第3話 上賀茂神社の影

文字数 4,950文字

 五月の連休、この休み中も、ソラたちは練習のため、日帰りの登山に出掛けたり、学校で地図読みの勉強会をしたりして、忙しかった。
 そんな連休最終の日曜、やっと時間があいて、ソラは前からの小町さんとの約束だった上賀茂神社に来ていた。
 参道の赤い立派な一の鳥居をくぐると、とたんに空気が変わった気がする。
 ソラは、広くまっすぐ伸びる参道を、ゆっくりとその雰囲気を楽しみながら歩いた。
 日曜とあって、参拝する人も多い。
 さすがに歴史ある神社だ、この京都でも、神社としては最も古いものの一つといわれるだけのことがある。その広く澄みわたった空気感は、気持ちよかった。
 二の鳥居を入ると、境内正面の細殿(ほそどの)と呼ばれる建物の前には、立砂(たてす)という円錐状に高く盛られた砂の山が二つ、左右対称に作られているのが目をひく。砂山のてっぺんには松の葉が立てられていて、これは、祭神が神話で降臨したとされる神山(こうやま)をかたどったもので、祭神の依代とされるもの。上賀茂社のシンボルにもなっている所だ。
 円錐状の砂山は、ソラの背ほどもあり、それが二つ、あたりの空気を清めている。これも結界の印なのだろう。
「小町さん、これが上賀茂の立砂だよ。これ、ちょっと描いてみたいかも」
 ソラが、細殿の前で、バックの中の小町さんに声をかける。
 肩にさげたバックには小町さん専用の小さなのぞき穴をつくってある。
 小町さんは、相手からその存在を意識されなければ、消えることはないので、そっとのぞき見はできる。ちなみに小町さんの実体化したサイズはソラの描く絵の大きさで自由に調整できるので、小町さんは、ソラとの観光を、こんなふうにして楽しんでいた。
 境内を奥に進んでいくと朱色の立派な楼門が迎えてくれる。
 その前では、あたりの雰囲気とはちょっと似つかわしくない、イベントも開かれていた。
 ひときわ大きなテントが立ち、『天と地の歌うたい』と書かれた大きな看板と共に、派手なアニメのポスターが目を引く。
 この秋に公開される長編アニメ映画とのコラボ企画らしい。なんでもそのアニメの重要な舞台として、この上賀茂神社が使われるようで、そのアニメ映画公開の記念として、「天と地の歌うたい展」が行われていた。
 テントの中をのぞくと、そのアニメの設定や原画が飾られている。
 中でも作品世界を象徴するイメージ画という、大きなポスターには目を奪われた。
 それは広大な荒れ果てた荒野の中に背中合わせで立つ二人の女性の絵だ。
 一人が現代の少女、もう一人は、説明書きによると額田王とある。遠く地平線の方には、遺跡や、乗り物、走る動物などが描かれた異世界の風景だった。
 そして、この企画のメインとして、このアニメ映画をテーマにした作品コンクールが行われるということだった。
 ソラは、そんな境内の見て回り、お参りも終えると、境内横にある森のほうへ回った。
 森に入ると、こちらは人気も少なく、大きな木々の下、木漏れ日の小道が続いている。
 あたりに人がいないのを確かめて、小町さんが、そっとバックの中から顔を出す。
「小町さん、本殿の扉に描かれてあるっていう狛犬と獅子は見たかったよね。中に入れるのは秋の特別な時だけだっていうから、また来たいね」
「ソラ、それなんだが、どうも本殿の気配がおかしい気がする」
「ん? どういうこと」
「どうも本殿の結界が乱れているように感じたんだけど」
 その時、人がこちらに歩いてくる足音がしたので、慌てて小町さんは、バックに隠れる。
 森の奥から一人の髪の長い高校生ぐらいの女性が、小走りでやってくる。
 彼女は、ソラを認めると、ホッとしたように足を緩める。
 そして、少しためらったあと、話しかけてきた。
「ごめんなさい、ねえ、あっちへ行くの、やめた方がいいわよ」
 え、ソラが突然のことに、何のことかと思っていると、彼女は、
「あ、なんか変なこと言ってるよね。あのね、向こうの方、歩いてると、後ろから何かが、つけてきたのよ。初めは気のせいかと思ったんだけど、絶対何かいたの。だから、あなたも、そっちへ行くのやめた方がいいよ」 
