第4話 「その場の勢い」

文字数 1,670文字

 やはり彼女の泣き顔が可愛くて、しばらく見惚れていた。そんな僕に気づいた彼女が小さく手を振りながらこちらにやって来た。

「一緒に帰りましょう?」と彼女は言って歩き始めた。「ねえ、また私が可愛くて見つめていたの?」

 僕が下を向いて何も言えずにいると、彼女はクスリと笑って頬をつついた。彼女のこの癖にも慣れつつあった。

「君は猫を撫でながら何を考えていたの?」と僕は尋ねた。

 彼女は空を見上げ、猫を撫でる仕草をしながら記憶を辿(たど)った。「“私に構ってくれてありがとう”とか、“この子達が元気に暮らせますように”とか、そんな感じかな」

 いい子すぎるとは思うが、そこまで偏った理由で泣いている訳でもないと思えた。

「私ね、一人暮らしだから色々と料理を覚えたのよ」と彼女は言った。

「一人暮らしなんだね」

「そう。初めは祖父母と暮らしてたんだけど、私がいつまでも泣いてるから気味悪がって追い出されたの。お金だけは口座に振り込んでもらって、1人で生活してるのよ」

「……ごめん」

「何であなたが謝るのよ。」と彼女は言ってまた僕の頬をつついた。彼女が過剰に謝っていた気持ちも今なら分かる気がする。

「それでね。私の中ではハンバーグが1番得意なんだけど、もし良ければ今から家に食べに来ない?」

 一気に鼓動が速くなった。僕は今、女の子の家に誘われている。だが何と答えるべきかわからず、頭が混乱しているうちに時間が経っていた。

「やっぱり急だし、用事があったかな?」と彼女は言って、不安そうに僕の顔を(のぞ)き込んだ。

「いや、用事はないけど……」

 僕の赤らんだ顔に気づいた彼女は、からかうようにクスクス笑った。「女の子の家に行くのが初めてとか?」

「……うん」

「それで、」と彼女は言った。「いやらしいこと考えてたんでしょう?」

「考えてないよ」

 そんな考えは幸いにも的中し、僕らは彼女のアパートで静かに愛し合った。彼女の体は華奢(きゃしゃ)であり柔らかくもあった。

 いつの間にか彼女が泣いていたので、僕は心配になり声をかけた。「えっと……大丈夫?」

 彼女は小さく(うなず)いた。「あなたとこうしてることが嬉しいの」と言って僕の顔を引き寄せ、そっと唇を合わせた。

 僕たちは情熱的にお互いを求め合い、ふたりだけの世界に溶けていった。

 部屋には2人の声だけが響きわたり、世界の全てが止まったようにも感じられた。



 僕らはベッドの上に並んで横たわり、天井を見つめていた。

「付き合う前にこういうことするのって良くないのかな…?」と彼女は呟いた。

「まあ、そんなのは自分たちで決めればいいことだよ」

「確かにそうね」と彼女は言って、僕の頬に手を当てた。「あなたのそういうところ、すごく素敵だわ」

 僕らはいつの間にか特別な関係になり、交際を始めた。

 その日は母の顔を見れなかった。勘のいい母のことだから僕の変化には気づいているだろうが、気を遣ってか何も言ってこなかった。

 僕らは一緒に学校から帰ったり、近所を散歩したり、彼女の家で触れ合ったりして日々を過ごした。

 ある日、ふたりでソファーに並んで座っていると、彼女は僕の腕に顔をうずめて泣き始めた。

 僕は彼女に対して涙の理由を聞かなくなっていた。困らせたくないからだ。彼女の体は小さく震え、しゃくりあげていた。

「両親が亡くなった時に私が泣けなかった理由は、あなたのお母さんが言った通りだと気づいたわ」と彼女は言った。「私は両親がいなくなった現実を受け入れられなかった。そして泣けなかったことに罪悪感を覚え、無意識に“泣かなければいけない”という罰を自分に課したんだわ」

 彼女は今までで1番激しく声を上げて泣き叫んだ。彼女が泣き止んで眠るまで、僕は優しく頭を撫で続けた。



 数日後の夜、母は疲れた様子で食卓のイスに座っていた。そんな姿はめったに見ないので、僕は心配になり声をかけた。「具合でも悪いの?」

「いえ、大丈夫よ」と母は言って、小さくため息を付いた。

「今日は僕が夕食を作るよ。」

「ありがとう」

 食事を済ませた後、並んでソファーに座りながらテレビを見ていると、突然、母は泣き始めた。
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登場人物紹介

僕。小学生の頃から心を閉ざし、人に興味を示さなくなった。

1時間おきに泣くクラスメイトの女の子。逆に普通の顔を思い出せない。

僕の母。大学で心理学の教授をしながらスクールカウンセラーもしている。40代だが若々しくて美人。

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