17)第7章 2 10月 真名部
文字数 5,365文字
【10月 真名部(技術職)の感受】
僕の選んだ設計士という職は間違いだったのだろうか。
それとも、ここの会社が特殊なのだろうか。
入社して半年後の研修へ参加した時には、他の支店の設計課へ配属された者達が、半数近くいなくなっていた。
新入社員研修で一緒だった、生き生きと夢を語っていた同期の顔を思い出すと、何があったのかと切なくなる。
ウチの支店の設計課内だけでも、七月に一人退職したし、障害を抱えている二人はほとんど働いていない状態だ。
七月に辞めた水野さんの替わりに入ってきた派遣の人は、一ヶ月ほどで次々と入れ代わっていて、名前も覚えられない。
ここへきて、家永課長代理も自宅勤務になっている。
他の業種でもこんなに人がいなくなるのが普通なのだろうか。
自分の所属する環境から、人が減っていくのは寂しいし不安だ。
僕は会社で口数が少ないほうだと思われているみたいだけど、本当の僕はそんなことはない。
他人からバカにされたり、批判されたりしないように、余計な事を言葉にしないだけだ。
僕が生まれた世界には、どの業界、それどころか、どんな些細な作業にもパイオニアがいて、パイオニア達によって成功も失敗も、既に一通り経験されている。
そんな中で経験の少ない僕が、いくら自分の考えを主張した所で、周りの大人達に比べたら、薄っぺらな言葉を発することしか出来ないのは明らかだ。
一時の自己主張の気持ちを満たすためだけに、僕という人間が未熟だという判断材料を他人へ与えたくないのだ。
入社以来、無口なキャラを演じてきたせいで、無駄にコミュニケーションを取ろうとしてくる田乃崎さんのような先輩にも、あまり干渉されないで済んでいる。
それはまあ狙い通りだけど、自分のコミュニティから去って行く人達に、去って行く理由を教えて貰えなかったり、辞めることすら言って貰えなかったりするのは、自分の存在意義を嫌でも考えてしまう。
こんな僕でも、人に必要とされる生き方がしたいと思っているのだ。
僕は良い家庭環境で育ってきたとは言えない。
父親は暴力を振るう人だったから、僕が中学生の時に両親は離婚した。
両親の離婚後は、母親と弟の三人での暮らしだった。
母親は建築士の資格を持っていたから、母子家庭でも金銭的には、一応の暮らしは成り立っていた。
父親のように暴力を振るわない代わりに、母親は忙しい人だった。
母親の手料理なんて、僕ら兄弟は食べたことが無い。
だからと言って母親を憎んでいる訳では無いし、感謝はしている。
僕の母親は物事に対して、まず初めに文句を付ける人だ。
印象としては月元さんに似ている。
人には二種類あると思う。
与えられた物事に対して、最初に文句の材料を探す奴と、肯定する材料を探す奴。
月元さんが前者なら、夏原さんは間違いなく後者だ。
悪意に満ちた世の中という器の中に、悪意が入り込まない別の器があって、その中に夏原さんがいるって感じがする。
僕の未熟さや失敗も、いつも前向きに捉えてくれる。
うっかり気を許して僕が冗談を言うと、一瞬びっくりしたような顔をしてから、喉の奥まで見えそうなほどに豪快に笑う。
僕の何もかもを受け入れてくれると錯覚してしまいそうな笑顔だ。
尊敬に値する先輩だと思う。
夏原さんに従っていれば、いつか夏原さんと同じ器に入って、同じ景色が見られるようになるのだろうか。
だけど、素直に付き従うことができない僕がいる。
夏原さんは、肯定する材料を探すのが癖になっているんだろう。
何か問題が起こっても、どこかに解決方法があるはずだと諦めない。
適当なところで踏ん切りを付けて先へ進みたくても、夏原さん自身がそれを認められないのだ。
