第5話 「母と息子」
文字数 2,064文字
泣いている母の携帯には父の写真が映っていた。
「私はお父さんが亡くなってからも、彼のことを毎日考えているの」と母は言って、画面に映る父の笑顔を見つめた。「どこにもいないあの人に会いたくて、おかしくなりそうなのよ。いっそのこと―――いや、何でもないわ。ごめんなさい。」
母が言いかけたことは僕にも分かった。亡くなった父と会うには―――ということだ。
「あなたの前では気丈に振る舞っていたけど、本当は胸が張り裂けそうなほど苦しいのよ。心が強くなりたくて心理学を勉強し始めたのに、いつまで経っても私は弱いままよ…」
震えながら涙を流している母の頭を僕はゆっくりと撫でた。
「ごめんなさい、こんな話をして……」と母は言って涙を拭った。「あなただって辛いのに」
「いいんだ」と僕は言った。「とにかく、親子なんだから辛い時は何でも話してよ。それに父さんのことを愛してるからこそ母さんは苦しんでるんだと思うし、その想いは父さんも嬉しいんじゃないかな。」
母は目を丸くして、それから優しく微笑んだ。
「そういうところ、お父さんに似てきたわね。」と言って母は僕の顔を両手で掴み、目を閉じて、ゆっくりと顔を近づけた。
僕は急激に鼓動が速くなり、思わず「あの…」と声を漏らした。
母は目が覚めたように膝 に乗せていた携帯が床に落ちた。母はそれを拾い、ロック画面に映っている父から目をそらすように慌てて画面を伏せた。
母は頭を抱え、「ごめんなさい…ごめんなさい…」と何度も呟きながら早足で部屋に戻っていった。
なぜか僕も「ごめんなさい」と1人で呟いた。理由はわからない。
それから一週間、母は仕事を休んだ。
母は酒を過剰に飲むようになり、廊下を歩いているとタバコの匂いがした。部屋で暴れているような物音も聞こえた。
心配になった僕は、母に声をかけてからゆっくりドアを開けた。その瞬間、タバコの匂いが鼻を刺激して、僕は思わずむせ返った。
恐る恐る中を覗 いてみると、母の部屋は廃墟のように荒れ果てていた。棚 にびっしりと並んでいた本や書類は全て地面にバラまかれていた。酒の空き缶や空き瓶がそこら中に散乱し、灰皿も床に投げ捨てられてタバコの吸殻も大量に散らばっていた。
以前までの母からは想像できない程ひどい状態だったが、1つの写真立てだけは綺麗なまま机の上に残っていた。その中には家族3人で箱根の温泉旅行に行った時の記念写真が入っていた。部屋の様子がそのまま母の精神状態を表しているようだった。
母は抜け殻のような表情で床に座ったままタバコを吸っていた。僕に気づいた母は火を消すと、聞こえないほど小さな声で「ごめんなさい…」と呟いた。
「いいんだ」
「結婚してからは止めてたんだけどね…」と母は言って、タバコの先端を眺めた。「本当にごめんなさい。」
「もう謝らなくていいよ。」
僕は虚ろな目で泣いている母の背中をさすった。
「いったん休職しよう」と僕は言った。「それから心療内科に行って、カウンセリングも受けよう。僕も付いていくから」
「そうするわ…」と母は言って僕の手を握った。「迷惑かけてごめんなさい。」
「構わないよ。僕も一緒に連絡して、大学への説明も手伝うよ」
「ありがとう」と母は言って、大きくため息をついた。目の前にあった心理学の教科書を手に取り、しばらく見つめてから壁に投げつけた。静まり返った部屋の中に鈍い轟音 が響いた。
「もう何もかも嫌になってしまったの…」と母は言った。「私なんて、偉そうに心理学を教えたりカウンセリングしていい人間じゃないのよ」
僕は教科書を投げつけた母の手を包みこんだ。
「そんなことないよ。母さんだって人間だから心があるし、他の人と同じように疲れたら休憩が必要なんだ。逆の立場でも母さんはそうやって声をかけるでしょう?」
母は泣きながら笑った。
「ありがとう。やっぱりあなた、お父さんに似てきたわね」と母は言って、僕の頬に優しく口づけした。僕は突然のことに驚いて呆然とした。母からそういうことをされるのは、僕の記憶の中では初めてだったからだ。
それは――日本人の場合――高校生の息子にするスキンシップとしては少し大胆である。
母はこの前のように慌てて僕の頬から手を離し、「ごめんなさい」と言って顔を背けた。
別に謝る必要はないと思うが、その理由は何となく察しがついた。
「ねぇ…」と母は言って、申し訳なさそうに僕の手を握った。「私が眠るまで、その、手を握っていてほしいの…」
「わかった」と言って僕は母をベッドに寝かせ、布団をかけた。
母は少し安心した表情を見せ、ゆっくりと呼吸していた。僕は母の細い手を優しく握りながら、他愛もない話をすることにした。
