、伴に一献酌み交わしましょうぞ」
 重三郎は素直に頷いた。今日はこれ以上歩く気力は無いように思えた。
 
 引き留めてくれたが、翌日秋月の城下を後にした。      
 少し急いで、日田を抜けた先の、清流沿いの静かな湯治場へ草鞋を脱いだ。
 日田は好いところである。鮎が獲れると云う三隈川もゆっくり見てみたかった。日田に泊まり、小国を抜け、阿蘇の外輪山に点在する湯治場に寄り道しながら、今は亡き父と行った、あの冷たい水の湯治場へ行こうと心に決めていたのだが、日田の街明かりを見た時、今の自分の心には相応しくない、もっと、もっと静かな宿へ行こうと思った。そして夕闇の街道を、小国とは方向の違う玖珠川沿いに辿ってしまったのであった。
 好い湯であった。
 が、重三郎の心は、この玖珠川の渓の闇よりも暗く沈んでいた。         
 眠れなかった。
 布団を抜け出すと、真夜中の湯へ向かった。
        
「あの有田と云う男の形相が今でも忘れられぬ、あんな事を引き受けるのでは無かったな。最期に呻くように呼んでいたのは、妻か子の名であったのかなぁ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
 押し殺したような話声が、露天の湯の闇から聞こえた。    
「はっ」と感じ、着物を脱ぐ手を止め、重三郎は自分の気配を消した。   
「止せ、縁起でもない。仕方あるまい、あいつにはいつも世話になりっ放しだし、今回は礼金も弾んでもろうたしな」        
「お前の半弓が無かったら、俺達四人も危うかったな」        
「あいつをいとも簡単に負かした程の使い手だぞ、例え酔っぱらっていても俺達なんぞ到底及びはせぬ。どうせ殺すのだ、弓も刀も同じではないか」
「あいつも、もう小倉の城下を出て由布院へ向かっているだろう。約定の日は明日だ、由布院で落ち合って残りの金を貰ったら、大坂か名古屋にでも行こう。大きな城下の方が、ほとぼりを冷ますにはいいからな」
「案ずるな。聞いたところによれば、どうやら下手人は俺達では無く、あいつが捕え獄門にされた盗賊仲間の仕返しと云うことになっているらしいぞ」
「だが、用心するに越したことは無いからな、しばらくは我慢して人目につかぬように旅しておれば、そのうち世間の噂も収まるさ」             
「そうだ、当分遊ぶだけの金はあいつがくれる約束だしな。ここは静かにほとぼりを冷ますとしようぜ」
 重三郎は、気配を消したまま湯から退くと、廊下の陰で四人を待った。
 そして、食い詰め浪人のような四人の顔をしっかりと確かめた。
 何と云う偶然、何と云う巡り合わせ、あのまま日田で泊ってしまえば……。
 宗吾の祈りであるか、無念であるか。そんな力が、重三郎をこの宿に導いてくれたのであろうか……。
 小倉から由布院へ来ると云う奴は、宗吾が御前試合で戦った大下某に違いあるまい。負けた意趣返しに、己で無く、四人の無頼に金を渡して闇討ちを仕掛けるとは、何と云う卑劣な男であるか。
 あの盗賊の残党の逆恨みではないかと聞いた時から、重三郎の心は、機会があれば宗吾の無念を晴らすのだと、そう思ってはいたが、盗賊の方から仕掛けて来ない限り、どうすることも出来ぬと、半ば諦めていたのであった。
 今、殺された宗吾の怨念の思いの引き合わせであろうか、その時が近づいていた。
「由布院か……」

 明くる朝、四人の出立を追って宿を出た。
 冬の早い夕暮れが、湯煙の立ち上る静かな由布院の盆地を包み始めていた。その夕闇の彼方に、由布院の里を見守るかのように由布嶽の双つの峯が仄かな明るさの空に聳え立つ。これから始まるであろう修羅場には相応しくない、穏やかな、出来得れば乱したくはない風景であった。
 浪人達に少し遅らせ、宿に入る。あの男は既に来ているらしかった。
 明日、奴等は同一行動を取るのであろうか。それだけが重三郎の危惧するところであった。
 奴等と遭うのを避けて深夜の湯へ浸かる。溢れ出る湯にどっぷりと身を沈めると、「ふーっ」とひとつ、大きな息を吐く。
「宗吾、奴等五人が共に行く事を祈ってくれ……。頼むぞ」     
 煌煌と照り映える月が、澄み切った冬の空に冴え渡る、その月に向かって手を合わせた。

