第6話 雷の記憶
文字数 3,501文字
起床だ。
どのテントも、4時丁度に、満を持して動き出す。
二日目が始まった。各校の生徒がすばやく、動き回る。
出発までに、やることは多い。
朝食は昨日のごはんとインスタントの味噌汁を手早く食べる。
そのあったかさに、ほっとする間もなく、すぐにテント撤収にかかる。
ここもみんなで協力して、すばやく丁寧にだ。気心の知れた四人は、声を掛け合って、てきぱきと作業を進める。
今朝の撤収では、鴨川がそのチームワークと速さで目立った。
片付けをして荷造りが整うと、今日のルートをもう一度、四人でおさらいする。
今日はここ、藍野から南へ、昨日とは違うルートで、最初の下野村まで戻る。
しかも今日は、各校のパーティーが時間差で出発し、それぞれ単独で行動するパーティ行動になる。
これまで以上に自分たちの判断が試される。コースを間違えず、極端に遅れるとそれも減点になるので、時間も気にしなければならない。途中には、昨日同様、どこかに審査員の先生がいて、その様子が審査される。
「基本、ルートは昨日よりは楽なはずだ。ただ、ちょっと気になるのが、天気なんだ」
井澤が、ちょっとしぶい顔で、みんなに告げる。
「昨日の予報だと、どうも思っていた以上に天気が崩れそうなんだ。
早ければお昼頃、雨が降るかもしれない」
そこで、みんなは、レインコートをすぐ出せるようにザックに入れ直す。
出発の時間が来た。
まず、6時30分に甲子社、その後は鴨川、上賀茂の順で、十分ごとのスタートになる。
6時40分、鴨川のスタートだ。
井澤が、みんなに声をかけて、ゆっくりと歩き出す。
俺は出発直前までずっと、山の上の雲が気になっていた。
八月の青い空は高く、薄い雲が少し見える程度だったが、どうも、上空の雲の流れが速いように見えた。
コースは、藍野から尾根に上がり、昨日通ったシシオ峠までを折り返す尾根道を進む。
840メートルのピークをトラバース(山の斜面を横切って進むこと)し、再び尾根に戻った所が空見岳への分岐点だ。
そこを鋭角に曲がる。あたりは標識もなく、見落としやすい所だ。
ここは井澤が、地図を何度も確かめながら慎重に進む。
しばらくアップダウンを繰り返し、進むと、あたりに巨木が目立つようになってくる。
山道は巨木の森を行く。
俺たちは、神秘的な巨木が立ち並ぶ中を進んで行った。
龍のようにうねりながら大きく広がっている古い杉の巨木。
かと思うと、横たわった巨木が朽ちて、俺たちの前を遮る。
巨木の一つ一つが長い時の流れをその身で表している。
そんな山の森はどこまでも広がっていた。
ほんと、自然はすごいな。
俺たちは、森の中を、サクサクと落ち葉を踏む足音だけをさせて、黙々と歩いた。
まもなく雷杉と呼ばれる杉が見えるはずだった。
先頭を行く井澤が、立ち止まって高い木々の上に見える空を見上げた。
「どうも、いやな雲だな。やっぱり雨が降るかもしれないな」
確かに、さっきまでなかったグレーの雲が西からどんどん流れている。
雲の動きは速く、風が森を揺らしている。バサバサという葉擦れの音に、みんなは不安気だ。
その時、遠くで雷の音が鈍く聞こえた。
「大変だ、雷まできちゃったよ。おい、みんな急ぐぞ、尾根で雷はまずい。早く進もう」
井澤の言葉に、みんなは表情を引き締め、足を速める。
急ぐパーティーの中で、前を行く天見の様子がどうも気になった。
頬が強張り、顔色も悪い
ようやく雷杉が見えてきた。
かつて雷に打たれたのだろう、割れて焦げ、中が中空になった杉の古木が、俺たち一行を迎える。周辺には大杉が林立し、ブナやナラ、トチの広葉樹が枝葉を広げていた。
本当なら、このあたりで小休止する予定だったが、空模様を考えて一行は先を急ぐことにする。
雷杉を見上げていた天見が、突然頭からつま先までしびれたようにビクリとして、ひどく顔を曇らせた。
「大丈夫か天見?」
俺が背中から問いかけても、小さくうなずくだけだ。前を行く伊山との間隔が開きだした。
「大丈夫か?」
将大先生の問いかけも、ソラには、なんだかさっきから頭に薄いヴェールがかかったようで、遠くに聞こえた。
青空はいつの間にか鼠色の雲に覆われ、昼だというのに薄暗くなっている。
その時、ガラガラガラッっと空が割れるような音が間近に轟いた。
雷!