指導を受けている立場でこんなことを言うのは本当に申し訳ないけど、夏原さんのこだわりのせいで、僕の作業に影響が出て、退社時間が遅れるのが嫌だ。
僕は仕事よりプライベートの時間を大切にしたい。
そこだけはどうしても譲れないのだ。
十月半ば頃、田乃崎さん担当物件の現場確認に同行した。
現場に向かう途中の車内で、田乃崎さんは一級建築士の製図試験についての失敗や後悔をずっと話し続けていた。
時折、雪下課長のデリカシーの無さについて、批判が混じったりする。
合否がわかるのは十二月だから、田乃崎さんはそれまでずっと、このモヤモヤと戦うんだろうなと考えると同情はする。
だけど、辺り構わずいろんな人に気持ちをぶちまけるであろう、先輩のイタい姿を想像すると、少しだけ笑いそうにもなる。
僕は性格悪かったんだと思う。
いつまで聞かされるんだろうと視線が泳ぎ始めた頃、ようやく話題が変わった。
「夏原さん、昇格試験に受かったらしいね」
同意を求められても、合格か不合格については知らなかった。
「何だ。聞いてないのか」
夏原さんは自分から吹聴する人では無さそうだから不思議に思っていると、田乃崎さんは課長から聞いたと言った。
「月元さんは、今回も駄目だったらしい。ま、良かったよ。あの人が課長になるなんて、ちょっと考えられないし」
田乃崎さんの口の端には嘲りの笑みが浮かんでいる。
そうは言っても、他の皆が手を焼いている雪下課長と、愚痴を言いつつも卒なくやれてる人だから、もし月元さんが課長になったとしても、上手く関係が築けるのではないだろうか。
「今度新しく出来る課の課長には、夏原さんがなるかもな」
「新しく出来る課って、何ですか?」
いろんなことが、僕の頭の遥か上のほうで起きて、いつも知らない間に通り過ぎている。
「お前、何も聞いてないんだな。来年度から、設計課が二つになるんだよ」
「えっ!」
僕は、社会人になってから初めてと言ってもいいくらいの大声を上げた。
「住宅設計課と賃貸住宅設計課に別れるんだ」
田乃崎さんはあっさり言うが、天と地が引っくり返るくらいの驚きだった。
「つまり、住宅設計課では住宅だけを設計して、賃貸住宅設計課ではアパートだけを設計するんですか?」
「そうでなきゃ、新しい課を作る意味が無いだろ」
僕は来年度から、住宅だけかアパートだけを設計する設計士になるらしい。
「自分の希望通りの課に行けるかは、上司次第かもな。真名部も、今の内に、雪下課長へ希望を伝えておいたほうがいいよ」
「田乃崎さんはどっちを希望するんですか?」
「僕は勿論、住宅だよ。アパートは設計したこと無いし、実際にその家に住むお客さんの望みを図面に反映したいから」
住宅もアパートも、まだ担当していない僕は、何を基準に選択すれば良いのだろう。
一つに絞れと言われても困惑する。
答えが出せない自分と、明確に自分の希望が言える田乃崎さんとの間に温度差を感じて、僕ははっとした。
僕には設計したいと思える建物が無いのだ。
そんなことに今更気が付いてしまった。
新入社員研修で夢を語っていた同期の顔が思い浮かんだ。
会社を去ったその同期よりも、自分がこの会社にいるべき人間ではないように思えてきた。
僕と夏原さんは、談話スペースで向かい合って座っている。
一週間悩んだ末、会社を辞める決心をした。
それを今、夏原さんに告げたところだ。
夏原さんは僕が、お話がありますと言った段階で、ある程度予想していたようだ。
「辞めたい理由は?」
事務的に問い掛けてきた。
「建築に興味が無いからです」
僕が正直に答えると、夏原さんは驚いたように眉をあげた。
「じゃあ何で、ウチの会社に来たの?」
夏原さんの口調は責めているのではなかった。
純粋に不思議そうな表情で僕を見返している。
