第1話 新しい季節の始まり

文字数 6,016文字

 京都の東、鴨川のほとりにある鴨川高校、通称、鴨高は、今でこそ普通科が一クラスあるものの美術専門校として明治時代に開校した学校である。石造りの三階建て校舎は、一階に並ぶ格子になったアーチ窓が重厚で百年を超える歴史の一端を感じさせる。
 その校舎の横を流れる鴨川では、鴨高の二年生が、四月の輝く陽光の中、河川敷のそこここでスケッチをしていた。
 二年になって最初の実習課題は「春の風景」だ。
 桜のシーズンも終わり少し落ち着いたとはいうものの、観光客や街の人たちが、川岸の歩道をのんびりと行き交い、興味深そうに彼女たちの画板をのぞき込む人もいる。
 俺は、河川敷を歩きながら、生徒たちを見て回る。
 俺の名は、葉山将大、こいつらの二年一組の担任だ。教科は国語。
 今日は、急遽担当の中倉先生の代役で実習時間の監督をしていたが、鴨川でのんびりみんなの絵を見ているだけっていうのは、いいもんだ。
 国語だとそうはいかない。教材研究に何時間もかかる俺からすると、こういうのは、うらやましいの一言だ。が、俺には美術の才能はないのだから仕方ない。というより、美術好きなこいつらにいかに国語の面白さを伝えられるかに燃えるというものだ。
 河川敷の歩道を歩いていると、一人だけ上流の方に離れた所で描いている生徒が目についた。
 誰だ、あんな遠くまで、ん? あれは天見か。
と思っていると、一陣の風が鴨川を吹き抜け、風にあおられて、天見の描いていた画用紙が空へ舞い上がった。
 あ、と天見が立ち上がり、空へ向かって手を伸ばすが、画用紙はひらひらと空を舞い、土手の上、一本の葉桜のてっぺんに引っかかってとまった。
 画用紙は、はるか上、大きな桜の木のてっぺんにひっかかっていて、落ちてきそうにない。
 あんな高い所、どうしたものか、とにかく行ってやるか。
と、足を踏み出したとき、天見がスケッチブックを取り出して、しゃがみ込み、絵を描きだした。
 あ、あいつこんなとこでやる気だな。
 俺は止めようとして、急いで足を速める。
 が、遅かった。
 天見が立ち上がると、そのスケッチブックの上には、いつの間にか、一匹のモノクロの猫がいた。
 スケールが間違っているのかと思うような小さな三毛猫だ。
 その猫は、身軽に天見の手元から離れると、風のように土手を駆け上がって行く。
 そのまま、家の塀に、そこから、まるで体重を感じさせない軽やかな動きで、木の枝に飛び移った。そのまま木の幹を上へ爪を立てて駆け上がる。
 ガサガサと葉が揺れて、ひょっこりと木のてっぺんに顔を出したモノクロのトビは、そのまま細い枝を伝って、ソラの絵までたどり着いた。
 天見と目があうと、画用紙を口でくわえ、落とす。
 ひらひらと白い画用紙が、落ちてくるのを、天見はうまくキャッチした。
「ナイス、トビ! ありがとね」
「おい、ナイスじゃないだろ。あんまりどこでもその力を使うなよ」
「あ、将大先生、見られたか」
「見られたかじゃないだろうが」
「大丈夫だよ、もし誰かがいたら消えちゃうだけだから。トビのこと見れるの、先生だけなんだから。
 おいでトビ!」
 その声に応えて、木の上のモノクロ猫は、ニャッと短く鳴くと、そのまま枝をけって空中に飛び出し、くるりと身体をひねって落ちてきた。
 それが、俺たちの目の前に降りる寸前で、ふっとその姿が消えてしまう。
「おーいソラ! もうすぐ時間だよ。戻ろう」
 川下の方から伊山の声がした。見ると、伊山が向こうで手を振っていた。
 背が高く、何をやっても派手な伊山の、よくとおる声が広い鴨川の河川敷に響く。
 ああやって手を振っているだけで、鴨川中の人たちの視線を集めている気がする。
