第16話 記憶

文字数 4,906文字

 週末になり、朝早くに洸太から連絡が入った。約束をした今日。いつもの喫茶店で、マスターのモーニングを食べてから出かける事になった。
 三月は目の前なのに、朝の空気はまだまだ冷たい。裏地の付いたコートを着込み、洸太からもらったマフラーを巻いた。
 喫茶店までの道は、平日なら駅へと向かう人たちが眠そうにしながら急ぎ足で通りを行くのに、休日の今朝は疎らだ。のんびりと犬の散歩に勤しむお爺さんとすれ違い、しばらく行った先で喫茶店のドアに手をかけ開ける。
「いらっしゃい」
「おはよう、マスター」
「おはよ。モーニングとホットでいいのかい?」
 先に来ていた洸太の座る位置に視線を向けながら、訊ねるマスターへ頷きを返してテーブルへと足を向ける。
「おはよ」
「おう」
 普段と変わらず雑誌を広げ、顔も上げずに返事をする洸太だけれど、いつもの感じを装っているのはすぐに感じ取れた。何となく落ち着きのない様子は、さっきまで読んでいたのか、テーブルの端に置かれた少しばかり乱雑に畳まれた朝刊を見ればわかる。いつもの洸太なら、もう少し丁寧に畳んでいたはずだ。
 ストンと洸太の目の前に座り、首に巻かれているマフラーを取った。
「今日も寒いな」
「うん」
 静かな話し声で互いに言葉を交わしても、そこには硬さがあって、今日この後にある何かがそうさせているんだと、嫌でも分かってしまう。
 洸太の前にあるコーヒーは既に空で、約束の時間よりも早く来ていたのだろうと分かった。
「お待たせ」
 マスターが焼きたての食パンやスクランブルエッグ、ベーコンの乗ったプレートを置いた。その後、洸太のカップにコーヒーを注ぎ足していく。
「ごゆっくり」
 マスターに「ありがとう」と笑みを向けて、一先ず熱いコーヒーを一口飲み込んだ。
「あつ……」
「あわてんなよ」
 目の前の洸太が、いつもを装ってぶっきら棒にしている。その表情をチラリとだけ見て、モーニングへと視線を移した。
 食パンにバターを塗り、玉子とベーコンを乗せケチャップを少し、そのまま半分に折ってかぶりつく。
「相変わらず、豪快だな」
 ちまちま食べててもね。
 そんな風に言い返したかったけれど、口の中がいっぱいで喋られないから目だけで訴えると、洸太は少しだけ片方の口角を上げた。無理に笑おうとしている気がして、こっちの頬が引きつりそうだ。
 私の知らない私のことは、皮肉屋で真面目な洸太から、いつもらしさを奪っていた。
 目の前でゆっくりと雑誌のページを捲る音を聞きながら、黙々とモーニングを咀嚼して飲み込む。
 私が知りたい事は、洸太を苦しめているのだろうとわかっていても、後には引けない。自分の中に芽生えた不安のタネを摘まないまま、以前のように暮らしてはいけない。
 不安を見て見ぬ振りした反動は、別の形で周囲を傷つけてしまう。不安定な心は、人を傷つける。それが、わかるから。
 モーニングを完食し、コーヒーも飲み干した。
「行くか」
 洸太は、雑誌をパタリと閉じて伝票を掴む。今日も二人分の伝票を手にしていたけれど、何も言わず好意に甘えた。
 電車に乗って辿り着いた先は実家の最寄り駅で、洸太は駅前の花屋で花束を買い、途中のケーキ屋でプリンとシュークリームを一つずつ買った。
 その行動に、訳もわからず胸が苦しくなる。言葉にできない不安も込み上げてきて、何も言えず、ただ黙って洸太のあとをついて行った。
 実家の前に着くと、私をガレージの前に残して、洸太は一人家に入って行った。少しすると車のキーを手にして現れた。そんな洸太の後ろには、おばさんが眉根を下げて玄関先に立ち尽くしていた。
 おばさんに向かって、軽く会釈する。顔を上げると、おばさんが泣いているように見えた。気のせいだろうかと気になり視線を凝らそうとしたところで、洸太が車のキーボタンを押し、反応した車のライトが一瞬光ってロックが解除された。おばさんの表情を確認できないまま、助手席に乗るよう促された。