「専門学校で習ったCADが面白くて、設計をやってみようかと思いました。だけど、CADの操作と、設計を仕事にするってことが、思ってた世界と違ってたと分かりました」
僕は淡々と答えた。
用意していた言葉だった。
「さっき、真名部君は建築に興味が無いって言ったけど、CADが面白いと思えるのも、立派に建築への興味だと思うけどな」
寂しそうに下を向く夏原さんへ、僕は遠慮なく言い募った。
「そうでしょうか?CADを扱うことへの興味と、建物への興味は別物だと思います。CADを触っている内に、設計してみたいと思える建物に出会えるかと期待していたんですが、特に無いってことに気が付いたんです」
「まだ、一年も経ってないのに。物件を担当もしてないんだよ、君は。そういう理由だったら、答えを出すのは早いんじゃない?」
「夏原さんは、僕が辞めることに反対なんですか?もしかして、僕が辞めたら、何らかのペナルティがあるとか」
夏原さんは吹き出すようにして笑った。
「そんなこと、真名部君は気にしなくていい。真名部君にとって、会社を辞めるという選択肢が最良なのかって、もう一度考えてみて欲しいだけ。辞めるのは、いつでも出来るから」
夏原さんの優しい視線とぶつかり、僕はどきりとした。
「こんなことを言うのは、自分を否定してるみたいで嫌なんだけど」
僕にやっと届くくらいの声で呟いてから、夏原さんはうつむき加減に言った。
「ウチの設計の仕事は、建築への興味が強すぎても続かないのよ」
「どういうことですか?」
「自由設計と言っても、プレハブ化したハウスメーカーである以上、設計士が自由に思い描いた建物なんて、建築出来ないから。プレハブ化って意味は分かるでしょ?」
「えっと。規格化した部材を、あらかじめ工場で製作することです」
部材を規格化することで、大量生産が可能となり、工期の短縮、コストの削減などのメリットがあると、学校や入社後の研修で習った。
「規格化されているのは、部材だけじゃない。構造の考え方も統一されてる。それだから、建物の強度や耐震性能なんかは保証されてる訳だけど」
目の前の小机に乗せた自分の両手を、夏原さんは労るように眺めている。
「建築雑誌に掲載されているような、格好いい建物を設計したくても、ウチの規格では不都合ばかりで無理なんだよね」
夏原さんこそ何で、この会社で仕事を続けていられるのかが、僕には分からなくなった。
「夏原さんは今まで、自由に建物を設計したいと思ってこなかったんですか?」
「そこよ」
夏原さんは突然腕組をして、僕ではないどこかをぼんやりと眺めた。
「私は真名部君が空想している設計士から、ほど遠い仕事をしてるんだ」
「よく分かりません」
僕には立派な設計士にしか見えない。
「真名部君が退職を思い直すんだったら、心構えとして、私が自分の仕事をどんな風に考えているか、話すよ」
「思い直せる要素が、今のところ見当たりません」
「そうかな?」
夏原さんは首を傾けたけど、視線は僕を真っ直ぐ見ていた。
「設計したい建物が無くても、設計士が出来る会社なんだよ、ウチは。真名部君に向いてる職場ってことじゃない?」
夏原さんに言われると、何だかそんな気もしてくる。
そう言えば、自分に向いてるかどうかという観点では考えていなかったことに気が付いた。
建築に興味が無いなんて、絶対に反論されないと思っていた退職理由が、いとも簡単に意味を無くしてしまった。
僕は負けまいと、心の中で首を振り続けた。
「もう少し、考えてみてよ。結論を出すのは、それからでも遅くないよ」
夏原さんは言い終わる前に、さくっと立ち上がった。
この話はここまでで打ち切りということか。
「待って下さい。分かりました。じゃあ、一ヶ月後にまた、話を聞いて下さい」
叫ぶように言った僕に、夏原さんは分かったわと、少し微笑んで去って行った。
