14)第6章 2 9月 柏居

文字数 5,323文字

【9月 柏居(事務職)の決意】

「柏居さん。ちょっといいかな?聞いて欲しいことがあるんだけど」

家永課長代理が真面目な顔で話かけてきたのは、九月月初に開かれた支店全体会議の後だった。

会議の後は各々で物件の打ち合わせをする担当者も多い。
メンバーのほとんどがしばらくは席へ戻って来ない、そんなタイミングだった。

「最近、よく吐き気がするんだ。自分の席でコーヒーを飲んだ後に」

私は優しい笑みを作った。
深刻な話じゃ無さそうでほっとする。

「コーヒーが体質に合わなくなったんですね」
課長代理と同じアラフォー世代からよく聞く症状だと思った。

「そうじゃなくて」
家永さんは辺りに視線を配ってから、少し顔を近付けてきた。

「誰にも言わないでくれよ」
私はわかったと言うように、唇を結んで小さく頷いた。

「誰かに、何かを入れられてるんじゃないかって思うんだ」
私は息を呑んだ。

課長代理と私は一瞬だけ無言で瞳を合わせた。

謙虚という概念を今だけ無視して言わせてもらうと、私はかなりモテるほうだ。

私の気を惹こうと、打ち明け話を装って作り話をしてくる男性は少なくない。
だけど、この場合は違う。

家永さんは例え私にアプローチするとしても、こんな回りくどい方法は使わないと思うし、何よりも目に怯えの色が浮かんでいる。

何年か前に、どこかの会社で同僚の飲み物に劇物を混入した女が、逮捕された事件があった。
きっと、家永さんの頭にもそのニュースがよぎっているのだろう。

「気のせいじゃないんだ。実際にトイレで吐いてるし。席を外して戻って来た後に、缶に残っていたコーヒーを飲むと、決まって何かこう、胃がせりあがってくるような感じがするんだ。昨日と先週、同じことがあった。もっと思い返してみると、盆前にも胃の調子が悪い時があった。あれももしかしたらって、今は思ってる」

