煙霞の痼疾未だ止み難く候 其の五(二)「播磨、新宮」

文字数 19,633文字

                           NOZARASI 8-5-2
 煙霞の痼疾未だ止み難く候
  其の五(二)
   播磨、新宮

「美味いであろう、儂の作った茄子、それに南瓜。飲もう、食おう。嬉しゅうて、今夜は眠れぬな。夜明けまで飲もう」
「あれから、ずっと一日千秋の想いで待ち侘びていましたものね」
 煮物を運んできた由美が、涙声になる。
「虎落笛の聞こえる夜はな、風にガタガタと戸が揺れると、御主が来たのではないかと……」
「そうか、済まぬ。いつか、いつかと思うている内に、三十年余りにもなってしもうたな」
 魚の焼けるいい匂いが漂って、雪恵が皿に山盛りの鮎を運んで来た。
「ほおっ」
「揖保川の鮎ですよ。今日釣れたばかり、とっても美味しいですよ」
「来る時に見た、あの川ですね」
「川まで行ったのか。雪恵」
「はいっ、小兵ェさんの所まで走り、戴いて参りました」       
「あの川まで……。申し訳ありません、急な訪問だけでも非礼なものを……」
「朋あり遠方より来る。御遠慮なさらず、沢山お召し上がり下さいませ。父の野菜よりずっと美味でございます」
「何を言うか、儂の野菜の方が遥かに美味じゃ」
「そうでございますよね。では、父上はお野菜だけを召し上がりませ」と、雪恵が笑う。
 雪恵の悪戯っぽい笑顔で思い出したのか、由美が台所へ下がった時、重三郎が清野に小声で訊いた。
「ところで、あの時の二人の立ち合い、やはり謀られたのか」
「ふふふふふ」
 聞こえたらしく、雪恵がまた悪戯っぽく嬉しそうに笑った。
「御存知なのですか。お笑いになられるところを見ると、そうなのですね」
「だって、今でも母の一番の自慢話なのですよ。そのお話が出ると、一度に父と母の立場は逆さまになりますもの。ふふふふふ」   
 如何にも楽しげである。
「楽しそうね、何のお話」
 由美が戻って来て話に加わる。
「あのお話」
「あっ、あの折は大変な失礼を致しまして、御赦し下さい」
「ははははは」
 男二人、大笑いである。
「あの酔い方もお芝居だったので」
「いえあれは……」
「ねえ、そんなに酔ってらしたのですか、母上」
「ああ、涙と鼻水で顔はグシャグシャ、座っているのもやっとと云う有様。最後は轟々と高鼾を掻いて、雪恵の泣き虫は母譲りだな」
「高鼾など掻いてはおりませぬ」
「本人に分るものではあるまいが」              
「いえ、可愛い軽やかな寝息でございましたよ」
 重三郎、助け船を出す。
「それ、御覧あそばせ」
「いつもこうなのですよ、子供みたいなのですから」と、雪恵が笑う。
「仲の宜しいのが一番、私も酒が美味しゅうなります」
「ほら見ろ、酒の肴だ」
「犬も食わぬ物を、酒の肴にして戴けるだけ有難いでしょっ」と、雪恵がまた笑う。釣られて三人も大笑いをするのであった。
 話は尽きなかった。大いに飲んで、そして大いに酔って、明け方近くに眠りに就いたような気がする。
 宿酔いの頭の重さを感じながら目が覚めた時、陽は既に中天に在った。
「お目覚めでございますか」
「あっ、由美殿、お早うございます」
「お早うございます。母ではございませぬ、雪恵です」
 困ったような、嬉しそうな、複雑な笑顔でそう言った。
「これは失礼を致しました、雪恵殿」
 辺りを見回す重三郎に、
「父でございますか。また畑に参りました、採れたての茄子で、お味噌汁を作って重三郎様に召し上がって戴くのだと申しまして」と、雪恵が言った。
「畑ですか」
「横の林のすぐ奥です、ちょっと御覧になられますか。お母様、ちょっと重三郎様を畑へ御案内して参ります」
「きっとまた、伸びてきた草取りに夢中なのですよ。早く茄子をお持ち下ださいと伝えて頂戴ね」
「はい。参りましょう、重三郎様」
 雑木林を少し行くと、木立の向こうに畑が見えた。緑の林の仄暗さの奥、陽光に照らされ、そこだけ眩しく明るい緑の中に清野の姿があった。
「雪恵殿」
 重三郎は小声で雪恵を呼んだ。
「はい」
 釣られて、雪恵も小声になって返事をした。
「戻りましょうか」
「はっ?」
 雪恵が訝しむ。
「ここから先は私の入る世界では無いような気がしての。御覧なされ、御父上の姿。良い光景だ。まるで童のような、仏のような。戻りましょう」
 しばらく畑の方を見ていた雪恵が、微笑みを浮かべて、
「はい、戻りましょう、重三郎様」と囁いた。
 戻って来た二人の気配を察した由美が、台所の方から、    
「お茄子持って来て頂戴、雪恵」と、少し大きな声で雪恵を呼んだ。
 首を竦めて、雪恵が、
「お茄子は父上と遊んでいまーす」と返事して、重三郎を振り返って悪戯っぽく笑った。
「何を言っているの、茄子はどうしたの。あら父上は」と、由美が出てきた。         
「まだ畑で遊んでらっしゃいます。童のように」
「童のように?」
「とっても素敵なお姿でしたよ。ねっ、重三郎様」
「はい、後光の射しているかのようでした」
「そう……?仕方ありませんね、少し待ちましょうか。その内我に返って、走ってお戻りになられますよ」
 その通りであった。
 すぐに、息を切らし、茄子の入った笊を抱えた清野が走り込んで来た。
「ほらね!」と言って笑った由美の顔を見、二人も笑った。
「何を笑っておる」
「だって母上の言われた通りなのですもの」
「何が……」
 重三郎と雪恵、二人顔を見合わせ、また笑った。
 遅い朝餉であった、と云うよりは昼餉であった。       
「これは美味い!」
 茄子の味噌汁を一口飲むなり、重三郎が感心する。       
「だろう、そこいらの百姓には負けんぞ」
「だって、そのそこいらのお百姓さんに教わったのでしょ。それに、茄子は百に一つも無駄が無いってお聞きしましたよ。花が咲けば、必ず実に成るのだと言っていましたもの」と、由美。
「そんな生易しいものでは無い。畑を耕し、種を蒔き、植え替えて、草を毟って、肥やしをやって、やっと茄子が実るのだ。作物はみな同じだ、たぁだ植えれば、種を蒔けば収穫出来る訳では無いのだ。作る人の汗と愛情の賜物なのだ」
「ふふふ、また始まりました、父上の講釈が。でも素敵な父上の御姿でしたよね、重三郎様」
「何がじゃ」
 清野が重三郎の方を見た。
「うーん、これは美味い、本当に美味い」
 重三郎、わざと大きな音を立てて味噌汁を飲み誤魔化した。
 由美と雪恵が顔を見合せ、笑いながら首を竦めている。
「裏の柴栗がそろそろ食べ頃ですよ、今夜は栗御飯に致しましょうか」と、由美。
「柴栗ですか、懐かしいな。幼い頃、母と弟と三人で柴栗を拾いに参った覚えがございます。拾って、毬を剥いて、そこまでは楽しかったのですが、その後皮を剥かされて、それが大変だったのを、よぉく覚えております。栗御飯はとても美味しかったのですが」
「よしっ、儂も手伝おう」と、清野。
「では、某も」と、重三郎も応じる。