 ソラを見つめるその長いまつげの目は、一生懸命にソラのことを心配してくれていた。
 彼女は、ソラが、うなずくの確かめると、境内のにぎやかな方へ去っていった。
「何だったんだろ? ねえ、小町さん、どう思う?」
「うーん、確かに、向こうの方に何かの気配がしたな。どうも思った以上に、この境内は騒がしいようね……」
 そういってバックから顔を出した小町さんは、珍しく難しい顔をして森の奥をじっと見つめる。
「じゃあ、やっぱり戻ろうか。でも何だろ、不審者かな……」
 ソラが、参道の方へ戻ろうと振り返ると、こちらに歩いて来る人物がいる。
 それが見知った顔だったのでソラは驚いた。
「あれ、柊くんじゃない」
「やあ」と手を上げたのは、同じクラスの柊くんだった。
「柊くんって、こっちの方だっけ」
「ああ、この近くなんだ。天見こそ、どうしたんだい?」
「うん、私は観光。一度、上賀茂神社来たかったから」
「そうか、ここ、いいだろ。僕はこの近くなんで、散歩がてらによく来るんだ」
「あ、柊くん、この奥行かない方がいいよ。今、女の人が、何かにつけられたって逃げてきたんだから。私も引き返すとこ」
 ソラの言葉に笑顔を返し、「いつも来てるから大丈夫だよ」と、手のスケッチブックを上げる。
 そうか、絵を描きに来てたのか。その絵を、ちょっと見たいと思ったが、ソラは見せてとは言い出せなかった。
 その時、ゴロゴロッと頭上で雷音が鈍く響き渡った。
 見上げると、森の上空は、いつの間にかグレーの雲に覆われている。
 空を見上げたソラは、急に不安な気持ちになり、いつまた雷が鳴るかと気が気でなくなってくる。
「ごめん、雷なってきたし、行くね」 
 彼は、いつものように静かに笑って、「じゃあ」と森へ入って行った。
 なんだか、柊くん、疲れた顔してたな……
 ふわりとした気がかりを背中に感じながら、ソラは小走りで、建物の方へ走り出す。 
 上賀茂の森は、深く濃い緑に包まれ、この神域を守っている。そのことは肌で感じられる。
 小町さんに教えてもらったのだけど、ここ上賀茂神社の神様は、賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)といい、雷の神様だった。
 
 五月に入って、一週間休んでいた中倉先生が登校してきた。
 その姿を見て俺は驚く。
 いつもの室内でも外さないサングラスは変わらないのだが、右足の膝から下をすっぽりと白いギブスが……、
「どうしたの、中倉先生、足ケガしたのは聞いてたけど、そんなひどかったの?」
「いや、それが初めはたいしたことない捻挫だったんだけど、治りかけたこの日曜に、我慢できなくなって、俺バイク乗ろうとしたんだ。そしたら、バイクが倒れて……これ」
「えー!」
「骨折、全治一か月って」
「それはご愁傷様、大事にしてよ」
「で、その葉山先生、頼みがあるんだけど」
 中倉先生はワンゲルの顧問をしている。
 だから当然、今年の三校対抗戦の監督は彼だった。それができないという。そして、何をあろう、この俺に代わりをやれというのだ。
 いや、俺、体力に自信ないし、ましてや、登山の経験もないし無理だとさんざん断ったが、結局、ほかに誰もする者がいず、俺が生徒会担当でここまで対抗戦の世話をしてきた流れから、そのまま登山の大会も面倒みろと、教頭のお達しでことは決定してしまったのだった。
 放課後、その旨を生徒たちに伝えると、全員から悲鳴が上がったものの、すぐに井澤が、
「先生、大丈夫っす、専門的なことは俺が全部みるから、大会も初心者を前提としたものだし、先生には後ろでどっかと、見守ってもらえれば」
と妙に頼もしく、他の者たちも、「まあ、なんとかなる」と、言い出して、俺は全員から慰められる始末だった。
 ただ、監督もチームの一員できちんと歩かないといけないと言われ、その日から練習に参加させられることになった。
 俺たちが、校舎階段を重いリュックを背負って登り降りしてると、中倉先生が、松葉杖をつきながら、しかも片手には自作の小旗まで持って頑張れ~! とやられた日には、さすがに、これはビールのおごりだけでは、すまされないぞと思ったのだった。