まさか、引き留められるなんて思ってなかった。
夏原さんは残業しないスタイルの僕を疎ましく、もっと言えば、早く辞めてくれと思っているはずだと、僕は思い込んでいた。
退職の意思を伝えれば、やっと辞める気になったかと、二つ返事で了承して貰えると思っていた。
一ヶ月後にまた話を聞いてくれと口に出した時も、その時までには、何を言われても退職する意思を固めてやると思った。
一人残され、落ち着いて考えてみると、あんな考え方もあるのかと驚かされる。
どうして自分が、会社を辞めることに頑なになっていたのか分からなくなってきた。
僕はここに居てはいけない、居るべきではないという思考が、ぐるぐる廻って、自分で自分を追い詰めていただけだったように思えてくる。
そして、何か分からない温かいものに、今までずっと包まれていたような、そんな感覚に気付かされた気分だった。
月末に本社の審査が入ることになった。
その通達があったのが、夏原さんとの面談直後だったため、今後の自分について、考える暇も無いほど雑務に追われる忙しい数日が過ぎていった。
火曜日の審査に向けて、前日の月曜日は、設計課の皆で遅くまで書類を整えたり、事務室内を整理したりしていた。
ファイルを積んだ台車を、夏原さんが押して行くのを目にしたのが、その日、夏原さんを見た最後だった。
僕はたまたまその時、壁に貼られた社訓の傾きを、田乃崎さんに言われて微調整していた。
だから、夏原さんが僕の代わりに、ファイルを片付けに行ってくれたんだと思う。
僕が運んでいたら、事態は少しでも変わっていただろうか。
何故あの日、夏原さんは僕らより先に帰ったんだと、確かめもせずに思ったんだろう。
悔やんでも悔やみ切れない。
夏原さんが襲われて意識が戻らないと聞かされた時、涙が吹き出すのを止められなかった。
あまりよく知らない総務課の人の前で、子供みたいに泣きじゃくってしまった。
僕の選んだ設計士という職は間違いだったのだろうか。
それとも、ここの会社が特殊なのだろうか。
入社して半年後の研修へ参加した時には、他の支店の設計課へ配属された者達が、半数近くいなくなっていた。
新入社員研修で一緒だった、生き生きと夢を語っていた同期の顔を思い出すと、何があったのかと切なくなる。
ウチの支店の設計課内だけでも、七月に一人退職したし、障害を抱えている二人はほとんど働いていない状態だ。
七月に辞めた水野さんの替わりに入ってきた派遣の人は、一ヶ月ほどで次々と入れ代わっていて、名前も覚えられない。
ここへきて、家永課長代理も自宅勤務になっている。
他の業種でもこんなに人がいなくなるのが普通なのだろうか。
自分の所属する環境から、人が減っていくのは寂しいし不安だ。
僕は会社で口数が少ないほうだと思われているみたいだけど、本当の僕はそんなことはない。
他人からバカにされたり、批判されたりしないように、余計な事を言葉にしないだけだ。
僕が生まれた世界には、どの業界、それどころか、どんな些細な作業にもパイオニアがいて、パイオニア達によって成功も失敗も、既に一通り経験されている。
そんな中で経験の少ない僕が、いくら自分の考えを主張した所で、周りの大人達に比べたら、薄っぺらな言葉を発することしか出来ないのは明らかだ。
一時の自己主張の気持ちを満たすためだけに、僕という人間が未熟だという判断材料を他人へ与えたくないのだ。
入社以来、無口なキャラを演じてきたせいで、無駄にコミュニケーションを取ろうとしてくる田乃崎さんのような先輩にも、あまり干渉されないで済んでいる。
それはまあ狙い通りだけど、自分のコミュニティから去って行く人達に、去って行く理由を教えて貰えなかったり、辞めることすら言って貰えなかったりするのは、自分の存在意義を嫌でも考えてしまう。