 楽しそうに栗を拾っている由美と雪恵を見ながら、           
「まるで姉妹、子供のようじゃの、あの二人は」
 清野が苦笑する。
「お幾つになられますのか、雪恵殿は」
「お恥ずかしい、もう三十を過ぎて……。一度嫁したのでござるが、夫が病で急死しての、戻って参った」
「縁が無かったのかのぅ」
「その後も良い話は何度か有ったのだが、もう堅苦しいのは厭と、首を縦には振らぬ。こんな所で奔放に甘やかせ、世間知らずに育ててしまったかのう」
「良いではないか、雪恵殿も幸せそうではないか」       
「そうだと良いのだが、親としてはのぅ」
 雪恵が小さな籠にいっぱいの柴栗を持ってきた。
「何をお話していらっしゃるのですか。今度は皮剥きですって、お願い致しますね、私たちは渋皮を剥きますので」
「心得ました」と、重三郎。
「御注意下さいね。皮が爪の間に食いこみますと、いつまでも痛いですよ、重三郎様」
 皮を粗方剥き終わると、重三郎は林から枯れ枝を集めて焚火を始めた。
「はい、重三郎様」
 雪恵が、両手にまだ皮の剥いていない栗をいっぱいに乗せ、差し出した。
「おっ、ありがとう」
「包丁お入れ致しましょうか、重三郎様」
「いや、弾けるのも楽しみの内、このまま放り込みましょう」   
「気を付けて下さいね、熾も一緒に飛んで参りますよ、重三郎様」
「承知」
 雪恵の心配に、重三郎、微笑んで返す。
 香ばしさが辺りに漂い始め、「パンッ」と、勢いよく栗が弾け飛んだ。        
 ひとつ、またひとつと弾けて、灰が煙のように舞い上がる。
 いつの間にか雪恵がすぐ脇に来て、重三郎の陰で、栗が弾ける度に肩を竦めていた。
「大丈夫でございますか。重三郎様」
「美味そうな匂いだなあ。子供の頃を思い出させてくれるのぅ」
「腕白でいらしたのですか」
「ははははは、そうだったのかも知れんな。庭に見事な槙の木があってな、その実を食べたくて登ると、祖父がな、怒るのよ。それはそうだよな、丹精込めて手入れをしている自慢の庭木だものなぁ。ある時、枝から足を踏み外して儂が落ちたのよ、孫の儂が木から落ちたことより、枝の折れたを案ずるのだ、祖父は」と、腕白口調である。
「ふふふ、槙の実は美味しいですものね、重三郎様」           
「皆焼けて来たかな」
「そろそろですよ。重三郎様」
 雪恵が濡れ手拭いを差し出す。
「おっ、済まぬ。少し冷ますか」
「余り冷めては、せっかくの香りも味も損ねてしまいますよ、重三郎様」
「そうだな、少し熱いが、このまま戴くか」           
 熱い栗を掌の上で転がしながら、四人でワイワイ、フウフウと食べ始める。
「うん、美味い。懐かしい味だ、故郷を思い出す」
「これから御故郷へお戻りになられるのですね、重三郎様」     
「春までに着けば良いと思うております」
「春までに、ですか。ではまだまだここに居ることが出来ますね、うんとゆっくりしてらしてくださいね、重三郎様」
「そうだ、ゆっくりして行きなされ、後藤殿。もう修行の必要もござりますまい、急ぐこともありますまい。儂も二年程前に剣を捨て申した、今は身体の為に木刀の素振りをするぐらい、他から見れば老いぼれたと見ゆるやも知れぬ。だが儂はそうは思わん。人それぞれに生きる道がござろう、今の儂の道は、静かで安らかなこの山間の庵にあると感じる。
 剣を学ばんとした頃、身体の内から勢いよく迸るように湧き上がってきたあの力が、今は静かにゆっくりと、この身体に満ちて来るように思う。畑の中にいる時など、野菜の新芽のひとつひとつや、茄子や南瓜の花、毟らなければならぬ雑草、その生きとし生けるものの全てが、優しく穏やかな気のようなものを与えてくれていると感じるのだ。私もそれをこよなく愛しいと思う」
「儂も、御主の姿を見てそんなものを感じさせられた。何かこう、後光の射す仏様が、花畑の中で遊んでおられるかのようであった」
「はい、その通りでございました、重三郎様」
「それで、茄子も持たずにお戻りになられたのでございますか」 
「はい」
「……」
 しばらく黙りこんでいた清野が、
「後藤殿、御主にひとつ頼みがござる」と切り出してきた。             
「何でござろう」
「儂とひと手、立ち合うては戴けぬか」 
 一瞬、由美が驚きの表情を見せた。
「宜しいのですか、剣はお捨てになられたと」
 重三郎も躊躇いの色を見せる。
「御主を見ていると、あの時に感じた漲るような力が、今は微塵も感じられぬ。剣客の持つであろう気というものさえまるで無い。いったい何処まで強くなられたのか、儂には測れぬ。こんな山の中に居ても、大概の者の力は十中八九、今でも見抜けると儂は思う。だが今の御主の力は見えぬ。御主の全身に、まだ見たことも無い不可思議な力が存在するのではと感じる。それを見てみたい、立ち合うて見たいと……。
 剣をもって以来、剣の為では無く、人としての理想のようなものを御主の剣の中に見ることが出来るのではないかと……」   
「それほどの事はありますまいが。では、折角の栗御飯の為に、腹を少し減らすと致しますか」
「我が儘な願い、お聞き戴けますか。有難い」
「わあー、凄い。重三郎様の剣が見られる」
「雪恵!何をはしたない。後藤様に御無礼でしょうが」    
 由美が、普段とは違った重さを込めた声音で雪恵を窘めた。
 雪恵が重三郎の目を見て、小さく頭を下げた。
 重三郎、優しく静かに笑って返した。