そう思ったとたん、ソラの頭に、突如、それまで心の奥底に無理やり押し込められていた何かがよみがえった。
「伏せろ!」と誠吾や将大先生の声がする。
先頭の誠吾の誘導で、一行は尾根を少しはずれた道の脇へ避難しようとしていた。
「あれ、ソラは?」
美紅が、後ろをついて来ないソラに気づいた。
振り返ると、向こうの道にうずくまっている。
すぐに美紅は、ソラのもとに戻った。将大先生が、そばで声をかけていたが、ソラはじっとうずくまって動かない。
「どうしたの、ソラ? 身体、どうかした?」
美紅が呼びかけたが、頭を抱え込んだソラは、ハアハアと息も荒く、うめくだけだった。
雷が再び、すぐ頭の上でゴロゴロゴロと鈍く体をふるわせるような、うなりをあげた。
「雷がひどくなる前に急ごう」
美紅の声にも、ソラは動けなかった。
ソラは、将大先生と誠吾に両脇を抱えられて、尾根をはずれた茂みへ運ばれる。
その時、ソラは、脳裏に幼いころの光景がフラッシュバックし、それに飲み込まれていた。
それはまだソラが幼稚園の頃。
思い出すことを拒み、心の底深くに沈めて、すっかり忘れたように思っていた記憶。
暗闇で、初めての恐怖と絶望を感じた記憶。
……それまで、まだ優しい声もかけてくれていた母さん、二つ年下の妹が生まれた。妹は生まれつき病気がちで母さんは、いつも妹につきっきりになることが多くなった。そして、ソラの周りから、それまであった温かいものが消えていった。
それが、ソラには理解のできない世界の始まりだった。
それまで信じていたものがすべて覆された。
まだ幼いソラが、一人で留守番をしていた夏の夕暮れ、突然のどしゃぶりに見舞われた。母さんは今日も、妹と病院へ行っていた。
激しい雷、落雷を思わせる激しい衝撃が、何度も家全体を震わせた。
停電で真っ暗になった部屋の中で、一人、ソラは「お母さん!」と何度も叫びながら泣き続けた。
でも、暗闇の中、誰もソラを助けになど来てくれなかった。
激しい落雷の音は永遠に続くかと思われ、カーテン越しに稲妻の光が何度も闇を打った。
ソラは、クッションの下に頭をつっこみ、激しく泣き続けた。永遠に続くかのような恐ろしい時間の中で、やがてソラは、息が苦しくなってついには恐怖のあまり気を失ってしまった。
どのくらい時間がたったのか、暗闇のリビングで気付いたソラは、まだ闇の中に、一人いた。
雨は止んでいたが、今度は深い静寂の闇の中、ソラは幼い心に、逃れられない恐怖を染み渡らせていった。
一人、いくら助けを求めても、誰も応えてくれなかった恐怖の闇、それをもたらした稲光の光。
それ以来、ソラは、雷が異様に苦手になった。その記憶は、心の奥に深く沈み、なぜそれほど怖いのかの理由もいつしか忘れてしまっていた。
それが、今、突如、ソラの心の表層に浮き上がってきた。
意識が少し戻ると、ハアハアという自分の息をする音がやけに大きく、速かった。
息がどんどんできなくなっていく。
「大丈夫?」
みんなの声が、辛うじてソラの意識を呼び戻す。
しばらく、その場に皆は待機する。
幸い、雷はそれ以上続かず、ゴロゴロという雷の鈍い音は、だんだん遠ざかっていった。
まだ、雲を時折光らせているが、音は遠くなる。
ソラは、花山先生から教えてもらった、こういう時の呼吸法を、やっと思い出し、心の中で数を数えながら、ゆっくりと息を吐くことに集中する。
少しずつ、心が戻ってきた。ソラは、朱莉に水筒のお茶を飲ましてもらって、ようやくしゃべれるようになった。
過呼吸も落ち着いてきたようだ。
「ごめん、みんな」かすれたソラの声。
「ソラ、落ち着いてきたか?」
美紅のいつもの声を聞いて、少しソラの頬に血の気が戻ってくる。
――そう、みんながいる。
「大丈夫? 歩ける?」
朱莉が、ソラと同じくらい青い顔をしてそう言う。
みんなの手を借りて立ち上がったソラは、「ごめん、もう大丈夫だから」と無理に笑おうとして、失敗する。顔が固まってうまく表情をつくれなかった。
ただ、身体は動けるようになった。呼吸も落ち着いた。
雷は遠のき、東の空を時折光らせ、時間差のある雷音が、まだ鈍く聞こえていた。
どのテントも、4時丁度に、満を持して動き出す。