私が黙っているから、信じてもらえていないと不安になったのか、課長代理は小声でまくし立てるように言った。

「何か、変な臭いとかは無かったですか?」
「それは、気が付かなかった。缶だから、口が広くないからかも」

臭いが鼻に来る前に飲み込んでいたら、何か異臭がしても気が付かないものかもしれない。

「しばらくは何も飲まないほうがいいですよ。飲み物を残して、席を立たないようにするとか」

私は早口で言った。
そろそろ何人か戻ってくるだろう。

「いや、犯人を捕まえたい」
家永さんは決意を秘めた表情を見せて、首を振った。

「柏居さんの席からは、ちょうど俺の席が見えるよね?合図をしたら動画を撮影して欲しいんだ」

私の席から通路を挟んで、課長代理の席は真横に見える。
確かにポジションは最高だと思う。

「そう言う訳で」

四階フロア入り口に、夏原主任と真名部君の姿を見付けた家永さんは、少し不自然に声を張り上げた。

「須山幸一様邸の図面、明日までにコピーお願いします」
私は大きく頷いて見せ、全て了解ですと答えた。

須山邸の図面のコピーは、朝の内に頼まれていたことだったから、取り敢えずのようにコピーを始めたけれど、胸のざわつきを抑えるのに必死だった。

家永さんの話を聞いて、設計課が社内の誰かに攻撃を受けていると確信した。

課長代理には言わなかったけど、前にも同じことがあったからだ。

正確に言えば、家永さんに聞くまで、あれが同じ出来事だと認識出来ていなかったけど、状況が余りにも似ている。

あれはゴールデンウィーク前の、事務処理が溜まって忙しい時だった。

席に戻ってきた雪下課長が、飲み物を飲もうとして突然叫んだことがあった。

「やだ、なに⁉変な臭いがするんだけど」

立ち上がった課長を無視することも出来ず、私と田乃崎君が近寄って行った。
「どうされましたか?」

「ちょっと、臭い嗅いでみてよ」
課長がコーヒーの入った自分のマグカップを私達に差し出した。

鼻を寄せてみると、確かに漂白剤のような刺激臭がした。

「さっきまでは、何ともなかったんですか?」
田乃崎君が、鼻に意識を集中させたままの顔で言った。

「知らないわよ。コーヒー入れてすぐに、営業部長に呼ばれたから、飲んでなかったもの」

その時は漂白済みのコップを、しっかり水で洗わないで使ったんだろうぐらいに思った。

私と田乃崎君で新しいコーヒーを入れるように勧めて、課長もそれ以上は追及しなかった。

私の思い違いじゃない。
この会社に、人を傷付けようと企んでいる悪い奴がいる。

でも、こんなこと誰にも話せない。
話した相手が悪人かもしれないし。

コピー機の前で吸い込まれていく図面を眺めながら、犯人の可能性のある人物は誰だろうと考えていた。

まずは、雪下課長と家永課長代理と私の三人は除外するとして、設計課に恨みを持つ者を思い浮かべてみる。

営業課の誰かか、工事課の誰かか、設計課内の誰かか。
疑い始めたら誰だって疑える。

でも、机の上の飲み物に何かを入れるんだったら、階の違う総務課なんかは除外出来ると思う。

営業の人達は、人に寄って程度は様々だと思うけど、設計課メンバーを嫌っていると思う。

営業担当に言わせると設計課のメンバーは、営業の気持ちを考えないし、上から目線でモノを言うらしい。

成績を残している営業マンほど、設計担当と接点が多いから不満も溜まる。
奥山係長や山池さん、泉田君辺りか。

工事担当はどうだろう。
工事担当者が設計課に対して、攻撃したくなるほどの強い怒りを持つのは想像出来ない。

逆に設計課メンバーのほうが工事課の人に対して苦手意識が強いし、憎しみを感じる時もあると思う。

後からなら何とでも言えると、よく雪下課長が憎々しげに愚痴を漏らしているのを聞く。

設計課内はどうか。そっと、設計課メンバーを見渡してみる。

攻撃的な恨みを抱えていそうなのは、月元主任と伊津さんだ。

でも、月元さんはあれで気が小さい所があるし、伊津さんは社員とは一線を引いているから、あんなことまでするか疑問だ。

夏原主任は候補から外して良いと思う。
と言うよりも外したい。

もし、撮影した動画に夏原さんが犯人として映っていたら、人類という種族全てが信じられなくなってしまう。

「柏居さん。コピー、まだかかりそうですか?」
真名部君が図面を数枚抱えてやってきた。

「急ぎだったら、先に使っていいわよ」
私は急いで脇へ退いた。

「すみません。すぐ済みます」
真名部君を少し下がった所から眺めながら、この子は違うよねと考えていた。

入社以来、数えるほどしか話したことはないし、普段の口数も少ないから何を考えているかわからないのは確かだ。

だけど、恥ずかしそうに寄って来て、私がやっている雑用を手伝ってくれたりするし、夏原さんから言われた作業を素直に行うところを見ると、心が汚れているようには思えない。

最近は誰かに言われなくても、気遣いが出来るようになってきたし、もう少し笑顔が出せるようになれば、コミュニケーションも進むのではと思う。

コピーを終えて戻って行く真名部君を目で追いながら、田乃崎君のほうがああ見えて、実はやるタイプかもしれないと頭に過った。

田乃崎君よりも、適応障害で休みがちな菱山さんのほうが怪しいと言えば怪しい。
事件のあった日、彼は出社していただろうか?
調べてみる価値はありそうだ。

「何か、疲れてそうね」
頭を回転させながらコピーを取っていたせいで、ぐったりした私は席でぼっとしていた。

夏原主任に声を掛けられるまで、自分でも気が付かなかった。
「大丈夫です。すみません」

「これ。全体会議で支店長が言ってたリスト。まとめ、お願いします」

この上半期内で完成した物件の内、お客様へ建物を引渡す時に、設計担当が立ち会った件数を明確にするよう申し渡しがあった。
本社に報告するらしい。

夏原さんは早速、自分の分を提出してきた。
いつも仕事が早い。

他の担当者はきっと、私が催促するまで持って来ないだろう。

夏原さんは朗らかだし、優しい。男女問わず人気があるのは当然だ。

いつか課長になるんだろう。
その時は雪下課長とも、歴代の男性課長達とも違う課長像を見せてくれそうだ。

でも、私は女性が男性と同じように働く必要なんて無いと思っている。

時代錯誤と言われるかもしれないけど、生活費は男性に稼いで貰って、女性は子育てや家事に専念することが幸せだと思う。

雪下課長のように、結婚して出世もしてなんて、考えただけでも目が回る。

「男は敷居を跨げば七人の敵ありって聞いたことない?」
いつかの飲み会で、雪下課長が唐突に話し出した。

私も含めてそこにいた皆、初めて聞く言葉だったから曖昧に頷いていた。

「男が世間に出て活躍すると、多くの敵ができるっていう、ことわざみたいなもんなんだけど」
課長は酔っていたけど、口調はしっかりしていた。

「あれ。男を女に置き換えたら、七人の敵どころじゃ済まないわよ。男は世間で活躍したって、義理の両親や妻から批判されることは無いし、同じ職場の女子から生意気だなんて言われることも無いじゃない?少なく見積もっても、女だったら、敵が十人はできるわよ」