 天見は俺に向かって「ほらね」と口だけ動かすと、
「わかった~、美紅!」
と返事をして、今手元に戻った画用紙を画板にきちんとはさみ、道具を片付けにかかった。
「お~い、ソラ、早く行かないと売店のアイス売れきれるぞ~」
 それを聞いて、ダッシュで駆けていく天見の背を見送る。
 俺は昨年に引き続いて普通科を持ち上がる形で、二年一組の担任だ。
 普通科は一クラスだけなので、変わらないメンバーとは、互いを知るつきあいになるのだが、特に天見については人には言えないことも知ってしまっていた。
 天見空(ソラ)は、ちょっと特殊な生徒だ。
 男子と見まがう、ショートカットで色白のスレンダー、線は細いが、しなやかなバネを感じさせる。少しつり気味の大きな目はきりりとして、さっきの猫と似た雰囲気だ。どこか無色で澄んだ印象を受ける生徒だ。
 そんな天見には、人には言えない秘密の力があった。
 それは、絵に描くことで、その対象を絵に呼び出す力。
 呼び出すことができれば、相手が動物でも、絵画でも、絵の中で動き、会話することができる。
 突然動き出した自分の絵に驚いたのは、もう二年も前の中三の時。
 対象を絵に呼び出せるこの力は、小町さんによれば、古代よりある、神子(みこ)の力だという。あの平安時代の陰陽師、阿部晴明がつかった式神と同じようなものらしい。
 巫女ではなく、神子(みこ)、それは、古代より天と人とをつなぐお役目を担う者のことだ。
 天の言葉を人に伝え、人の言葉を天に伝える。
 平安時代の歌人として知られる小野小町、彼女も神子だった。
(鴨川学校玄関ホールに飾られている有名画伯の手による日本画「小野小町」の小町さんを天見が描いて、呼び出してしまったのが去年の夏、それ以来、小町さんの指導のもと、日々、神子の修行に明け暮れる……かというと、そういうこともなく、小町さんは、現世に現れることができたのを、ただ楽しんでいる。
 そのため、天見は、小町さんにせがまれては、京都のあちこちの現代観光につきあうのが、最近の休日のお決まりなようだ。)
 天見は、小町さんから、そういった神子の働きを教えてもらった。小町さんは、いわばソラの神子の師匠だ。
 天見の祖母、オタキさんによれば、天見の祖母の家は代々、アメノウズメを祀る神社の巫女を務めたというから、そういうことも関係しているのかもしれない。
 この不思議な力は相手を選ぶ。
 どんな対象なら呼び出せるかというと、心のあるものだというのが、これまでの経験でわかっている。動物だけでなく、名作といわれるような絵や石像なんかも心が通じるものがある。名品には魂が宿るというが、天見にはそういったものを感覚的に感じることができるとしか説明できないようだ。しかも、ややこしいのは、相性や好き嫌いがあるのだろう、その対象の心が天見を受け入れてくれないと呼び出すことはできないのだ。だから、そうなんでも呼び出せるという力ではなかった。
 そして、もう一つ大事なこと、それは、この力のことは、誰にも知られてはならないということだ。
 小町さんによれば、この力は形のない力だけに、人の思い、特に疑いや否定の心を向けられると、たちまち影響をうけてしまう、陽炎のように、はかなく淡いものだという。だから、さっきも美紅がこちらを見た瞬間に、トビは消えた。今頃、家の縁側で昼寝の続きでもしているだろう。
 万一、ソラがその力を使うということを知られてしまうと、人の疑心暗鬼がソラ自身を蝕み、ソラの力そのものが消えてしまうおそれもあるという。
 それで、なぜ俺には、トビも見えて、力のことも知っているかというと、これも小町さんの受け売りだが、シンクロ能力とか共感力とかが、特別に高く、トビや小町さんのことを受け入れることができたらしい。
