第17話 甘え

文字数 5,419文字

 奏太は、もう帰って来ない。帰って……来ないんだ。
 もう二度とあの笑顔も、声も、温もりも……。
 気力を失い、考えることを拒み、見ているはずのもの全てが灰色だった。このまま、私の目には光など映り込むことはないかもしれない。
 涙は音もなく、壊れたみたいに只管(ひたすら)流れ続ける。頬を濡らす雫は枯渇することもなく、視界を歪め続けた。
 助手席にぐったりと座る私を、何度も心配そうに窺う洸太の気配が伝わってきても、気を遣うなんて考えも及ばず自分のことだけだった。
「実家へ行くか?」
 一人にするのは心配だからと、洸太が実家へ送り届けようとしてくれたけれど、首を振り自宅マンションまでお願いした。
「本当に大丈夫か?」
 マンションに着いてからも、洸太は何度も気遣ってくれた。小さな子を連れて歩くように手を引き、部屋まで送り届けてくれた。
 洸太の優しさはわかっても、放っておいて欲しかった。誰の顔も見たくない。誰とも話したくない。
「一人にして……」
 玄関先に佇む私を、洸太が何か言いたげに見ている。私は抑揚もなく、ふたたび言葉を投げつける。
「帰って」
 なんて冷たい言葉だろう。けれど、そんなことに気を遣う余裕など欠片もなくて、煩わしく思うほどだった。
 それでも洸太は、優しく声をかけてくれる。
「何かあったら、なんでもいから連絡しろ。いつでも飛んでくる。俺がいるからな」
 頼もしい言葉も、今の私にはほんの少しも響いて来ない。
 佇む洸太をマンションの廊下に残し、顔も見ずに冷たいドアを閉めた。

 靴を脱ぎ捨て、カチコチと鳴る部屋の壁掛け時計の音を耳にし、フラリと部屋に上がって時を刻む針を見る。
 午後二時。まだ何も思い出せないまま食べたマスターのところのモーニングは、胃の中でとっくに消化されているはずなのに少しも空腹感を覚えない。冷蔵庫の中にある水を取り出し、その場で喉に流し込んだ。口元からこぼれて伝う水が胸元を濡らしても、どうでもよかった。着替えることもせず、蓋の空いたペットボトルを持って、力尽きてベッドに腰を下ろす。
 カチコチと刻む音を聞きながら、そのままベッドに横なる。手にしていた水がボトルの口からこぼれて床を濡らしてもどうでもよくて、なにもせず布団の上で丸くなる。
 目をつぶり思い出すのは、全て奏太の笑い顔ばかり。最後に「行って来ます」と笑顔で言った声が耳の奥に蘇る。
 寝転がりながら、右腕を目元に持っていき覆った。そうしていても、奏太の笑顔は薄れることなく、私の中に鮮明に焼きつき離れることはない。
「奏太……」
 出した自分の声は別人のようで、掠れて上ずっている。涙のせいなのか、それとも受け入れたくない記憶に声帯も拒絶しているのか。どちらにしろ、奏太からの返事がないのは一緒だ。
 もう二度と、奏太の声を聴くことはできない。そう思うとまた涙があふれだす。
 何度も手で拭い、布団に顔を押し付けても、水分は底なし沼のようだ。枯れることなどない。涙の塩分が目元や頬をひりひりとさせる。
 どのくらい経っただろう。いつの間に眠ったのか、涙でひりつく瞼を持ち上げれば、開けたままだったカーテンの外は暗闇だった。
 喉の渇きを覚えてベッドから降りれば、足元が濡れた。水分が床から靴下の生地へと少しずつ侵食していく感覚に、溢れたまま放置していた水だと気づいた。中身をほとんど無くし倒れたままのペットボトルを一瞥して、再び冷蔵庫を開けた。また水のペットボトルを取り出し飲んだあとは、着替えることも、食事をとることも、ましてテレビなどつけることもなく、壁掛け時計の音をただ聞いていた。
 誰もいない見慣れた空間で、空虚に時間を食いつぶす。
 バッグの中に放置したままだったスマホが、何度か鳴っている。洸太かも知れないと思っても、出る気力もなく無視した。
 誰かと話す気になどなれない。できればこのまま、永遠に一人でいたい。
 鳴り続く呼び出し音を何度も聞き流し、そのうち充電も切れるだろうと布団の中に潜り込む。
 口から漏れるのは奏太の名前か溜息しかなくて、どうしてこんなことになっているのか、考えても考えてもわからなかった。
 奏太がいない。奏太は、二度と目の前には現れない。
 その事実だけが、心を抉るように強く暗闇へと引き摺り込んでいく。