二日目が始まった。各校の生徒がすばやく、動き回る。
出発までに、やることは多い。
朝食は昨日のごはんとインスタントの味噌汁を手早く食べる。
そのあったかさに、ほっとする間もなく、すぐにテント撤収にかかる。
ここもみんなで協力して、すばやく丁寧にだ。気心の知れた四人は、声を掛け合って、てきぱきと作業を進める。
今朝の撤収では、鴨川がそのチームワークと速さで目立った。
片付けをして荷造りが整うと、今日のルートをもう一度、四人でおさらいする。
今日はここ、藍野から南へ、昨日とは違うルートで、最初の下野村まで戻る。
しかも今日は、各校のパーティーが時間差で出発し、それぞれ単独で行動するパーティ行動になる。
これまで以上に自分たちの判断が試される。コースを間違えず、極端に遅れるとそれも減点になるので、時間も気にしなければならない。途中には、昨日同様、どこかに審査員の先生がいて、その様子が審査される。
「基本、ルートは昨日よりは楽なはずだ。ただ、ちょっと気になるのが、天気なんだ」
井澤が、ちょっとしぶい顔で、みんなに告げる。
「昨日の予報だと、どうも思っていた以上に天気が崩れそうなんだ。
早ければお昼頃、雨が降るかもしれない」
そこで、みんなは、レインコートをすぐ出せるようにザックに入れ直す。
出発の時間が来た。
まず、6時30分に甲子社、その後は鴨川、上賀茂の順で、十分ごとのスタートになる。
6時40分、鴨川のスタートだ。
井澤が、みんなに声をかけて、ゆっくりと歩き出す。
俺は出発直前までずっと、山の上の雲が気になっていた。
八月の青い空は高く、薄い雲が少し見える程度だったが、どうも、上空の雲の流れが速いように見えた。
コースは、藍野から尾根に上がり、昨日通ったシシオ峠までを折り返す尾根道を進む。
840メートルのピークをトラバース(山の斜面を横切って進むこと)し、再び尾根に戻った所が空見岳への分岐点だ。
そこを鋭角に曲がる。あたりは標識もなく、見落としやすい所だ。
ここは井澤が、地図を何度も確かめながら慎重に進む。
しばらくアップダウンを繰り返し、進むと、あたりに巨木が目立つようになってくる。
山道は巨木の森を行く。
俺たちは、神秘的な巨木が立ち並ぶ中を進んで行った。
龍のようにうねりながら大きく広がっている古い杉の巨木。
かと思うと、横たわった巨木が朽ちて、俺たちの前を遮る。
巨木の一つ一つが長い時の流れをその身で表している。
そんな山の森はどこまでも広がっていた。
ほんと、自然はすごいな。
俺たちは、森の中を、サクサクと落ち葉を踏む足音だけをさせて、黙々と歩いた。
まもなく雷杉と呼ばれる杉が見えるはずだった。
先頭を行く井澤が、立ち止まって高い木々の上に見える空を見上げた。
「どうも、いやな雲だな。やっぱり雨が降るかもしれないな」
確かに、さっきまでなかったグレーの雲が西からどんどん流れている。
雲の動きは速く、風が森を揺らしている。バサバサという葉擦れの音に、みんなは不安気だ。
その時、遠くで雷の音が鈍く聞こえた。
「大変だ、雷まできちゃったよ。おい、みんな急ぐぞ、尾根で雷はまずい。早く進もう」
井澤の言葉に、みんなは表情を引き締め、足を速める。
急ぐパーティーの中で、前を行く天見の様子がどうも気になった。
頬が強張り、顔色も悪い
ようやく雷杉が見えてきた。
かつて雷に打たれたのだろう、割れて焦げ、中が中空になった杉の古木が、俺たち一行を迎える。周辺には大杉が林立し、ブナやナラ、トチの広葉樹が枝葉を広げていた。
本当なら、このあたりで小休止する予定だったが、空模様を考えて一行は先を急ぐことにする。
雷杉を見上げていた天見が、突然頭からつま先までしびれたようにビクリとして、ひどく顔を曇らせた。
「大丈夫か天見?」
俺が背中から問いかけても、小さくうなずくだけだ。前を行く伊山との間隔が開きだした。
「大丈夫か?」
将大先生の問いかけも、ソラには、なんだかさっきから頭に薄いヴェールがかかったようで、遠くに聞こえた。
青空はいつの間にか鼠色の雲に覆われ、昼だというのに薄暗くなっている。
その時、ガラガラガラッっと空が割れるような音が間近に轟いた。
雷!
