11)第5章 2 8月 月元

文字数 4,657文字

【8月 月元主任(技術職)の辛酸】

私には分かっている。

雪下課長は田乃崎のことがお気に入りなのだ。
えこひいきと言われないように、上手く隠しているつもりかもしれないけど、私にはお見通しだ。

叱りつける(てい)で呼び付けておいて、結局うやむやにするし、田乃崎のミスを他の誰かのせいにして終わらせる。

田乃崎自身も最近それに気が付いてきて、調子に乗っているのが伺える。
最悪だ。

「あのリビングテーブルは、田乃崎と真名部に運んでもらおう」
八月後半の、痛いくらいに照り付ける日差しの下で、家永課長代理が言った。

少し肉の付いた腹を突き出して腰を押さえながら、俺、ぎっくり腰が怖いからさぁと、続ける。

今は、堀市様邸の完成披露見学会の準備中だ。

お客様が実際に建てた家を引越前に解放して、次のお客様確保へ繋げるのだ。
豪華に造られた住宅展示場ではイメージがしにくいところも、暮らしの現実に近い状態で見ることで興味の度合いが増す。

見学に訪れる一般のお客様向けに、家具や食器をセットして暮らしぶりを演出するのだ。
営業支援と称して、設計課も手伝いに駆り出されている。

『全社員が営業であれ!』と言うのが、支店長の方針で、営業職で無くても、普段から売り上げに貢献する意欲を持つべきだと、朝礼や会議の度に説いている。

林田支店長が赴任してきてから、営業支援という名の雑用が増えた。
それが、私らのような専門職の作業効率を、いかに下げているかをまるで分かっていない。

ぼやいてみても、ウチの会社は副支店長以上のポストには、営業職からしか就かないから、いつまで経っても設計職が優遇されることはないだろう。

「田乃崎君なら、課長を駅まで送りに行ってますよ」
夏原の言葉を聞いて、ちっと、舌が鳴る。

この忙しい時に。
そもそも、課長はどこに行ったのだ。

「あ、そっか。表彰式か」
課長代理の言葉を聞いたのと同時に思い至った。

課長は表彰式のために東京本社へ向かったのだった。
信じられないことだが、あの女が優秀職員として表彰されるのだ。

いや、信じられないと言うのは少し違う。
どうせ推薦したのは、ウチの支店の支店長だ。

だとしたら、不思議でも何でもない。
元々、雪下課長は支店長の愛人枠から課長になった女なのだから。

嘆かわしいことだか、建築業界は未だに男優勢の社会だ。

その中で、女が出世するためには、有能であることは重要ではない。
むしろ有能であることは、男達の嫉妬の対象になりかねないから危険だ。

なら、女が出世するために必要なスキルとは何か。
上司の弱みを上手く利用することなのだ。

雪下課長の場合は、愛人の立場を使ったのだろう。
大っぴらに出来ない関係は、男に取って脅威に違いない。

分かっている。
私は出世がしたい。

だけど私には、人の弱みにつけこむことも、女を利用することも出来ないし、したくない。

私がいつまで経っても主任のままなのは、上司と分類される男共に対しても、真っ向勝負しか挑まないからだ。
ゴマをすることすら私の中の選択肢には無い。

私は男とか女とかのカテゴリーに関係無く、ただ人間として仕事がしたいだけなのだ。
その結果として認められ出世したい。

能力のある者が出世する、普通のことが普通になされないこの会社が、私に向いていないのは分かっている。
分かっているけれど、尻尾を巻いて逃げるのは、もっと嫌だ。

私はこの男が優位の世界で、何としても自分の能力を認めさせたいのだ。

一ヶ月程前に、二級建築士の契約社員が辞めていった。
割りと前向きに、仕事に取り組んでいた女性だった。

本人が望んだのか、前任の課長が言い出したのか、その経緯を詳しくは知らないが、正社員になる話が持ち上がっていた。

私も契約社員から正社員になったから、正式決定までにハードルがあるのは想像していた。
案の定と言うか、本社の偉い奴が絡んできた途端、話を白紙にしてしまった。

彼女が四十五歳だからだと言うが、たまたま面接を受けに来た全く知らない人物なら、そんな理由も有りかもしれない。
三年この設計課で働いた経験値を、年齢で無視される意味がわからない。