義理のご両親や旦那さん、社内の人間、そういった人達が、女性である課長の前に立ちはだかってきたということだろう。

女性が男性と肩を並べて仕事をすると言うことは、外敵だけで無く、身内に潜む障害にも心を配らなくてはならないのだと、妙に納得がいった。

夏原主任にも雪下課長のように、いつか十人以上の敵を相手にする日が来るんだろうか。
でも夏原さんが相手なら、敵も手加減をしたくなるような気がする。



「警戒されているのかな」

数日後、私と家永課長代理は、普段余り人が来ない談話スペースで向かい合って座っていた。

あれから家永さんは、飲み物を残して何度も席を外した。
その都度、合図を貰った私は目立たないように動画を回していた。

何も起こらなかった。

「そうかもしれないですね。私達が、チームを組んでいることがバレてるんでしょうか」
家永さんは腕組みをして、しばらく考え込んだ。

「あれから、俺に恨みを持っていそうな人物をピックアップしてみたんだけど」
「候補がいたんですか?」

「三、四人かな。でもその中の誰かだという確信も無いんだ。こっちが知らない内に憎んでる可能性もあるし。そういう目で見たら、誰も彼も疑わしくなってしまって」

雪下課長の事件は、家永さんには伝えていない。

本当は話したほうがいいんだろう。
もしかしたら、二人に恨みを持つ共通人物が浮かび上がるかもしれないからだ。

でも伝えたら、課長代理は雪下課長に話すと思う。
そしたら事が大きくなって、収拾が付かなくなりそうなのが怖い。

課長は容赦無く、大々的に犯人捜しを始めそうだからだ。
ズルいと言われても、私はそのトリガーになりたくない。

「あと一週間、様子を見たい。もう少しだけ協力して欲しい」
分かりましたと答えながら、もしかしたら、このまま何も起こらないかもしれないと考えていた。

課長の時も一度だけだったみたいだし。
犯人の気が晴れていたら、このまま終わるかもしれない。

希望的な予測だったけど、結局その後二週間何も起こらなかった。

九月も月末が近付いて忙しくなっていた。

「柏居さん。家永さんがギックリ腰になってしまったらしくて、今、接客スペースで休んでる。多分、ご家族の方を呼んで、帰ることになりそうだよ」

青白い顔で報告してきたのは、常に万全の体調とは言えない菱山さんだった。

メガネが歪んでいるように感じるのか、仕切りにフレームを触って位置を直している。
青白い顔色は昔からだから、今は彼の体調についての心配は必要無い。

家永さんと菱山さんは午前中から、一階でお客様と打ち合わせをしていた。

私は接客スペースへ向かった。

事務員は課長の秘書の役目も負っていると私は考えている。
確認して報告しようと思ったのだ。

階段を降りた一階のホールでは、受付係の女性が二人がかりで掃除をしていた。
こんな時間に珍しいと思いながら通り過ぎた。

接客スペースは、パーティションで幾つかに区切られている。

人の気配のあるブースを覗くと、椅子に何とかお尻を乗せているという感じの家永さんが、前屈みのまま頭を少しこちらに向けた。

私を見て、情けなそうに笑顔を作る。
「大丈夫ですか?」

家永さんは軽く首を降った。
よく見たら、額にうっすらと汗が滲んでいる。

「打ち合わせが終わって、階段を登ろうとした時、上から観葉植物の鉢が落ちてきたんだ」
「え?」

「驚いた弾みで、ギックリ腰をやってしまった」
いててと、腰を擦る。

「鉢は、どこかに当たったんですか?」

「いや、大丈夫。床に落ちただけ。菱山君も一緒にいたから、菱山君こそ一時、呼吸がヤバかったけど、少ししたら落ち着いたようだったから、柏居さんに伝言を頼んだんだ」

菱山さんはそんなこと、一言も言ってなかった。
大変だったなんて、気付いてもあげられなかった。

「ご家族には連絡されたんですか?」
「うん、さっき」
そう言って、家永さんはふつりと黙った。

何を考えているか想像が付く。
私と同じことだろう。

犯人は諦めていなかったんだ。
背中に寒気が走った。

「雪下課長に報告します。飲み物の件も」
家永さんは黒目だけで私を見て、そうだねと頷いた。

横顔が悔しそうに見えた。

翌日から、家永さんは自宅勤務になった。
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