 おじさんから借りた車に、洸太と乗り込む。助手席で、シートベルトをしながらサイドミラーに視線をやった。見送るおばさんが、指先で目の辺りに触れているのが見えた。
 ゆっくりとタイヤが軋み走り出す。車はノロノロというように進み、まるでこの先にある場所にたどり着くことを拒んででもいるみたいだ。信号が赤で止まった時には、このまま動き出さないんじゃないかと思うほどだ。
 次の信号でも赤でつかまり止まると、洸太が口を開いた。
「スミレ……、引き返そうか」
 洸太らしくない、自信も力もない弱々しい声が問いかける。
 見ると、視線は前を向いているのに心が後戻りしたくて仕方ないような、とても辛い表情をしていた。
「洸太、ゴメンね。きっと、洸太は、行きたくないんだよね」
 行き先を知らない私には、この車がどこへ向かっていて、そこで何を目にして、どんなことを知るのか見当もつかない。そして、洸太がどれほどそのことで悩んでいるのかもわからない。
 けど、もう戻れない。知らない自分のことを知らないままいられるほど、私は能天気じゃない。何かに無理やり背中を押されているようなこの感情がなんなのかわからないけれど、前に進まければいけない気がしていた。
 洸太は何も言わず黙ったままで、信号が青になると再びアクセルを踏み、ゆっくりと車を始動させた。
「知らなくちゃいけない気がするの。このままでいちゃいけない気がするの。そこに、どんなことがあったとしても」
 応えた私を一瞬だけ洸太が見て、悲しそうに笑みを貼り付けると、再び道路へ視線を戻す。
 それから間も無くして辿り着いた場所は、三人で育った町を見下ろすことのできる高台だった。駐車場に車を停め、洸太はさっき買った花束と、プリンとシュークリームの収まる箱を持った。
 一緒に車を降りた私は、久しぶりのその場所で、頬を撫でていく風に一度ゆっくり瞬きをした。
 整備されたコンクリートの道を登り、幼い頃から知った場所へと二人で向かう。足取りがやけに重い。緩やかな上り坂のせいだろうか、足に重りでもついているみたいだ。
 隣を歩く洸太を窺い見れば、険しさをわずかに張り付けた硬い表情をしていた。長い上り坂を行き、ようやくたどり着いた場所で、私の心臓がやけに煩い音を立てだした。ドクドクと体中をめぐる血の音が、煩わしいほどに耳へと届き、自然と胸元を抑えるように右手が伸びる。洸太は諦めと悲しみを混ぜたような震える声で、目の前の硬く冷たい御影石へと語りかけた。
「遅くなってゴメンな。やっと、スミレを連れてきたよ。……奏太」
 洸太の口から漏れ出た名前に、心臓がぎゅっと委縮した。耳元で鳴り響いていた心臓の音は、私を取り囲むように更に大きさを増していく。まるで、洸太がこれから話そうとするものを拒絶するように、かき消そうとしているかのようだ。
 墓石には、奏太の名前が刻まれていた。彼が旅立った時の年齢が刻まれた御影石は、山から吹く風に寂しさを纏わりつかせている。
 洸太は、花を手向け、奏太の好きな甘いものを供えると、墓石の前にしゃがみ手を合わせた。
 しゃがむ洸太のうしろ姿を、私はどこか他人事のように眺めていた。
 そのうちに、立ち尽くしながら頭の中が何かとても硬く重いもので、ガンガンと激しく叩かれているような衝撃が走る。クラクラと眩暈がして、晴れ渡る青空は作られたように嘘くさく、手を合わせる洸太の姿が霞む。敷き詰められた小さな砂利の隙間を縫うように雑草が生えるその場所に立ち尽くしていた。頭が痛い。心臓が痛い。耳の奥でよく解らない、とても煩い音が鳴り響いている。
 静かにして……。静かにしてよっ。
 耳を両手で押さえつけ、聴こえてくる騒音から逃れようとしても、それは頭の中から鳴り響いてでもいるようだった。
 映し出されるニュース。何度も繰り返す、焦りをにじませたアナウンサーの声。言っていることは何一つ変わらないというのに、何度も何度も同じことを告げている。
 やめて、黙ってっ。そんな話聞きたくない。耳を塞ぎ、目を塞ぎ。頭の中がクラクラとしていく。
 そんな嘘、聞きたくないっ!