 二人は静かに蹲踞し、静かに礼をし、静かに立った。     
 あの時と同じ、清野が上段、重三郎は正眼から八双に構えを移した。
 ややあって、重三郎が八双を崩すと、静かに右足をやや引きながら膝を軽く曲げ、腰を小さく落とし、右斜下段に構えを移す。
 長い対峙であった。
 少し疲れてきたか、清野が動いた。
 スーッと間合いを詰めた清野が、あの真っ向斬り下ろしに出た。
 重三郎、その間を嫌うことなく、逆袈裟でこれを迎え撃つ。   
 鋭く小さな木刀の擦れる音がした。
 重三郎の左肩を掠めるように、清野の木刀が振り下ろされた勢いのまま風を切る。
 重三郎の素早く返した木刀が、清野の木刀を左斜下段の形で抑えて、二人の動きが止まって緩んだ。
 固唾を呑んで見詰めていた由美と雪恵の口から、「ふーっ」と大きな吐息が洩れた。
「ああ疲れ申した。遥かに及ばぬ域です、儂の撃ち下ろしの間合いの中に身を置いて、体を移す事無く……。それに気と云うものがまるで察せられぬ、自然体とは云うが、まるで木石に対しているかのように、隙だらけなのに撃ち込む機さえ掴めぬ。言うなれば風、優しいそよ風じゃな。そよ風に撃ちこみは利かぬか、無駄な亊だと感じはしたが、己の全身全霊を込めて撃ち込んでは見た。やぁ、気持ちがいい、負けたと云うのに、気持ちがいいなぁ。後藤殿ありがとうござった。
 由美、これで解ったであろう、あの時、儂がわざと負けたのでは無いという事が」
「はいっ。良くは見えませんでしたが」
 由美の声が上ずっている。                
「凄い、右斜下段から、あの撃ち下ろしを、父の間合いの中に身を置き、紙一重違わぬ正確さで、ここでなくてはならぬ鎬の一点を擦り、剣の筋を僅かに逸らし、目にも止まらぬ速さで返した剣で、父上の二の太刀を抑え込んだのですね、重三郎様」
 感嘆の声を上げ、息を継ぎ継ぎ雪恵が言う。
「よく見えましたな、雪恵殿。御父上にかなり剣を習われましたか」
「はい、重三郎様」
 雪恵は、まだ興奮が冷めやらぬようである。
「私は、私の為に三郎兵ェ様が負けてくれたのだとばかり思うておりました。これ程お強いとは夢にも思いませんでした、御無礼致しました」
「ははははは」
 二人が笑うと、由美も雪恵も釣られて笑った。         
 そして由美が急に涙声になって、
「後藤様、ありがとうございました。清野が、あの時以来、初めて自から剣を取ってくれました。これでやっと私達は本当の夫婦になれたと思います」と、そう言って深く頭を下げた。
 清野も黙って重三郎に頭を下げている。雪恵もまた……。
 親子三人の目に涙が浮かんでいた。
 清野の、由美の、そして雪恵の心の重さが、重三郎の心に重なってゆく。            

「お侍様が鮎釣りをしなさるのかね」
「駄目ですか」
 雪恵が、がっかりしたような声を出した。
「いや、お侍様が鮎釣りをなさるなんぞ、ついぞお聞きしたことも無いで。童のお侍様ならの……。お引受けしていいものやら」
「この年になれば、もう童と同じでござろう。釣りが大好きでのう、子どもの頃、近くの川で毎日のように釣りをしておった。夏は潜って魚を追い、手掴みや矠で獲った魚を川原で焼いて食っていたものだ。旅の途中、この間も、駿河の山奥で雨子を釣ったりしての。鮎釣りというもの、聞き齧ってはいるが、具に見た事もやった事も無い、是非やってみたい。頼む」
「雨子というのは、この辺りでは平目。京、大坂で云う、雨ノ魚の事じゃな。腹に紅い点々のある、鱒の小さいのではございませんでしたか」
「ほうっ、良く知っておられる。さすが名人だけのことはございますな」
 重三郎、別にお世辞を言ったわけではないが、その一言に気を良くしたのか、
「よし、お引受け致しましょう。雪恵様のお頼みでもございますし」と、やっと首を縦に振ってくれた。
「わあ、小兵ェさんありがとう。良かったですね、重三郎様」
 雪恵が我がことのように喜んでいる。          