納得がいかないのは彼女に同情したからじゃない。
彼女が男性だったら、はたして、年齢が理由で正社員採用が反古になっただろうかという疑問からだ。

別に私は女性の味方じゃない。

むしろ、働く女性の中に、覚悟のある人物が少ないことに憤りを感じている。
ほとんどの者が、責任を負わされることを嫌い、適当に働いて、それなりの給料さえ貰えれば良いと考えている。

そんな女が多いせいで、男以上に頑張っている私のような女まで、偏見を持たれて正当な評価が受けられないのだ。

女性管理職が増えるのは喜ばしいことだと思う。
私にとっても希望だ。

雪下課長が赴任してきた当初は、敬うべきところがあれば認める用意はあった。

だから、建設中の現場でトラブルになった事柄を報告もした。

「そんなことを、いちいち私に相談してこないで。私にどうしろと言うの?担当者はあなたでしょ。自分で対処しなさい」
私は相談したわけじゃない。責任者に報告をしただけだ。

私達設計担当者が上司に求めるのは、最終的な責任を取ってくれること。
ただそれだけなのだ。

トラブル先へ出向いて行って、事を収めて欲しいとまでは、余程のことでなければ思わない。
と言うか期待しない。

だが、課長は私がそれを求めていると勘違いしたのだろう。
その後も何かをぎゃんぎゃんほざいていたが、何て器の小さい人間かと聞く気になれなかった。

その時からだ。
雪下課長を視界に捉える時も、思い浮かべる時も、軽蔑の二文字しか沸き上がってこなくなったのは。

これまでの歴代の課長は全て男だった。
そいつらも、尊敬できるところなど一欠片も持ち合わせていなかった。

トラブルを報告しても、助言をくれるどころか、敵かと思うくらいに叱られることも少なくなかった。
上司のくせに、追い撃ちを掛けて斬りかかってくるのだ。

最低だ。

今思えば、男なんて立場を守りたい生き物だから、そんなもんだと諦めていたのだろう。

だから自分の中で、そこまで蔑視することもなかったのだ。

私は女課長に期待してしまっていた。
今までの上司にはない、女性ならではの仕事をして貰えるのではないかと。

馬鹿だった。

男性社会の枠組みの中で地位を得た者などに、革新的な働きが出来る訳が無い。
所詮、女を利用して出世した人間だと蔑んで、自分を慰めるしかない。

しかし、雪下課長の部下でいる限り、理不尽な成功例と毎日向き合うことになる。
苦痛で仕方がない。

「部下は、課長の運転手もしなくちゃいけないんですか?」
真名部がぼそりと言った。

その疑問には同意する。

忠犬田乃崎が、自ら運転を申し出たのが想像できる。

あいつのことだ、見学会の準備から逃れる意図もあったのだろう。
へらへらしているように見えて、自分の得になることを常に考えている男だ。

だけど私に言わせれば、田乃崎より真名部のほうがあり得ない。

仕事に対する前向きさが微塵も感じられない。
自分から聞かない。
誰かに言われないと動かない。
こういうのはこの先も伸びることは無いと言い切れる。

しかし腹立たしいのは、最近の若者は皆そんなもんだという諦め混じりの意見が、大人達の中に蔓延しつつあることだ。

極一部の世間知らずの若者に対してなら注意も出来るが、大多数となると、もう迎合するしかないらしい。

教育担当の夏原も、田乃崎の指導をしていた時は、もっとテキパキと指示を与えていたのに、真名部には遠慮がちだ。

田乃崎が雪下課長のお気に入りなら、真名部は夏原のお気に入りなのかもしれないと、思った時期もある。

「何で、もっとガツンと、真名部に言ってやらないのよ」
私の質問に対する夏原の答えは予想外だった。
「会社から、絶対に、叱ってはダメだと言われているんです」

何だそれは。