学校の個性的な先生のこと、苦手な科目のこと、彼女のこと―――付き合っていることは言えないが―――など思いつくままに1人で話していた。
母は
翌朝、僕は心療内科を探した。
「私はお父さんが亡くなってからも、彼のことを毎日考えているの」と母は言って、画面に映る父の笑顔を見つめた。「どこにもいないあの人に会いたくて、おかしくなりそうなのよ。いっそのこと―――いや、何でもないわ。ごめんなさい。」
母が言いかけたことは僕にも分かった。亡くなった父と会うには―――ということだ。
「あなたの前では気丈に振る舞っていたけど、本当は胸が張り裂けそうなほど苦しいのよ。心が強くなりたくて心理学を勉強し始めたのに、いつまで経っても私は弱いままよ…」
震えながら涙を流している母の頭を僕はゆっくりと撫でた。
「ごめんなさい、こんな話をして……」と母は言って涙を拭った。「あなただって辛いのに」
「いいんだ」と僕は言った。「とにかく、親子なんだから辛い時は何でも話してよ。それに父さんのことを愛してるからこそ母さんは苦しんでるんだと思うし、その想いは父さんも嬉しいんじゃないかな。」
母は目を丸くして、それから優しく微笑んだ。
「そういうところ、お父さんに似てきたわね。」と言って母は僕の顔を両手で掴み、目を閉じて、ゆっくりと顔を近づけた。
僕は急激に鼓動が速くなり、思わず「あの…」と声を漏らした。
母は目が覚めたように
さっと
手を離し、首を振った。その勢いで母の母は頭を抱え、「ごめんなさい…ごめんなさい…」と何度も呟きながら早足で部屋に戻っていった。
なぜか僕も「ごめんなさい」と1人で呟いた。理由はわからない。
それから一週間、母は仕事を休んだ。
母は酒を過剰に飲むようになり、廊下を歩いているとタバコの匂いがした。部屋で暴れているような物音も聞こえた。
心配になった僕は、母に声をかけてからゆっくりドアを開けた。その瞬間、タバコの匂いが鼻を刺激して、僕は思わずむせ返った。
恐る恐る中を
以前までの母からは想像できない程ひどい状態だったが、1つの写真立てだけは綺麗なまま机の上に残っていた。その中には家族3人で箱根の温泉旅行に行った時の記念写真が入っていた。部屋の様子がそのまま母の精神状態を表しているようだった。
母は抜け殻のような表情で床に座ったままタバコを吸っていた。僕に気づいた母は火を消すと、聞こえないほど小さな声で「ごめんなさい…」と呟いた。
「いいんだ」
「結婚してからは止めてたんだけどね…」と母は言って、タバコの先端を眺めた。「本当にごめんなさい。」
「もう謝らなくていいよ。」
僕は虚ろな目で泣いている母の背中をさすった。
「いったん休職しよう」と僕は言った。「それから心療内科に行って、カウンセリングも受けよう。僕も付いていくから」
「そうするわ…」と母は言って僕の手を握った。「迷惑かけてごめんなさい。」
「構わないよ。僕も一緒に連絡して、大学への説明も手伝うよ」
「ありがとう」と母は言って、大きくため息をついた。目の前にあった心理学の教科書を手に取り、しばらく見つめてから壁に投げつけた。静まり返った部屋の中に鈍い
「もう何もかも嫌になってしまったの…」と母は言った。「私なんて、偉そうに心理学を教えたりカウンセリングしていい人間じゃないのよ」
僕は教科書を投げつけた母の手を包みこんだ。
「そんなことないよ。母さんだって人間だから心があるし、他の人と同じように疲れたら休憩が必要なんだ。逆の立場でも母さんはそうやって声をかけるでしょう?」
母は泣きながら笑った。
「ありがとう。やっぱりあなた、お父さんに似てきたわね」と母は言って、僕の頬に優しく口づけした。僕は突然のことに驚いて呆然とした。母からそういうことをされるのは、僕の記憶の中では初めてだったからだ。
それは――日本人の場合――高校生の息子にするスキンシップとしては少し大胆である。
母はこの前のように慌てて僕の頬から手を離し、「ごめんなさい」と言って顔を背けた。
別に謝る必要はないと思うが、その理由は何となく察しがついた。
「ねぇ…」と母は言って、申し訳なさそうに僕の手を握った。「私が眠るまで、その、手を握っていてほしいの…」
「わかった」と言って僕は母をベッドに寝かせ、布団をかけた。
母は少し安心した表情を見せ、ゆっくりと呼吸していた。僕は母の細い手を優しく握りながら、他愛もない話をすることにした。
学校の個性的な先生のこと、苦手な科目のこと、彼女のこと―――付き合っていることは言えないが―――など思いつくままに1人で話していた。
母は
おぼろげ
に相槌を打ったり、クスクス笑ったりしながら、いつの間にか眠っていた。翌朝、僕は心療内科を探した。