 ちょっと変わった釣りである。
 餌とする珪藻の着く石を縄張りとする鮎が、それを守ろうとし、侵入してくる鮎を攻撃する習性を逆手にとって、囮の鮎に掛け針を付け、縄張りに導き、絡むように攻撃してくる鮎を引っ掛けようというのである。
 田圃の小さな用水を利用し作られた生簀の中から素早く手網で掬った鮎を、浅く水を張った手桶の中に移して、
「これが鼻輪。ほら、牛の鼻に付けてある、あれと一緒でございますよ。太めの木綿針を鈍して作ります。そしてその先に、逆に付けた小さめの針、ち針を尻鰭の付け根に刺します。この位置は、掛け針の針先が尾鰭の先端から五分前後になるよう、その日の鮎の追いの具合を見て短くしたり長くしたりして合わせます。何、これは釣りをしていればその内解ります。いいですか、よーく見ていて下ださいよ、これからこの鼻輪を鮎の鼻の穴に通します」
 小兵ェが、手桶の中を逃げ回る鮎を一匹ひょいと無造作に左手に掴むと、鼻先の穴に鼻輪を素早く通した。
「うっ」 
 雪恵が、鮎の鼻に鼻輪が通された瞬間、思わず声を出した。
「可哀そう、痛いのでしょ」
「さあ。でも暴れませんので、そんなに痛くはないんじゃないですか」 
 小兵ェが、鼻輪を通し終えた鮎を握ったまま掌を返す。
「いいですか、鼻輪を通したら、鮎をこう裏へ返して、尻鰭の付け根の方へ、ち針をこうやって刺します。さっき言ったように、掛け針が尾鰭の先端より五分前後位になるようにして下ださい。鮎が弱らぬようなるべく素早く。じゃあここまで、ちょっとやってみて下ださいまし」
 手桶の中の鮎も中々に掴み辛い、重三郎、小兵ェのように上手くはゆかない。
「違う、違います。もっと鮎を優しく掴んで。そんなに強く握っちゃ、鮎がくたばっちまう。小指に軽く力を入れて、人差指と親指で鮎の目を隠して。何も見えねぇと大概の魚は大人しくなります。
 そうそう、一気に鼻へ通して。そう、うん、ち針をそこへ。そうですよ。よし、もう一度やってみて下だせぇ。鮎を暴れさせると、掛け針が自分の手に刺さってしまいますよ」
 小兵ェが、一言一言句切るように丁寧に教えてくれる。
 中々に難しいものである。が、重三郎の中に棲む釣りの虫が騒ぐのか、重三郎、ちょっと必死である。
中々上手くはゆかないが、重三郎、必死の面持ちで同じことを何度か繰り返す。
 脇から覗き込んでいる雪恵が、鼻輪を通す度に目を逸らせながら、それでも興味津津といった表情で見入っている。
「じゃあ川へ参りますか」
 少し様になってきたころ、小兵ェがそう促すと竿を担ぎ、小物入れと、生け簀の中から移した四、五匹の囮用の鮎を入れた網蓋付きの手桶を持って、すぐ前を流れる揖保川の川原へ下りて行った。
 竿は四間の長竿、六本継になっているが、かなり重そうである。
 仕掛けを結び終わると、
「よーく見てて下だせぇよ」
 小兵ェは、腰に差した玉網の中へ、川へ沈めた手桶の中から一匹の囮となる鮎をひょいと移し、手早く鼻輪を通すとち針を刺した。
 あっと言う間である。
「素早いのね」
 雪恵が感心している。
「早いほど鮎が元気に泳いでくれます、この釣りは元気な鮎が勝負でございます。こう、そーっとね、泳いでもらいたい方へ鮎の鼻を向けて、優しく送り出してやります。ほら、あすこの石、鮎がキラキラしていますよね、あれは石に着いた垢を食べているんです。あいつを釣りますよ」
「そんな事が出来るの、狙って釣るの?」
「そうです。まあ見てて下だせぇ」
 四間の長い竿が、高く立てられた位置から、すうーっと流れの上へ傾く。糸の中ほどに付けられた目印の小さな羽が、ヒラヒラと蝶のように舞ってその石に向かった。   
「すぐに掛かりますよ、よーくあの石を見てて下だせぇよ」                 
 水鳥の羽がビッビッと稲妻のように動いた。
 キラッキラッと水中で光が躍る。次の瞬間、二匹の鮎が絡まるように走った。
 糸も走って竿が撓った。
 小兵ェは竿をゆっくり立てると巧みに鮎を下手の大石の裏へ導く。
 竿を右肩に担ぎ込み、右肘の内側で引っ掛けるように支え両手を空けると腰を落とし、竿より長くなっている分の糸を手繰り寄せてゆく。
「なるべく驚かせねぇように近付いて、囮の鮎の鼻先の糸を掴んで、はいっと」
 小兵ェは腰に差した玉網の中へ、二匹の鮎を吊るして落とし込んだ。      
 見事な大きさの鮎である。
「八寸近くあるみたい。さすが揖保川一番の川漁師ね、小兵ェさんは」
 囮の鮎を外すと、今釣れた新しい元気な鮎を囮にするのである。
「後藤様、やってみますか」
 小兵ェに促され、覚束ない手つきで、やっとち針を付けるところまで辿り着く。
「そうそう、優しくそーっと扱って。今度はあの黒い大きな石を狙って下だせぇ。優しく鼻先をあの石に向けて……」
 小兵ェを真似て竿を操る。黒い石まで辿り着かない内に、「バンッ!」と、いきなり衝撃が竿先から手元へ、そして重三郎の全身に走った。
「あっ、手前の石にいた奴が掛かっちまった。後藤様、竿立てて。そうそう、ゆっくり糸を張って。さっきの大石の裏へ……。そうそう、いいですよ。上手い、上手い。お好きなだけの事はございますね」
 その時、重三郎が鮎に気を取られ足元の石で滑ってもたつき、竿が大きく揺れた。
「ああっ、駄目っ、駄目っ、足元気をつけねぇと。竿先そんなにぶらしちゃぁ鮎が驚いちまう」
 小兵ェの言う通り、鮎は驚いて流れの芯へ向かって泳ぎだす。凄い力である。
「ああっ、あーあ、やっちまった、言わんこっちゃ無い。もっと腰を落として竿を溜めて。そっ、そうです。よーし、ひとつ下のあの石の裏へ寄せましょう」
「心得た」と言ってはみたものの、儘にはならない。         
 鮎は信じられない力で抵抗する。
 流れを下り始めた鮎に引き摺られるように重三郎も下って行く。
「ああっ、そんなんじゃ海まで下って行っちまう。後藤様、竿寝せて、寝せて。ゆっくり自分が鮎より下へ先回りして下だせぇ。もっと竿溜めて。大丈夫、糸は切れません。いつもより太くしてあります。そっ、そう、上手い、上手い。自分が先にあの石の裏へ入って待ち構えて。鮎も疲れてきましたよ。でも、また驚かしちゃあなんねぇよ」
 小兵ぇの方が必死の様相である。
 やっとの思いで鮎を玉網の中へ取り込む。
「ふうーっ、淒い引きだ」
 大きく息を吸い込んで、重三郎、やっと一息つく。
 岸辺へ戻りながら、重三郎は不思議な興奮に包まれていた。      
 あの時だ、あの時の心の昂りだ。