「いってきますって、言ったのに。ただいまがないなんて、おかしいじゃん……」
 枕に顔を埋め、くぐもった声で叫んでも、奏太はもう何一つ応えてはくれない。
 思考はその繰り返しでしかなくて、誰も奏太を連れて帰って来てはくれないし。奏太から連絡など二度と来るはずもなくて、現実を思うたびに苦しくて辛くてまた涙が溢れ出た。
 再び泣き疲れて眠っていたら、ドアを叩く音に気がついた。しつこく何度もドアを叩く音が、必死過ぎていやになる。瞼を持ち上げれば、今度は陽の光が眩しく部屋を照らしていた。ふらりとベッドから降りて、亡霊みたいに玄関へ向かった。ドアを叩く音は止まず、私を呼ぶ声がする。
「スミレ? スミレっ。なぁ、いるんだろ? スミレ」
 繰り返し呼ぶ声は、ずっとそばで聞いてきた洸太の声だ。
「スミレ。返事してくれよ。いるんだよな? 大丈夫だよな? スミレっ」
 必死すぎる声と止まないノックに、力なく鍵を開けた。
 ドアが開くとわかった瞬間、外から勢いよくドアを引き開けられた。目の前に立つ私の姿を目で捉えた洸太は、泣き出しそうな表情で抱きついてきた。
「よかった、よかった、スミレ」
 安堵した声で私を抱きしめる洸太は、しがみつくように震えていた。雨の日に捨てられた、小さな生き物みたいだ。
 違うか。捨てられてしまったのは、私だ……。一人になった現実を突き付けられて、震えているのは私の方だ。手を差し伸べて胸に抱えてしまったら、連れて帰らないわけにはいかない。中途半端な優しさなら、初めからない方がいい。それは、とても残酷なことだから。ほんの数日分のエサ、ほんのわずかな時間の温もり。それを知ってしまったら、今の雨が、今の寒さが、今の悲しさが、何倍にも膨れ上がる。
 洸太は、それをわかっているのかな……。私なんか、拾うべきじゃない。
「電話、全然出ないし。連絡もして来ないし。あのまま別れた事、すげー後悔した」
 抱きしめられた耳のすぐそばで、心配し焦ったような声で話す声をぼんやりと聞いていた。
 あなたが拾った小動物は、温もりに慣れてしまったみたいだよ。頭のどこかで、こうやってきっと洸太が来てくれることをわかっていたし、期待もしていた。涸れることなどないと悲観に暮れて涙を流し、食事をとらないまま日付を跨いでも、こうやって温かなものに包まれることを知っていた。
 私は、ただの甘ったれだ。他人事みたいに思う裏側にある狡猾な思考。
 あんな風に泣いて叫んで、帰る頃に屍みたいな姿を見せたら、誰だって心配になる。勝手に死なれちゃ困るだろうし、後味も悪い。そんな風に言ったら洸太は怒るだろうけれど、どこか頭の片隅ではそう考えていたはずなんだよ。
「私は、死んだりしないよ……」
 自然と片方の口角が上がった。いつもの皮肉よりも、もっと感じが悪い。洸太の腕から逃れて、その嫌味な顔を見せつける。
 もういいよ。奏太はいない。洸太は、私の兄でも親でもない。ここまで心配する必要なんてない。こんな面倒な女、放っておけばいいんだ。当たり前にあった温もりに縋りたくて、私はまた泣くかもしれないけれど、それは洸太の優しさに付け込んだ傲慢な弱さだ。寒い外に、エサもなく放り出してくれて構わない。奏太のいない世界に、私の居場所なんてないのだから。
 皮肉に上がった口角はなかなか下りず、自分の顔が歪んでいるのがわかった。目の前の洸太は、泣きそうなほどに悔しい顔を向けてくる。今にも掴みかかり、怒鳴られそうな顔つきに変化していく様を見ていたら洸太が叫んだ。
「当たり前だっ!」
 怒ったような言い方は、怒鳴り声というよりも、悲しくて堪らないという心の叫びに聞こえた。
「俺を……、一人にしないでくれ……」
 再び縋り付くように、洸太の手が肩を引き寄せ抱き締められた。肩先に埋められた洸太の息遣いは、切なく速い。嗚咽になりそうなのを必死に堪えるように、抱き寄せた力が強くなる。
 湿っていく私の首筋。温かな涙の感触。拾われたのは、私じゃなかったのだろうか。奏太をなくして途方に暮れた私に温もりを与え、餌をやってくれていたのは洸太だと思っていた。いつも貰ってばかりで、それを当たり前に受け入れてきたと感じていたけれど、本当に寒さに震え飢えていたのは、洸太なのかもしれない。
 私の衣服が湿っていく。外気に触れて、部屋の温度に紛れていくよりも速いスピードで、温もりを蓄えた涙がこぼれている。
 自分だけが悲しいわけじゃないと、思い知る。