 まだまだわからないことだらけのこの力だが、天見にとっては、何よりも代えがたいものになっている。この力によってできた、猫のトビやネズミのパン、そして神子の師匠、小町さんとのつながりは、他の何にも代えられない大切なものになっていた。
 そして、話はもう一つ、さっきの猫が、トビなのだが、あの猫が立体で動いていたことだ。
 これは、昨年の夏のことだ。天見は、神子として一つ格を上げて、新しい力を手に入れた。それは、特に心のつながりの強くなった小町さんが、二次元の絵から飛び出し、三次元に立体化できるようになったのだ。
 三次元に実体化した小町さんは、紙を離れ自由に動き回ることができる。ただ、人から見られそうになると、その瞬間、消えて本体に戻ってしまうのは変わらなかった。
 この実体化は、今のところ、天見と心のつながりが強い、猫のトビとネズミのパン、そして小町さんだけだった。
 そんな天見たちとの、波乱万丈、仰天動地、天地無用の一年が、またもや始まることになろうとは、このときの俺は思っていなかった。

 その日の放課後、俺は、北校舎一階の端にある実習室へ向かった。
 そろそろお迎えの時間だ。
 俺が、実習室の古びた木製の扉をガラリと開けると。中では、いつものメンバー、天見空、伊山美紅、南條朱莉の三人が輪になって話していた。
 天見、伊山は普通科一組で俺のクラス、髪の長いお嬢様ふうの南條は美術科の二組だ。
「おう、迎えに来たぞ、パンはいるか」
「あ、先生、もうちょっと待ってよ。もう少しだけ、今サンドイッチあげてるとこだから」
 南條が家で作ってきた小さな人参サンドを、パンは器用に両手で食べている。
「パン~、いつもかわいいねえ。このフランスパンのサンドイッチ、パンのために作ってきたんだよ。将大先生が、もう毎日でもパンちゃん連れてきてくれたらいいのにねえ」
 動物好きの南條は、いつもパンにメロメロだ。
 パンはファンシーネズミで、掌サイズ。その模様に特徴がある。簡単にいうとパンダ柄、白地に目や耳、手足が黒いのだ。こいつが、ちょこちょこと歩く姿は、誰をも虜にする力がある。でもその実態は、口の悪いサバサバ系だと知っているのは、俺と天見だけだ。
 もともと、この校舎で天見たちに見つけられたパンは、今は俺がマンションで飼っている。
 ただ、南條たちの要望で、こうして週に一度は、こっそり学校へ連れて来ている。
 朝、この実習室で解放してやると、あとは一日中自由時間を満喫している。この歴史を感じる石造りの校舎は、パンにとって、かっこうの遊び場であるようだ。帰りに呼び戻すのだけれど、なかなか戻ってこず、天見が、絵に呼び出してお説教となることが多かった。
 そろそろ確保しようとする俺の気配を察して、まだ遊びたいパンは南條の方に逃げようとする。そんなパンに、そっと手を伸ばそうとしていた俺に、伊山が聞いて来る。
「そうだ、将大先生、さっき聞いたんだけど、今年の三校対抗戦、あれはなんだよ?」
「ああ、あれか、俺もほんと驚いてる。昨日聞いただけなんだがな。生徒会でもちょっとドタバタだ、なあ南條」
 今年から生徒会副会長を務める南條は、現実に呼び戻されたような表情で、向き直る。
 三校対抗戦は、京都市内の美術系の学科を持つ三校が集まり、毎年行われる大会で、今年で第九十回という、京都らしくとんでもない歴史と伝統がある。ただ、美術系の学校の対抗戦なのに、美術で競われることはあまり無い。美術で競うのはあくまでも本業、それ以外で交流を深めようとしたのだろうか。その年の競技種目は、前年度最下位の学校が自由に決められることになっている。そのため、どうしても自分の学校の都合で決められ、競技種目はバラエティーに富んでいた。