 重三郎、五つの頃であったろうか。屋敷の前の川で、初めて尺イダ(ウグイ)を釣った。
 無我夢中で岸辺へ引き摺り上げ針を外すと、まだ暴れるイダを必死で胸に抱きかかえ、屋敷へ走った。
 母が笑いながら、それでも少し慌て気味に盥に井戸の水を張ってくれたが、イダはもう虫の息で白い腹を上にして、間もなく死んでしまった。
「今晩焼いて上げますからね、こんな大きなの、よぉく一人で釣ったわねぇ、偉いわねぇ」と、頭を優しく撫でてくれた。ドキドキとする興奮と、母の笑顔、ひどく嬉しかったことを今でも覚えている。
 あの時、尺イダを胸に走りながら感じた、あの昂りなのだ。

「見せて、見せて」
 雪恵が子供のように裾を端折って水辺を走って来る。
 その声と水の音に我に帰る。
「初めてにしては上手いもんだ。たいげぇこの節の鮎、初めての者は鮎に負けて逃げられちまう。うーん、いい鮎だ」と、小兵ェ。
「わぁ大きい、小兵ェさんのより少し大きいみたい。重三郎様、凄い」
「小兵ェさんのお陰だよ。小兵ェさん、ありがとう。それにしてもこれは大変な釣りですな、でも中々に面白い」
「今のは途中の石の鮎が掛かっちまったが、狙った鮎が釣れるようになると、もっともっと面白ぇですよ。よし、今度こそあの石の鮎だ」
 先程の所まで戻って来て、
「あの黒い石ですよ、いいですか」
 今度は上手く鮎が泳いで、目印の羽が黒い石へ向かった。が、少し下手へ入ったようである。
 軽く引き摺り上げるように糸を張り、黒い石の裏へ導く。
「駄目、駄目っ、そんなに強引に引っ張っては。引っ張り上げる時は優ぁしく竿の撓を活かして、鮎の嫌がるような引き方をしちゃあいけません。そうそう、来ますよ!」
 小兵ェがそう言った直後、「ガツン!」と衝撃が伝わって、ふわっと竿先が軽くなってしまった。
「逃げられましたか」
 小兵ェの方を振り返って、重三郎が呟く。
「掛かってますよ。上っ、上っ。上へ走りましたよ。竿立てて。糸を張ったらこっちの方へゆっくりと、今度は竿倒して。そう、そうです。上手いねぇ」
 それっきり小兵ェは黙った。
 重三郎、少し手間取ったが何とか鮎を取り込んだ。     
「雪恵様、こりゃあ上手いね、初めてでとてもはこうは行きませんや。参りましたね、あと何匹かお釣りになれば、あっしはもう要りませんよ、きっと」
 八ッ時頃までに十匹ばかりの鮎が釣れた。掛けた鮎はもう少し多かったのだが、慣れぬ重三郎には長竿を上手くは捌けず、掛け針が外れたりして逃げられてしまうのであった。
 帰りがけに
「今日はこれで食べてみて下せぇ、うちの嚊の作った田楽味噌、こいつを塗って少し焦げるくらいに焼き上げて、その味噌と一緒に食う、、これもまた美味ぇですよ」と言って小兵ェが孟宗竹の筒に入れた田楽味噌をくれた。
「ありがとう小兵ェさん。とっても楽しかったわ、ねっ、重三郎様」
 重三郎、少し行ってから引き返すと、ちょっと小兵ェと話をして小走りに雪恵の後を追った。
「何か小兵ェさんに、重三郎様」
「いや、ちょっと……」
「……?」
 雪恵が訝しむような顔をし、重三郎の目を見た。その眼の中に、悪戯っぽい光が差し、重三郎の心を覗き込まんとしていた。
 終いに隠しきれず、
「いや、明日もお邪魔して宜しいかと……」と、気後れ気味に吐露してしまう。
「……」
 雪恵が微笑みを押し殺したような表情で、また悪戯っぽく重三郎を見た。
「ははははは」 
 重三郎、照れ笑いで誤魔化す。

「これはいける。味噌焼きと云うのもまた酒の肴には持って来いですな」        
「如何ですか、御自分でお釣りになられた鮎は」と、由美。
「美味い、格別に美味い」
 重三郎、二匹目の鮎も頭から齧りつく。
「小兵ェさんの御褒めを戴いたのですよ、初めてにしてはとっても上手だって。それでね、私に内緒で、明日も教えて戴くお約束をしてきたのですよね、重三郎様」
「面目ない」
「宜しいでは無いですか。これまでの永き修行の旅の垢、ここ揖保川の水でゆっくりと流してゆかれれば。急ぐ旅では無いのですから」
 清野が助け船を出してくれる。