こんな僕でも、人に必要とされる生き方がしたいと思っているのだ。
僕は良い家庭環境で育ってきたとは言えない。
父親は暴力を振るう人だったから、僕が中学生の時に両親は離婚した。
両親の離婚後は、母親と弟の三人での暮らしだった。
母親は建築士の資格を持っていたから、母子家庭でも金銭的には、一応の暮らしは成り立っていた。
父親のように暴力を振るわない代わりに、母親は忙しい人だった。
母親の手料理なんて、僕ら兄弟は食べたことが無い。
だからと言って母親を憎んでいる訳では無いし、感謝はしている。
僕の母親は物事に対して、まず初めに文句を付ける人だ。
印象としては月元さんに似ている。
人には二種類あると思う。
与えられた物事に対して、最初に文句の材料を探す奴と、肯定する材料を探す奴。
月元さんが前者なら、夏原さんは間違いなく後者だ。
悪意に満ちた世の中という器の中に、悪意が入り込まない別の器があって、その中に夏原さんがいるって感じがする。
僕の未熟さや失敗も、いつも前向きに捉えてくれる。
うっかり気を許して僕が冗談を言うと、一瞬びっくりしたような顔をしてから、喉の奥まで見えそうなほどに豪快に笑う。
僕の何もかもを受け入れてくれると錯覚してしまいそうな笑顔だ。
尊敬に値する先輩だと思う。
夏原さんに従っていれば、いつか夏原さんと同じ器に入って、同じ景色が見られるようになるのだろうか。
だけど、素直に付き従うことができない僕がいる。
夏原さんは、肯定する材料を探すのが癖になっているんだろう。
何か問題が起こっても、どこかに解決方法があるはずだと諦めない。
適当なところで踏ん切りを付けて先へ進みたくても、夏原さん自身がそれを認められないのだ。
指導を受けている立場でこんなことを言うのは本当に申し訳ないけど、夏原さんのこだわりのせいで、僕の作業に影響が出て、退社時間が遅れるのが嫌だ。
僕は仕事よりプライベートの時間を大切にしたい。
そこだけはどうしても譲れないのだ。
十月半ば頃、田乃崎さん担当物件の現場確認に同行した。
現場に向かう途中の車内で、田乃崎さんは一級建築士の製図試験についての失敗や後悔をずっと話し続けていた。
時折、雪下課長のデリカシーの無さについて、批判が混じったりする。
合否がわかるのは十二月だから、田乃崎さんはそれまでずっと、このモヤモヤと戦うんだろうなと考えると同情はする。
だけど、辺り構わずいろんな人に気持ちをぶちまけるであろう、先輩のイタい姿を想像すると、少しだけ笑いそうにもなる。
僕は性格悪かったんだと思う。
いつまで聞かされるんだろうと視線が泳ぎ始めた頃、ようやく話題が変わった。
「夏原さん、昇格試験に受かったらしいね」
同意を求められても、合格か不合格については知らなかった。
「何だ。聞いてないのか」
夏原さんは自分から吹聴する人では無さそうだから不思議に思っていると、田乃崎さんは課長から聞いたと言った。
「月元さんは、今回も駄目だったらしい。ま、良かったよ。あの人が課長になるなんて、ちょっと考えられないし」
田乃崎さんの口の端には嘲りの笑みが浮かんでいる。
そうは言っても、他の皆が手を焼いている雪下課長と、愚痴を言いつつも卒なくやれてる人だから、もし月元さんが課長になったとしても、上手く関係が築けるのではないだろうか。
「今度新しく出来る課の課長には、夏原さんがなるかもな」
「新しく出来る課って、何ですか?」
いろんなことが、僕の頭の遥か上のほうで起きて、いつも知らない間に通り過ぎている。
「お前、何も聞いてないんだな。来年度から、設計課が二つになるんだよ」
「えっ!」
僕は、社会人になってから初めてと言ってもいいくらいの大声を上げた。