 朝の冷え込みで生まれた濃い霧が湯布院の盆地をすっぽりと包み込む。重く緩やかな風に運ばれ、時折、途切れた霧の合間から真っ青な空が見え隠れしていた。
 祈りが通じたか。五人は共に宿を出て、どうやら同じ行動を取るようである。
 宿の者に、
「小半刻ほど待って、番所にこれを頼む」と、夕べ、事の顛末を認めて置いた書状を預け、五人の後を行く。
 もうもうと湯けむりの立ち上る金鱗湖の辺りで、重三郎は足を速め追い越すと、五人の行く手に立ち塞がった。
 色めき立つ四人と、落ち着き払った大下。
「大下殿ですな。有田宗吾縁の者、義弟の無念晴らさせて戴きまする」
 四人の顔がさっと青ざめる。が、大下はなお平然としていた。
「有田なる者、知らぬな。人違いであろう」
「そこなる四人の者に、徳山にて闇討ちさせたこと、こちらは分っておる」
「貴様、何故それを」
 四人の一人が思わず叫んだ。
「語るに落ちるとは、正にこのこと。日田往環の湯でな、有田の形相がなどと話していたであろうが」
「あの湯に居たのか……」
「湯煙の向うにな、お前たちが居た」
「畜生!」
 一人が、慌てて半弓を出そうとしている。
 刀を抜いた三人が重三郎を囲んだ。
 重三郎もゆっくりと木刀を構える。
 一転、相手の動きを待つ事無く攻撃に出る。
 一瞬の出来事であった。
 半弓に弦を張ろうとしていた男も、諸共に撃ち伏せる。
 七転八倒する四人を、大下は冷ややかな目で見ている。    
「ほう、凄いな。木刀で瞬時に四人か、それも急所を外してな。有田の恨み、苦しめということか。だが俺を甘く見るなよ、木刀なんぞで俺の剣を捌けるとでも思っているのか。小癪な」
 大下は刀を抜くと、八双へ構えた。
 重三郎は正眼に構え、相手の動きを待った。
 間を探るかのように、誘うかのように、大下は八双から上段、上段から八双へ構えを変化させながらゆっくりと動く。
 あの宗吾との御前試合の時と似ていた。
 重三郎は待った。
 此奴、けして殺しはしない。生かし徳山まで送ってもらう、きっと毛利の手で斬罪にしてくれる。さすれば、宗吾に縁のある者逹も少しは無念が晴れよう。
 重三郎が構えを変え、片手右斜下段へ移し終わらんとしたその時を捉えて、大下が真っ向斬り下ろしに出た。
 重三郎が誘い込んだのである。
 重三郎の木刀が、その刀を迎え撃つように片手逆袈裟に出る。
 撃ち下ろされる大下の刀の鎬を叩くように擦った。      
 そして、上段で左手を添えると、小手目掛けて鋭く、強く撃ち下ろした。
「ぎゃっ!」
 人ならぬ悲鳴を上げ、大下の手から刀が転がり落ちた。
 見る見るうちに大下の顔から血の気が失せ、脂汗が滲み出して来る。
「うっ、うっ、うーっ」
 大下が、声にならぬ声を発しながら激痛に耐えている。        
「手首の骨が粉々に砕けていよう、もう二度と刀は握れまい。いや、斬罪違い無き身なれば、その必要もあるまいがの」
 十人ばかりの役人と捕り手が、息急き切って駆けつけて来た。
「此奴等にございますか」
 役人は捕り手に命じて、手際よく五人を縛り上げて行く。
 重三郎は掻い摘んで事の次第を話す。
「先程書状も拝見いたしましたが、そのお話、聞き及んでござります。此奴等の逆恨みでございましたか」
 調べが終わるまで、重三郎は由布院に留まった。       
「徳山に遣った使いの者が戻りました。明後日に引き取りに来られるそうでございます。出来得れば御話を伺い致したいとの由、それまで御留まり願えましょうか」
 役人の頼みに、
「是非も無きこと」と、重三郎は二つ返事で承諾した。

 宗吾の上役という侍が、十人もの供を連れ、急ぎ由布院へやって来た。
「後藤重三郎殿、この度の事と云い、先般の山口での事と云い、重ね重ねの御力添え、真にかたじけのうございまする」         
 丁重な挨拶であった。
「有田もこれで浮かばれましょう。また家の者達の無念も晴れ、喜び安堵致しましょう。我が家中のみならず、毛利藩に関る者たち、皆全て胸を撫で下ろし喜んでおります」
「有田宗吾とは萩の沢井道場の兄弟弟子。正に弟にござりますれば、これ宗吾の導きたるもの、仇を討て、無上の感涙にござる」 
「真に失礼とは存じますれぞ、我が殿からの御礼、御受け下さいませ」
 また三宝に乗せた金子を差し出してきた。                    
「有難く頂戴仕ります」
 何と重三郎、今度はしごくあっさりと受け取ってしまった。                   
 重三郎はその金を戴き三方を返し、改めて己が懐から袱紗に包んだ金子を出した。包みに昨夜認めた宗吾の妻へ宛てた書状を添え、上役の侍に託した。
「これを香典として、有田宗吾の霊前へ御手向け願います。本来なれば、私が届けねばと思いますれぞ、この老骨、四十年振りの故郷を目の前にしておりますれば、非礼の事御赦し下さり、何卒宜しく御願い申し上ぐる次第にござります。幾何かの刻を隔てるとは思いまするが、きっと御霊前へ参りまするとお伝え下されたく」
「心得申した。確かに御引受け致し、必ず有田宗吾の霊前へ御届け申しまする」
 重三郎は、巡り合うこともなかった有田の妻や子に思いを馳せた。そして、妻や子を語る時の宗吾の嬉しそうな顔が瞼の裏に浮かび、仇を討ったと雖も、一抹の悔しさ、寂しさがその胸に去来するのを覚えるのであった。

   煙霞の痼疾未だ止み難く候 
      其の七「小倉から由布院へ」終わり
         其の八「長湯、如月の雨」へ続く
        
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み