 翌日、鮎釣りをしていると、
「重三郎さまぁ―」と雪恵の呼ぶ声がした。
「お弁当拵えて来ましたよ、重三郎様」
「わざわざ済まぬな」
「小兵ェさんも呼んで、三人で戴きましょう、重三郎様」             
 下流で釣りをしている小兵ェを雪恵が大声で呼ぶ。
「後藤様は上流で釣りをして下だせぇ。下手にいる儂を見て、盗めるものは盗んで下だせぇ」と、今朝、釣りを始める前に小兵ェはそう言って、重三郎の下流で釣りをしていた。
 見事な釣り姿である。
 全ての動きに無駄が無い。流れるように鮎を放ち、鮎を導き。鮎を掛け、鮎を取り込む。水の流れ、川の石、揖保川の景色に溶け込んだその姿は、まるで一幅の山水画を見ているようであった。
 時に我を忘れ、見とれてしまう重三郎であった。
 小兵ェの鮎釣り談義を聞きながら弁当を戴く。       
「もう少し見てから、私は先に戻ります。鮎、いっぱい釣って来て下ださいね、重三郎様」
 雪恵はしばらく重三郎の鮎釣りを見ていたが、ほどなく戻って行った。       
 次の日も、次の日も、そしてまた次の日も、重三郎は揖保川へ鮎釣りに行った。雪恵もまた、毎日弁当を持って川へやって来た。
「もう明日からは、お一人で釣って下だせぇ」        
 五日目の帰り際、小兵ェが言った。
「儂が居なくても、ここにひと揃え、仕掛けと道具は置いておきます。親の鮎も、この生け簀からお持ちになって下ださいまし」        
「お忙しいので……」
「いえ、儂はもう要らねぇ。何の釣りでも一緒だ、人それぞれに釣り姿ってものがあるんじゃねぇかと儂は思うんです、ここから先は後藤様の鮎釣りをやって下だせぇ。川を、魚を知っている人の上達は早い、釣りが好きで、魚が好きで、魚をよーく解って、心の研ぎ澄まされている人には敵わねぇ。後は釣りをした分だけ、魚を釣った分だけどんどん上手くなって行きまさぁ。後藤様、釣りをなさっていると、何と言うのかねえ、こう、心が静かになりなさるでございましょ」       
 この男、剣の世界でいうなれば、自分にも劣らぬか。いや既に達観の境地まで達した使い手ではなかろうか……。
 人それぞれの剣、人それぞれの釣りか……。
 重三郎の心までをも見透かした小兵ェの無為の境地に、重三郎は畏れのようなものを感じるのであった。
「うん、無心というのかな。自分さえ存在せぬような、不思議な世界へ引き込まれて行く。我が剣もこうありたいとさえ思う……」
「さすがに雪恵様の仰しゃられた通り、達人だ。何十人と教えてきましたが、いやぁ、こんな御方は初めてだ。ところで、いくら鮎が旨いといっても、毎日では食べ飽きませんか」と小兵ェが笑う。
「いや、雪恵殿が小兵ェさんのおかみさんに教わったと、甘露煮にしたり、焼き枯らしたりと、色々やってくれておるようだ。昨日は酢味噌で和えたものも戴いたし、その前は鮎飯も食べさせて戴いた」
「いい奥様になれるのにねえ、勿体ない」
「そうだのう。気心は好い、料理は上手い、良き奥方になれそうじゃにの」
 重三郎も小兵ェに相槌を打った。
「ところで小兵ェさん、この鮎竿というのは、お高いのか」    
「他の竿に比べれば、長竿の分、作るのも難しい、大事に使わねぇと儲けがふっ飛んじめぇます」と小兵ェが真顔になる。
「これで買えますか」
 重三郎が小判を取り出した。
「十分ですよ。二本も三本も買えまさぁ。お買いになられるんですか、もうじき鮎釣りも終わりになりますよ。お聞きしたところによると、旅の途中とか、荷物になるだけだと思いますがね、お止しなせぇ。その竿でしたら、もう使わ無ぇ古いものですから、何も気になさらずお使い下だせぇ」
「いや、小兵ェさんに貰うて戴こうと思うての。何も恩の返せぬ儂の心だと思うて、これで竿を買うてはくれぬか」
「怒りますよ。雪恵様の、清野様のお客人だから面倒見させて戴いたんです。そんな大金貰う謂われはねぇ」
「どうしても駄目ですか」                  
「どうしてもだ」
 一徹さを露わにし、小兵ェは首を縦には振ってくれない。
「ではこれでどうじゃろう。この使わせてもらっておる竿を儂に譲ってくれ。買うのではなく、只で譲ってくれ。そしてもう一本、新しい竿を見立てて、儂に買うてきてくれ。余った金で小兵ェさんの竿も買う。これでどうじゃ」
「……」
「儂の鮎釣りの師として、それ位の事はさせてもらってもいいのではないかの。この年まで生きて、この世にこんな奥深く面白い釣りがあるなどとは思いもよらなかった。また廻り来る夏の、鮎の季節が楽しみじゃ。もうそんなに永くは無い生命と思えぞ、また来る春を、夏を、夢見るように待てるなどと、こんな嬉しいことはないではないか。少し長生きできそうな気もするではないか、小兵ェさんのお陰じゃ。なっ、頼む、貰うてくれ」
 小兵ェ、少しの間思案顔であったが、
「そうでございますか、そこまで言われれば儂も嬉しい。あの竿は大分使って古いし、少し過分と思いますが、有難く頂戴させて戴きます」
「有難い、有難い。じゃあまた明日参ります」
「変わった御方じゃ」
 小兵ェが、重三郎の後ろ姿にぽつんと呟いた。        

 川原で弁当を食べながら、
「どうしてすぐに帰らずに、春になるのをお待ちになって御故郷へお戻りになられるのですか」と、雪恵に訊かれた。
 重三郎は、幼き日の母とのこと、そして江戸の大川端の春に涙し、帰郷へ帰りたいと思い立ったことを語った。
「私も忘れていました。でも嫁ぎ先から戻ってきて初めての春、家の周りの雑木林の芽吹きに、忘れていたものを思い出したように涙が溢れて止まらなくなりました、重三郎様」
 雪恵が、その芽吹きの春を思い出そうとするかのように、静かに目を瞑った。           
 いい横顔であった。
「私も、重三郎様の故郷の春に遭ってみたい」                  
 雪恵が目を瞑ったまま、小さな声で言った。
 日が経つに連れ、雪恵は自らの亊も語るようになっていった。
「亡くなった夫はとても良い人でした。義理の父や母も、厳しいところもございましたが、大事にして戴きました。幸せでした。でも医者もよく解らぬ病で急に死んでしまって……、ぽっかりと心に穴が空いて……。
 そんな時、お義母様が、一緒にいた雪恵や私が早く気付いてやっていればと、寂しそうにぽつんと言われて……。私もずっとそう思い悔やんでいました。なぜもっと早く気付いてやれなかったのだろうって……。
 お義母様も、心に穴が空いて、寂しくて、悲しくて、苦しくて、悔しくて……。同じ思いだったのですね、きっと。私と一緒に暮らすことで、夫を思い出し、毎日が辛いのではないかと……。人が生きて行くって、心に傷を負いながら生きて行くのですよね。父も母も……。 
 子供も出来ませんでしたので、義弟が好きだった人と一緒になって家を継ぐことになり、祝言を挙げた翌日にお暇を戴いて戻って参りました」
「そうですか。人の運命めなど、人知の及ぶところではありませんよ。医者が診ても解らぬような、今の今まで元気だったのになんて云う事も沢山あります。現に私だって、何処が悪いのかさえ解らない。
 あなたの父上や母上だって、その傷を、あの春の芽吹きのように優しく、柔らかく、暖かく包みあって生きて来たのではないのですか。また来る春のように甦って、元気を出して自分を生きて下ださい」
「はい、重三郎様も、病なんぞに負けないで、元気に生きて下ださいね」
 雪恵は空の彼方をじっと見据えたまま、そう言った。
「何だか、心の中が少し軽くなったみたい。ありがとう重三郎様」
 己が心に傷を負い悲しみ苦しんでいても、人の心の傷を優しく包み込み、思いやってやれる雪恵の心根に、重三郎は心魅かれるものを覚えるのであった。
 そしていつの間にか、昼の弁当を持って雪恵が現れ、川原でそれを戴きながら過ごす時を心待ちするようになっていた。        
 雪恵と語らっていると、穏やかな不思議な気持ちに包まれ、遠い昔からこうしていたような、そんな気がしてくるのであった。
 雪恵も、
「何だか、生まれる前からここでずうっとこうしていたような、そんな気がしませんか。重三郎様と二人で座っていると、心が澄んで、温まって、落ち着いて、川の流れの音の中へ吸い込まれてゆくような気持になるの……」と、同じように感じているようであった。
 重三郎は、未だ女人に恋心というものを抱いたことは無かった。 
 そんなものは、剣を極めようとする自分には無縁のものと、見向きも、考えもして来なかったのである。
 今この時、雪恵に抱いた自分の感情が、女人への恋慕の情であることに、重三郎が気付くことは無かった。