「住宅設計課と賃貸住宅設計課に別れるんだ」
田乃崎さんはあっさり言うが、天と地が引っくり返るくらいの驚きだった。
「つまり、住宅設計課では住宅だけを設計して、賃貸住宅設計課ではアパートだけを設計するんですか?」
「そうでなきゃ、新しい課を作る意味が無いだろ」
僕は来年度から、住宅だけかアパートだけを設計する設計士になるらしい。
「自分の希望通りの課に行けるかは、上司次第かもな。真名部も、今の内に、雪下課長へ希望を伝えておいたほうがいいよ」
「田乃崎さんはどっちを希望するんですか?」
「僕は勿論、住宅だよ。アパートは設計したこと無いし、実際にその家に住むお客さんの望みを図面に反映したいから」
住宅もアパートも、まだ担当していない僕は、何を基準に選択すれば良いのだろう。
一つに絞れと言われても困惑する。
答えが出せない自分と、明確に自分の希望が言える田乃崎さんとの間に温度差を感じて、僕ははっとした。
僕には設計したいと思える建物が無いのだ。
そんなことに今更気が付いてしまった。
新入社員研修で夢を語っていた同期の顔が思い浮かんだ。
会社を去ったその同期よりも、自分がこの会社にいるべき人間ではないように思えてきた。
僕と夏原さんは、談話スペースで向かい合って座っている。
一週間悩んだ末、会社を辞める決心をした。
それを今、夏原さんに告げたところだ。
夏原さんは僕が、お話がありますと言った段階で、ある程度予想していたようだ。
「辞めたい理由は?」
事務的に問い掛けてきた。
「建築に興味が無いからです」
僕が正直に答えると、夏原さんは驚いたように眉をあげた。
「じゃあ何で、ウチの会社に来たの?」
夏原さんの口調は責めているのではなかった。
純粋に不思議そうな表情で僕を見返している。
「専門学校で習ったCADが面白くて、設計をやってみようかと思いました。だけど、CADの操作と、設計を仕事にするってことが、思ってた世界と違ってたと分かりました」
僕は淡々と答えた。
用意していた言葉だった。
「さっき、真名部君は建築に興味が無いって言ったけど、CADが面白いと思えるのも、立派に建築への興味だと思うけどな」
寂しそうに下を向く夏原さんへ、僕は遠慮なく言い募った。
「そうでしょうか?CADを扱うことへの興味と、建物への興味は別物だと思います。CADを触っている内に、設計してみたいと思える建物に出会えるかと期待していたんですが、特に無いってことに気が付いたんです」
「まだ、一年も経ってないのに。物件を担当もしてないんだよ、君は。そういう理由だったら、答えを出すのは早いんじゃない?」
「夏原さんは、僕が辞めることに反対なんですか?もしかして、僕が辞めたら、何らかのペナルティがあるとか」
夏原さんは吹き出すようにして笑った。
「そんなこと、真名部君は気にしなくていい。真名部君にとって、会社を辞めるという選択肢が最良なのかって、もう一度考えてみて欲しいだけ。辞めるのは、いつでも出来るから」
夏原さんの優しい視線とぶつかり、僕はどきりとした。
「こんなことを言うのは、自分を否定してるみたいで嫌なんだけど」
僕にやっと届くくらいの声で呟いてから、夏原さんはうつむき加減に言った。
「ウチの設計の仕事は、建築への興味が強すぎても続かないのよ」
「どういうことですか?」
「自由設計と言っても、プレハブ化したハウスメーカーである以上、設計士が自由に思い描いた建物なんて、建築出来ないから。プレハブ化って意味は分かるでしょ?」
「えっと。規格化した部材を、あらかじめ工場で製作することです」
部材を規格化することで、大量生産が可能となり、工期の短縮、コストの削減などのメリットがあると、学校や入社後の研修で習った。