そう思ったとたん、ソラの頭に、突如、それまで心の奥底に無理やり押し込められていた何かがよみがえった。
「伏せろ!」と誠吾や将大先生の声がする。
先頭の誠吾の誘導で、一行は尾根を少しはずれた道の脇へ避難しようとしていた。
「あれ、ソラは?」
美紅が、後ろをついて来ないソラに気づいた。
振り返ると、向こうの道にうずくまっている。
すぐに美紅は、ソラのもとに戻った。将大先生が、そばで声をかけていたが、ソラはじっとうずくまって動かない。
「どうしたの、ソラ? 身体、どうかした?」
美紅が呼びかけたが、頭を抱え込んだソラは、ハアハアと息も荒く、うめくだけだった。
雷が再び、すぐ頭の上でゴロゴロゴロと鈍く体をふるわせるような、うなりをあげた。
「雷がひどくなる前に急ごう」
美紅の声にも、ソラは動けなかった。
ソラは、将大先生と誠吾に両脇を抱えられて、尾根をはずれた茂みへ運ばれる。
その時、ソラは、脳裏に幼いころの光景がフラッシュバックし、それに飲み込まれていた。
それはまだソラが幼稚園の頃。
思い出すことを拒み、心の底深くに沈めて、すっかり忘れたように思っていた記憶。
暗闇で、初めての恐怖と絶望を感じた記憶。
……それまで、まだ優しい声もかけてくれていた母さん、二つ年下の妹が生まれた。妹は生まれつき病気がちで母さんは、いつも妹につきっきりになることが多くなった。そして、ソラの周りから、それまであった温かいものが消えていった。
それが、ソラには理解のできない世界の始まりだった。
それまで信じていたものがすべて覆された。
まだ幼いソラが、一人で留守番をしていた夏の夕暮れ、突然のどしゃぶりに見舞われた。母さんは今日も、妹と病院へ行っていた。
激しい雷、落雷を思わせる激しい衝撃が、何度も家全体を震わせた。
停電で真っ暗になった部屋の中で、一人、ソラは「お母さん!」と何度も叫びながら泣き続けた。
でも、暗闇の中、誰もソラを助けになど来てくれなかった。
激しい落雷の音は永遠に続くかと思われ、カーテン越しに稲妻の光が何度も闇を打った。
ソラは、クッションの下に頭をつっこみ、激しく泣き続けた。永遠に続くかのような恐ろしい時間の中で、やがてソラは、息が苦しくなってついには恐怖のあまり気を失ってしまった。
どのくらい時間がたったのか、暗闇のリビングで気付いたソラは、まだ闇の中に、一人いた。
雨は止んでいたが、今度は深い静寂の闇の中、ソラは幼い心に、逃れられない恐怖を染み渡らせていった。
一人、いくら助けを求めても、誰も応えてくれなかった恐怖の闇、それをもたらした稲光の光。
それ以来、ソラは、雷が異様に苦手になった。その記憶は、心の奥に深く沈み、なぜそれほど怖いのかの理由もいつしか忘れてしまっていた。
それが、今、突如、ソラの心の表層に浮き上がってきた。
意識が少し戻ると、ハアハアという自分の息をする音がやけに大きく、速かった。
息がどんどんできなくなっていく。
「大丈夫?」
みんなの声が、辛うじてソラの意識を呼び戻す。
しばらく、その場に皆は待機する。
幸い、雷はそれ以上続かず、ゴロゴロという雷の鈍い音は、だんだん遠ざかっていった。
まだ、雲を時折光らせているが、音は遠くなる。
ソラは、花山先生から教えてもらった、こういう時の呼吸法を、やっと思い出し、心の中で数を数えながら、ゆっくりと息を吐くことに集中する。
少しずつ、心が戻ってきた。ソラは、朱莉に水筒のお茶を飲ましてもらって、ようやくしゃべれるようになった。
過呼吸も落ち着いてきたようだ。
「ごめん、みんな」かすれたソラの声。
「ソラ、落ち着いてきたか?」
美紅のいつもの声を聞いて、少しソラの頬に血の気が戻ってくる。
――そう、みんながいる。
「大丈夫? 歩ける?」
朱莉が、ソラと同じくらい青い顔をしてそう言う。
みんなの手を借りて立ち上がったソラは、「ごめん、もう大丈夫だから」と無理に笑おうとして、失敗する。顔が固まってうまく表情をつくれなかった。
ただ、身体は動けるようになった。呼吸も落ち着いた。
雷は遠のき、東の空を時折光らせ、時間差のある雷音が、まだ鈍く聞こえていた。