「よーくこんなに毎日鮎釣りばかりしていて、お飽きになられないのですか。お疲れになられないのですか、重三郎様」と、雪恵が笑う。   
「ははははは、儂も呆れておる。今日でもう幾日になるか」            
「二十日と一日になりますよ、重三郎様」
「日和が良かったからのう。大した雨の日も無かったし、美味しい弁当と雪恵殿の笑顔と、小兵ェさん夫婦のお陰じゃの」
「疲れがお溜まりになられて……。病の方は如何なのですか。重三郎様」
「ありがとう。何かの、こう身体の中から力が満ちて来るような気がしてな、自分でも不思議なくらいなのじゃ。この旅のことは先日も話したと思うが、この旅に出て、儂は変わったと思う。死と云うものを素直に受け入れていたと思っていた自分を、吉次や平太や、千代殿、サト殿、新十郎殿、惣吉夫婦、作衛門夫婦。皆それまで見も知らなかった人々が、その心の優しさで温かく包んでくれ、儂の命を蘇らせてくれた。今、この身の内に大きくなってゆく、生きることへの執着のようなものを、ひしひしと感じるのだ。そしてそれ以前、修行の旅の最初から、自分は多くの人々にそんなものを戴いていたのではないのかと……。もう取り返しの付きもせぬ昔のことだが……。今となっては恩返しも出来ぬ、こうして鮎釣りをしながら思うのだよ、今を生きているのは、儂の中にいるそんな人々の優しさの賜物なのだと。悔やむことも数多ありはすれども……、生きてゆける限り生き抜くのが、儂に力を与えてくれた皆への恩返しなのではないかとも思えるのだ。 
 そしてここでも、山や川や、魚や鳥や、草や木や、人の温かさ、優しさ、御父上の野菜や由美殿の笑顔や、小兵ェさん夫婦や。そんな皆から少しずつ元気のようなものを戴いて、何だか若返って行くような気さえするのじゃ。二十日余りもこんなきつい鮎釣りをやり続ける事が出来るなんて、夢のようじゃよ。今だけでは無い、来る年の春には榎の葉釣りを、夏には鮎釣りを、夢見るが如くに待てる、こんな幸せは無い。そしてそれが終わりではなく、その次の春、そして夏、あの少年の時のように川を駆け廻る夢を見続ける自分がいる。今日を、明日を生きることだけに恬淡として向かい合っていた自分に、来る春を見たいと思い出させてくれたのは、あの春と母なのかも知れぬ。今、忘れ得ぬ人々の力が、儂をその先の春に、夏に誘おうとしてくれている。生きよ、生きてみよと優しく微笑んでくれている。そんなみんなの笑顔が見えるのだよ、本当にありがとう雪恵殿」
「雪恵も元気ですからね、雪恵の元気でよかったらいっぱい差しあげますよ。病なんて吹き飛ばして長生きしてくださいね、重三郎様」
「ありがとう」
「小兵ェさんがね、儂でも十日に一度くらいは休むって。あんなじゃ身体が持たない、さすがに鍛え方が違うって、感心していましたよ。それとも呆れていたのかしら」と笑い、言葉を続けた。
「後藤様は、釣りが終わると、最初の囮の鮎を、ありがとうって呟いて川にお放しなさる。剣が強いと云うだけではございませんね、不思議な御方じゃ、好い釣り姿じゃって、嬉しそうに笑ってもいたわ、重三郎様」   
「ははははは、見られていたか。お恥ずかしい」       
「どうしてお放しになられるのか、雪恵には解るような気が致します、重三郎様」
「小兵ェさんが言っておった、そろそろ鮎釣りも終わりだと。あとひと雨降ったら鮎達は下り始めると……」
「落ち鮎の節になるのですね、重三郎様」
「そうらしい。そういえば、山も少し秋の色が見え始めたようじゃのう、そろそろ儂も……」
「行かれるのですか、また旅へ。御発ちになられるのですか、重三郎様」
「……」
 雪恵の目に、見る見るうちに涙が溢れ、やがて鼻水が流れ、堪え切れずに嗚咽が漏れる。
「まだ鮎は釣れるよ」と、思わず雪恵の肩に手を掛けようとした時、雪恵はいきなり立ち上がり、弁当を片付けると川原を逃げるように走り、帰って行った。      
 庵に戻ると、
「御発ちになられるのでございますか」と由美が悲しそうに、不安そうに問う。
「すぐにと云う訳では……」