「規格化されているのは、部材だけじゃない。構造の考え方も統一されてる。それだから、建物の強度や耐震性能なんかは保証されてる訳だけど」
目の前の小机に乗せた自分の両手を、夏原さんは労るように眺めている。
「建築雑誌に掲載されているような、格好いい建物を設計したくても、ウチの規格では不都合ばかりで無理なんだよね」
夏原さんこそ何で、この会社で仕事を続けていられるのかが、僕には分からなくなった。
「夏原さんは今まで、自由に建物を設計したいと思ってこなかったんですか?」
「そこよ」
夏原さんは突然腕組をして、僕ではないどこかをぼんやりと眺めた。
「私は真名部君が空想している設計士から、ほど遠い仕事をしてるんだ」
「よく分かりません」
僕には立派な設計士にしか見えない。
「真名部君が退職を思い直すんだったら、心構えとして、私が自分の仕事をどんな風に考えているか、話すよ」
「思い直せる要素が、今のところ見当たりません」
「そうかな?」
夏原さんは首を傾けたけど、視線は僕を真っ直ぐ見ていた。
「設計したい建物が無くても、設計士が出来る会社なんだよ、ウチは。真名部君に向いてる職場ってことじゃない?」
夏原さんに言われると、何だかそんな気もしてくる。
そう言えば、自分に向いてるかどうかという観点では考えていなかったことに気が付いた。
建築に興味が無いなんて、絶対に反論されないと思っていた退職理由が、いとも簡単に意味を無くしてしまった。
僕は負けまいと、心の中で首を振り続けた。
「もう少し、考えてみてよ。結論を出すのは、それからでも遅くないよ」
夏原さんは言い終わる前に、さくっと立ち上がった。
この話はここまでで打ち切りということか。
「待って下さい。分かりました。じゃあ、一ヶ月後にまた、話を聞いて下さい」
叫ぶように言った僕に、夏原さんは分かったわと、少し微笑んで去って行った。
まさか、引き留められるなんて思ってなかった。
夏原さんは残業しないスタイルの僕を疎ましく、もっと言えば、早く辞めてくれと思っているはずだと、僕は思い込んでいた。
退職の意思を伝えれば、やっと辞める気になったかと、二つ返事で了承して貰えると思っていた。
一ヶ月後にまた話を聞いてくれと口に出した時も、その時までには、何を言われても退職する意思を固めてやると思った。
一人残され、落ち着いて考えてみると、あんな考え方もあるのかと驚かされる。
どうして自分が、会社を辞めることに頑なになっていたのか分からなくなってきた。
僕はここに居てはいけない、居るべきではないという思考が、ぐるぐる廻って、自分で自分を追い詰めていただけだったように思えてくる。
そして、何か分からない温かいものに、今までずっと包まれていたような、そんな感覚に気付かされた気分だった。
月末に本社の審査が入ることになった。
その通達があったのが、夏原さんとの面談直後だったため、今後の自分について、考える暇も無いほど雑務に追われる忙しい数日が過ぎていった。
火曜日の審査に向けて、前日の月曜日は、設計課の皆で遅くまで書類を整えたり、事務室内を整理したりしていた。
ファイルを積んだ台車を、夏原さんが押して行くのを目にしたのが、その日、夏原さんを見た最後だった。
僕はたまたまその時、壁に貼られた社訓の傾きを、田乃崎さんに言われて微調整していた。
だから、夏原さんが僕の代わりに、ファイルを片付けに行ってくれたんだと思う。
僕が運んでいたら、事態は少しでも変わっていただろうか。
何故あの日、夏原さんは僕らより先に帰ったんだと、確かめもせずに思ったんだろう。
悔やんでも悔やみ切れない。
夏原さんが襲われて意識が戻らないと聞かされた時、涙が吹き出すのを止められなかった。
あまりよく知らない総務課の人の前で、子供みたいに泣きじゃくってしまった。