 手を合わせる洸太の横をふらりと通り過ぎ、砂利や緑を踏みつけ、墓石の横へと向かった。
 芹沢奏太 享年二十一歳
 その文字を、何度も何度も目で追った。
 何度追っても変わるはずのない名前は、本当は知らない誰かと間違えているんじゃないかと辺りを見回した。右隣の墓石はお迎えさんのだ。左は裏のお家。うちのは芹沢家の二つ奥にある。
 再び芹沢家の墓石に目をやれば、やっぱり奏太の名前が刻まれている。
 二十一歳って、奏太が卒業した年じゃん。早生まれで春生まれの奏太だから、今は二十四歳だよ。
「洸太……。これ間違ってる。間違ってるよ」
 ヘラっと笑って訴えかけると、墓石の前にしゃがんでいた洸太が立ち上がり、ひどく困った顔をした。
「警察に言わなくちゃ。奏太の名前が書かれてるなんて、冗談にならない。こんなイタズラ、ひどいよっ」
 取り乱し叫ぶ私の手を、洸太が掴む。何も言わず、手をギュッと握り続ける。
 泣き出しそうな瞳を見てしまえば、その手を払い除けることなどできなくて、私は力を失い立ち尽くした。地面がグラグラと揺れているみたいだ。その揺れが体内へと伝わり、眩暈に倒れてしまいそうだ。胃の中は、何かで強引に掻き混ぜられたようにぐちゃぐちゃとしてきて、嘔吐しそうなのにそれすらさせてもらえないような気持ちの悪さに見舞われた。
「意味が……わからない。なにこれ……? 奏太、行ってきますって笑ってたじゃん。洸太だって握手したよね。手を振って、笑って飛行機に乗って……」
 必死に告げる言葉に、洸太はただ黙って頷いている。
「葉書。そうだよ、絵葉書が来てたでしょ。去年の夏にっ」
 縋るような私の質問に、洸太が息を吸った。
「そうだな。絵葉書、来てたよな」
「だよねっ。きてたよね。なのに、どうしてっ!!」
 葉書が届いた、それよりもずっと前に奏太が死んだことになってるなんて、やっぱりこんなの嘘じゃないっ。
「スミレ。葉書が届いたのは、奏太が旅った年の冬だよ。去年じゃない」
「何を言って……」
 記憶が洪水のように流れ込み、脳内をかき乱す。
 どこにいるかもわからない。【元気にしてますか。僕は元気です】たったそれだけのメッセージが書かれていた絵葉書を洸太と見ながら、「どこにいるんだよっ」て笑って話して……、違う……。その下に、もう一行。
 なんて書かれていた……?
 掻き混ぜられた記憶の中から、必死にあの時見たはずのメッセージを探した。
 ……そう。そこには、【年末に、一時帰国します】と書かれていたんだ。
 その文字に、どれほど心踊らされたことか。洸太と喜び。おじさんやおばさんとも喜んで、一緒に奏太の好きなものをたくさん作るはずだった。そう、作るはずだったのに……。
 奏太の笑った顔。抱き合った瞬間の温もり。手を繋いだ時の安心感。甘いものを美味しそうに食べる嬉しそうな顔。奏太の、奏太の……。
 記憶が次々と蘇る。嫌だと思うのに、次々と目の前に現れるように鮮明になっていく。
 いつも、いつだって一緒だった奏太の笑い顔と、菫って呼ぶ柔らかな声や笑顔。
 どうして……。いやだ……!!
 色を持ち始めた過去の記憶は、鮮明で綺麗で、そして残酷な真実だった。
 一時帰国、ニュース速報、飛行機事故。
 黒い服、線香の香り。おじさんとおばさんの涙。洸太の叫び。蘇ったその全てに、私の心は耐えられなくなった。
「奏太……。奏太っ。奏太!」
「スミレ。落ち着けっ」
 頭を抱えて泣き叫ぶ私を、洸太が必死に宥めようとする。
 その手を振り払い、墓石の前に跪き何度も奏太の名前を叫んだ。
 叫んでも叫んでも、「菫」と笑顔で呼ぶあの笑顔も声も温もりも、何一つ、もう戻っては来ない――――。
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