 しかし、無情の雨はすぐにやって来た。
 冷たい晩秋の雨であった。
 川は少し水嵩を増したが、翌々日にはもう元の川に戻っていた。
 その朝重三郎は、急に冷たさの増した晩秋の朝の気配を肌に感じ、何か不安な予感のようなものに包まれながら川原に立った。
 鮎は、釣れるには釣れた。が、釣れてくる鮎達は、僅かひと雨で、もうあの夏の力を秘めたそれでは無かった。
 親鮎にして引くと、すぐに体色が黒ずみ、あの強い力も失われ、侘しさを漂わせるようになっていた。もう釣りをするには忍びない、最後の力を残し、僅か一年の命を閉じるべく産卵へ向かう鮎の姿であった。
 ふと、重三郎の心に、その鮎の一生と重なる自分が見えたような気がした。
 人もまた同じなのであろう、自分もまた、死すべき地を求めて故郷へ戻らんとしているのではなかろうか……。
 昼過ぎ、重三郎は釣れた鮎達を全て川へ放すと、鮎達に、そして揖保川に頭を垂れ、別れを告げた。
 その日、雪恵は川へ現れなかった。
 小兵ェ夫婦が、家の前で待っていた。
「どうでございましたか」
「仰しゃられたように、もう終わりのようですな。釣るのがちょっと可哀そうになり、寂しさのようなものを感じて、竿を仕舞いました」
「何匹か釣れていたようでしたが、みな川へお返しになられたのですか」
「はい……」
 白湯を戴いていると、かみさんが、
「鮎の節の終わりは、何だかいつも寂しいねぇ」と、ぽつんと言った。
「また旅へお発ちになられるのですか」
 そう言った小兵ェの言葉にも、どこか寂しさが感じられた。
 この二人も、心の何処かで落ち鮎の季節と重なってゆく重三郎との別れを惜しんでいるのだ。
「近々……。大変お世話になり申した、何かこう幼き頃に戻って川を駆け巡ったような日々でござった。故郷の家の近くにも鮎の遡って来る川がござる、この竿で思う存分鮎を釣って見ようと夢見ているのじゃがの、もう今から来年の夏が楽しみでのう」
「雪恵様、今日はいらっしゃいませんでしたね。お発ちになられると知ったら寂しがられますよ」
「そうだよな、毎日弁当持って来てらしたものな。生き生きとして、とても嬉しそうだった」
「……」
 重三郎は心の奥に、恐らく生まれて初めて感じるのであろう、故知れぬ熱いものがこみ上げてくるのを覚えていた。
 あの日以来、雪恵の口数が少なくなった。そしてあの雨。雪恵の顔に不安げな翳が色濃く感じられた。
「お世話になり申した。発つ時はお寄り出来ぬと思う、これにて失礼仕る。お元気で、いつまでもな」
「ありがとうございます。根っからの釣り好き、川に魚がいる限り元気で頑張ってますよ」
「道中くれぐれもご自愛ください、お身体も大切にして下だせぇまし」と、かみさんが涙声になって頭を垂れた。
 いい夫婦である、川沿いの苫屋で、過分を望まず、川と魚と共に生きている。何か、人のあるが儘の姿に遭えたような気がする重三郎であった。

 その夜も雪恵はほとんど口を利かず、食事が終わると奥の部屋へ消えた。
 酒も、話も、余り弾まなかった。
 朝、雪恵の姿は庵に無いようであった。
 部屋の隅に、新しい草鞋が三足、束にされて置かれてあり、旅の用意がなされてあった。     
 朝餉が終わった時、重三郎は重い何かをふっ切るように口を開いた。
「これにて失礼仕ろうと思います。長い間御迷惑をお掛け致しました、何か心洗われるような日々でございました」
「やはりお発ちになられますか。お引き留めしたきところなれぞ、それは叶いますまい。今夜から寂しゅうなりますな」          
「これから寒くなります。御身体大切に、本当に大切になされて旅を続けてくださいね」
 由美が、涙を両の目にいっぱい溜めて泣き出した。
「雪恵が、一応旅の御支度をしておきました。これから寒くなると、冬用の着物も雪恵が縫って御用意しております、御着替えになられてお行き下ださい。それにこれは竿袋だと申しておりました」
 由美は、それだけ言うのが精いっぱいであった。
「……」
 重三郎は無言のまま頭を垂れてそれを受け取った。
「別れが辛いのでしょうな、先ほど、こっそり抜け出していったようです」
「そうですか。お世話になりっ放しで……」
「解っていますよ、大丈夫ですよ。あれで結構しっかりした子ですから」
 雪恵の縫ってくれた着物に袖を通す。恐らく、あの日以来、重三郎との別れを悲しみながら、一人部屋に籠もり縫い続けてくれたに違いあるまい。雪恵の思いと温かさが感じられてくるような気がした。竿袋も、二本の竿がしっかりと収まるように拵えてあった。
 支度し終わると、重三郎は二人の前に座り、荷物の中から金の包みを取り出し、
「これをお受け取り戴けませぬか」と、小判の包みを差し出した。
「何の真似でござるか」
 清野が困惑の表情を露わにし、少し声高になった。
「聞いてくれ。旅の物語りにもお話したであろう、この金は儂のものであって、そうでは無い、何とも旅する身には厄介な代物なのじゃ。いや重いだけでもそうなのにな……。情が絡んで、断り切れずにな、同じ位の金子がまだここにある。どうする、こんな身の儂に、どうしたらいい、使い道もあるまい。差し出がましいのは承知で頼む、雪恵殿の為に使うてくれ。口には言えぬほど雪恵殿にはお世話になった、当り前の暮らしをしておれば、儂にも雪恵殿のような子がおったであろう。このひと月、本当に楽しかった、嬉しかった。あの笑顔がこれから先の儂の宝となる、生きてゆこうとする力になる。儂の我が儘な親心と思うて、失礼を承知でお頼み申す。どうか納めてやってくれ、頼む」   
「そのお言葉、雪恵が喜びます。それだけで十分でございます。ね、三郎兵ェ様」
「重ねてお頼み申す」
 後は何も言わず、重三郎は頭を垂れ続けた。
「分かり申した。別れに押し問答致しても仕方ございますまい、雪恵が何と言うかは解りませぬが……。多分お受けしないと思います。その時は為替にてお返し申す。それで良いな、由美」   
「はい、三郎兵ェ様」
 応えた由美の目にも、清野のそれにも、何か同じ決意のようなものが込められていた。が、重三郎にそれを解する事は出来なかった。 

 こんな気持ちの別れは初めてであった。            
 重三郎、これまでの修行の旅において、殊更に別れというものを意識した事は無い。それは、長く続いた流離いの旅の中で、自ずと身に着いたものであったのかもしれない。若い頃は潔よくと心掛け、それが歳と共に恬淡と……。
 この旅の別れは、いつも辛かった。だが心の何処かに晴れやかな、清しさみたいなものが在った。
 が、今日の別れは違った。身を切られるような、後ろ髪引かれるような、寂しく切ない別れであった。
 半里ほど来た頃だろうか、重三郎は何処かで自分の名を呼ぶ雪恵の声を聞いたような気がして振り返った。
 が、そこには誰もいず、小川のせせらぎと、静かに佇む雑木林があるだけであった。
 その雑木林に向かって、重三郎はもう一度頭を下げ、別れを告げた。

    煙霞の痼疾未だ止み難く候 其の五(二)
          「播磨,新宮」終わり
            其の六 「湯田」へ続く
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