すぐに辞めてしまうからだと想像は付くが、そんなことでどうやって、社会の仕組みもわからない輩を教育すると言うのだ。

辞められるリスクより、ダメダメ社員が出来上がるほうを選択するなんて、この会社はどうなっているんだ。

しかし結局、この半年で半分の新入社員が辞めていった。
ウチの支店だけの話では無い。
全社的数値だ。
迎合作成も上手くいっているとは思えない数字だ。

真名部を見ていると、残った新入社員の中ですら、覚悟のある奴がいるのか疑わしくなる。

それならいっそ、辞めてもらったほうが良い。
このままずっと、やる気のない状態で仕事をされても迷惑なのだ。

ほら、今だって。

近隣の住民が、敷地と道路の境界線から、オープンガーデンに張られたテントの中の私達の様子を伺っている。

こちらを覗いてることに気が付いても、真名部は見て見ぬ振りだ。
ただ突っ立っていることに自分でも違和感はないのか。
頭下げるくらい出来るだろ。

夏原も他の者も二階の準備に回っている。

「ぼっとしてんじゃないわよ」
私は真名部の脇をすり抜けざま、小声をぶつけた。
叱ったのではない、あくまでも注意だ。

「こんにちは。ご近所の方ですか?お世話になります」
私はそう言って、普段よりも思いっ切り、営業用の愛想笑いを浮かべた。

そして、必要以上に会話を膨らませた。
お手本を真名部に見せ付けてやろうと思ったのだった。



見学会の準備を終え、合流した田乃崎と、私と真名部の三人が同じ車で社へ戻ることになった。

運転席の田乃崎に向かって、助手席の真名部が能天気な発言をした。
「僕、残業したくないんですよ。何で、先輩方はいつも、当たり前のように残業するんですか」

あほか。と叫びそうになったのを我慢した。
叱ってはダメだそうだからだ。

「残業したくてしてる奴なんて、いないよ。俺だって、早く帰れるなら帰りたいし」
「田乃崎さんは、夏原さんがトレーナーだった時、残業を強制されてた訳ではないんですか?」

「あの人は、強制なんかしないよ」
「でも、夏原さんは、僕の予定を残業有りの前提で考えているんです。それが伝わってくるんで、辛いです」

甘い。甘過ぎる。
そんなセリフは、残業無しで仕事がこなせてから言え。

「ウチはまだマシな方だよ。ロックシステムがあるから。俺が前居た会社なんてエンドレスだったからなぁ。車通勤だと、終電による縛りも無いし」

会社で夜明けを見たことなんて、何回あったことかと、続く田乃崎の話を聞き流しながら、真名部の様子を観察した。

真名部も田乃崎の苦労話には興味が無さそうに下を向いたり、時折顔を掻いたりしている。

そうなのだ。
真名部が嫌がっている残業と言っても、午後八時の解錠システムがロックするまでの、たかが二時間なのだ。

残業が無制限だった頃を経験してきた私らにしてみれば、二時間なんてあっという間だ。

ロックシステム制度が始まり、自分のために使える時間が増えた。
当初は、何て夜が長いんだろうと歓喜したものだ。

しかしその分、業務時間内で多くの事を成し遂げなくてはならなくなった焦りで、いつも余裕が無い。
後少し、ここだけ終えてから帰りたいと思っても、強制終了されてしまう。

翌日には、期限を守れなかったと、課長や営業、時には工事から非難されるのだ。
真名部はまだ、そんな焦りを知らないから、悠長なことを言っていられる。

「真名部も、自分の担当物件を持つようになったら分かるよ」
真名部は無表情に真っ直ぐ前を見つめたまま何も話さなくなった。



事務所に戻ると、奥山係長が憤怒の様相で私達を待っていた。

二重の大きな瞳をより一層見開いて、私達を睨み付けていて、係長の短い髪の毛が逆立っていると感じるほどだった。
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