 五月も下旬を迎える頃には、メンバーともども、登山の練習にも慣れ、日常に、登山が随分根付いてきた。
 練習で、いつも顔を合わせるようになって、井澤や倉木の意外な一面も見えてくる。
 井澤はいつもの軽いのりではなく、山のことになると真剣で、顔つきまで変わるから不思議だ。日頃からいつもそうしていればいいのにと、ソラたちは、こっそり言っている。
 そして、サラサラ髪でいつも涼し気な倉木には、もっと驚かされた。色白で細身なのに、こう見えて底なしの胃袋の持ち主だったのだ。
 練習終わりに、ラーメン屋に寄るようになった女子三人なのだが、その時、倉木はいつも大盛チャーシュー麺を頼むのだそうだ。その大きなどんぶりを持つ姿が、あまりに似合わない。あの姿は、絶対男子には見せたくない。ときには追加のチャーハンもいくから、なおさらだ、と二年の二人が口をそろえて騒いでいた。
 そんなふうにして、登山に取り組んでひと月もたつと、みんな動きもきびきびとして、ザックを背負い階段を登る姿も様になってくる。
 その間も、鴨高登山隊は、週末を利用して、日帰りで近場での登山にも何度か挑戦、初心者向けのコースだったけれど、みんなで山上までたどり着いたときの感動は、やっぱり実際に登らないと味わえないものだった。
 山に入っての新たな発見は、南條のことだろう。
 一列で登山道を歩いているとき、突然、二番目に歩く南條が、
「ギャー! 」と叫んだ。
 先頭を歩く井澤が、振り向くとその場に尻もちついて動けなくなった南條の頭に、黄緑のきれいなバッタが一匹とまっていた。
 すぐ後ろにいた天見が、青くなって固まったままの南條からバッタをとってやる。
「うわー、私、だめ!」
と、パニックの南條。
 小さい頃から、虫が飛んで来るのが、これ以上ない恐怖だとか。天見がバッタを遠くへ逃がしても、まだしばらくギャーギャー騒いでいた。
「虫がさ、バーってこっち向かって来るんだよ。ありえないよ。私の顔を狙って来るの、わかる? その恐怖。もうどうしよう、草むら怖いよ~」
 普通に虫を見る分には、まだ我慢できるらしいのだが、こと虫が飛ぶと、あたりかまわず大声を上げるのだ。
 そこからは、びくついた南條は、草むらのそばを歩く度に、悲鳴をあげた。
 パーティは、そんな南條をなだめながら進み、俺たちは無駄な体力を消耗するはめになった。
ランチは、キャンプ場で作った。
 こういうときの定番、カレー、「誠吾スペシャル」にみんなで舌鼓をうった。
 倉木は、ごはんを三杯もおかわりしても、まだ不服そうな顔をして、
「今度からは食材、もっと持って来なくちゃね」と、真顔で言う。
「いや、先輩、それ運ぶの誰っすか……」
 井澤が、悲鳴を上げながら嬉しそうに笑っていた。
 登山初心者の三人の女子は、みんな、しっかりと山の魅力を感じ始めていた。もちろん、俺もだ。
 その後、井澤考案の「朱莉特訓メニュー」として、練習中、ふいにバッタのおもちゃで驚かすというのが、流行りだしたが、これは南條に井澤がこっぴどくしかられて、すぐに終わった。
 五月の最終、そんなみんなを見て、井澤が本格的な登山を計画した。もちろん、井澤は顧問の中倉先生に相談してのことだ。
「みんな、いよいよ初の本格的な山行へ、今月最後の週末に行きたいと思う」
「テント泊ね」
 倉木の言葉に、井澤がうなずく。
「本番コースの下見を兼ねて、歩いておきたいんだ。これ、きちと本番のペースとか、問題への対応が全然違うから。みんな、本番のつもりでしっかり頼む」
 三人の女子は、早速どんなおやつを持っていくかの話で盛り上がりだす。
 井澤が「荷物のことを考えてくれ!」 と叫ぶのを聞こえないかのように、みんなが口々に自分の譲れないお菓子の話で熱くなってしまう。
 生徒会室は、これから向かう山の峰をはるかに超える勢いで盛り上がるのだった。
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