 わかっていたはずだったのに。
 現実を受け入れられなくて、記憶を消してしまった私のそばに、洸太はずっといてくれた。洸太という存在に頼り、甘え続けていた。洸太が居たから、私は今まで生きて来られたのに。
 自分の悲しみを差し置いて、大丈夫と声をかけてくれる存在に、すっかり頼り切っていた。
 あの日。奏太が事故にあったと知った時、あまりのショックに私は心を封じた。入社したばかりの私に休みを取らせ、上司と話し合って守ってくれたのは洸太だ。全てをなかったことにしなくちゃ、生きていけなくなった私を受け入れそばにいてくれた。
 そんな洸太の思いやりもすべて記憶の奥に封じて、何もなかった顔をして生きてきた。どうしようもない自分の情けなさに、私はその場に崩れてしまう。
「ごめん……洸太……ごめ……」
 玄関先に崩れゆく私の体を、洸太は抱き締めたまま蹲る。背中に回った大きな手が、いつもと変わらず大丈夫だというようにゆっくりとさする。同じように涙で顔を歪めているだろう洸太が、何度も何度も優しく背中を撫でてくれた。

 落ち着きを取り戻した私たちは、相変わらず音のない静かな部屋の中でテーブルを挟み向かい合っていた。
 テーブルに置かれたマグの中で、インスタントのコーヒーが湯気を上げている。
「私、ずっとみんなに気を遣わせてたんだね……」
 カップに手を添えて、ポツリと漏らす。
 洸太は、穏やかな瞳で黙って見つめている。こんな酷い姿を前にしていても、ずっと言えずにきた真実を話せたことに、ほっとしているのかもしれない。
 記憶がもしもこのまま戻らなかったとしても、洸太はきっとそれでも嘘をつき続けていてくれただろう。奏太がいつか戻ってくると、真実のように笑いかけてくれたのだろう。それを思うと、申し訳なさと感謝の気持ちで、また心が攪拌されていった。
 やさしさに甘える私を、見捨てずにいてくれてありがとう。
「おじさんもおばさんも、洸太だって。身内の方がよっぽど辛いはずなのに、私……酷いね」
「……スミレは、奏太のことをとても大事に思ってた。それだけのことだ」
 短い言葉の中にある、労りや思い遣り。ガレージで見送ってくれたおばさんの涙を思い出す。私の前でずっと嘘をつき続けて、どんなに辛かった。
「謝りに行かなくちゃね」
「謝ることなんかないさ」
「御線香……あげにはいきたい」
「……うん」
 言葉にすれば事実を突きつけられ、涙は勝手に零れ落ちる。ポトリとテーブルに落ちる雫は頬を濡らし、あれほど泣いたと言うのに、まだ足りないみたいだ。
 洸太の手が伸びる。濡れた頬に優しく親指が触れ、涙の跡を拭う。
「明日は、仕事休め」
 心配する洸太を歪む瞳で見返せば、洸太も泣きそうで。やっぱり私は自分のことだけなんだ、と思い知る。
 この先も、私はまた何度も洸太に甘えてしまうのかもしれない。こうやって目の前で涙をこぼし、困らせてしまうのだろう。
 けれど、あの事故の時よりも私は成長している。失われていた記憶の決壊に、感情は怒涛のように津波にさらわれ、抉り取られるような痛みを感じた。
 ただ、それも二度目だ。人間というのは、うまくできているもので。痛みに少しずつ鈍感になっていくようだ。それは、ほんのわずかずつの時もあれば、とても振り幅広く、まるで鋼鉄の壁でも築いたように平気になることもある。私の慣れに鋼鉄の壁はないかもしれないけれど、それでもあの日よりも、自分を見失わずにいられると思うんだ。それがいいのか悪いのかよくわからないけれど、これ以上洸太に心配をかけ続けるわけにはいかない。
 社会人なのだ。いい大人なのだ。数年前の事故に心を病んだからと言って、仕事を休むだなんて、甘えたことなど言っていられるわけがない。
 つらいも悲しいも、乗り越えなくちゃいけない。私は、生きているのだから。
「大丈夫。三年前と同じ事は、繰り返さない。だから、仕事もちゃんと行く」
「スミレ……」
 頑張って口角を上げてみたけど、涙が溢れてしまった。まだ少し、強がるのは難しかったみたいだ。
 こぼれた涙を手で拭えば、頬の当りはひりひりとして、あかぎれにでもなっているみたいだ。
 そんな私の手を洸太が握る。そばにある優しさに、私はまた甘やかされる。
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