 ちなみに、昨年度は、甲子社高校が決めたカルタ競技で、我が鴨川高校が十八年ぶりの優勝を果たしている。今年の競技決定権は上賀茂高校にあった。
 二年になって、生徒会副会長を務める南條は、肩まである黒髪をかきあげ、頭を抱える。その整った顔立ちに眉間の縦ジワを浮かべ、急に襲ってきた現実問題に唸り声をあげた。
「う~ん、そうなのよ。登山競技って何? って感じよ。
 私も初めて聞いたもの。慌てて今、調べてる。
 登山部ってあまり注目浴びる方じゃないじゃない。だから、この機会を利用して知名度を上げたいって、上賀茂の登山部が相当強く推したらしいの。登山部って上賀茂とうちにしかないのよ。あ、うちはワンダーフォーゲル部か。うちのワンゲルも今年は、部員一人って状態だから、上賀茂、これで巻き返しを図りたいってところよ」
と話していると、教室の扉がガラリと開いた。
 騒がしく飛び込んできたのは、いつもの真っ赤なトレーナー、唯一のワンゲル部員、井澤誠吾だ。このにぎやかなのも俺の一組だ。
「おお、ここにいたか。聞いたぞ、朱莉、今年の対抗戦、登山だって。
 もう、なんだって聞いてくれよな。今年の三校対抗は、この俺に任せとけって。
 ああ、嬉しいなあ、もう富士山だって、アルプスだって案内してやるから」
 井澤は、満面の笑みで、馴れ馴れしく南條の肩に手を乗せて、それをビシっと払われている。
 ワンゲル部員は、昨年の三年生が抜けた後、今年は新入生が入らず、このままじゃ廃部だと落ち込んでいた昨日までの顔が嘘みたいだ。
「まずは、大会ルールを確認して、明日からメンバー募集をかけなくっちゃ。
でも、やっぱり今年もメンバー集め、大変だろうな」
 渋い顔でそういった南條に、井澤も同意する。
「まあ、確かに、俺が散々声かけまくっても、部に入ってくれる奴いなかったもんなあ」
 うちの学校は、美術をしたいために集まっている者ばかりなので、部活動はどれも真剣に大会を目指す部ではない。もちろん普通科の生徒も同じだ、普通科といってもここは主に国立の美大を目指す者が多い。だから、みんな時間があれば、自分の作品作りに時間を使いたいのだ。当然、どの部活動も軽い趣味程度の扱いになっている。毎日演劇部で熱心にやっている伊山は特別な部類だ。(伊山は大の宝塚ファンで、本気で演劇を目指している節がある)
 天見も一応陸上部だが、週に一、ニ度、放課後に、気分転換でグランドを走っているだけだ。
「去年も対抗戦メンバーが集まらなくて、私と美紅が急遽参加したもんね」
 天見の言葉に伊山もうなずく。
「まあ、あれは面白かったけどな。やって良かっただろ、ソラ」
「そうね」、と天見が言うと、すかさず南條が言う。
「じゃあさ、万一集まらない時は、二人に期待してるからね」
「いや、それはちょっと、さすがに山登りはきついよ。な、私ら、か弱いからさ!」
 ははっと笑う伊山のたくましい笑い声に、誰一人突っ込みもせず、誠吾は「じゃあな。俺、とりあえず勧誘行ってくるわ」と、教室を飛び出して行った。
「まったく騒がしい奴だな。何しに来たんだか」
 あきれる俺に、天見が笑って返す。
「そりゃあ嬉しいんですよ。朝からずっとその話をしてたもん。朝から廊下でつかまっちゃって大変だったんですから」
 後ろで、南條が大きな声をあげた。
「うわ、パンちゃんがいない! 驚いて隠れちゃったじゃない。誠吾のせいよ、もう」
 鴨川高校二年の春は、いつもどおり、にぎやかに動き出した
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