第5話 二度目のJAZZ BAR

文字数 5,341文字

 マフラーを買ってもらった後、洸太に夕飯がてら飲みに誘われたけれど断った。
「マフラーを貰っても、媚びないところが好きだよ」
 皮肉めいた言い方に、「ありがとう」と同じように皮肉な笑いを返してから手を振りわかれた。
 特に何か目的や用事があるわけではないけれど、なんとなく一人になりたかった。年末の慌ただしさと、今年もあと少ししかないという追われるような寂しい雰囲気が、そんな気持ちにさせているのだろうか。それとも、今日は奏太のことを考え過ぎたからかな。
 頭の中で、昨夜見た五分番組がまた流れ出す。
 洸太も観てたんだ。やっぱり、気になっちゃうよね。もしかしたらなんて、万に一つもないのかもしれないけれど。その万に一つに出会える気がして、目を離せなくなる。
 奏太の姿は旅立っていった時のまま、私の中では真っ白なTシャツと履きなれたジーンズにリュックを背負っていた。その姿のまま今も過ごしているわけなどないのに、どうしても画面の中に白い服を探してしまうし、リュックを背負った背中を見つけようとしてしまう。
 ねぇ、奏太。今年は、帰ってきてよ。みんな待ってるんだから。……逢いたいよ。
 奏太を想いフラフラと歩いているうちに、不意にこの前のジャズバーが頭に浮かんだ。
 一人でバーなど慣れていなくて敬遠していたけれど、鈴木君に連れられて入ったあの店は、バーテンダーの人懐っこい笑みのおかげか、一人だというのにもう一度足を運びたくなった。

 賑わう通りから一歩入った、路地の先にある地下への階段。仕事帰りでスーツ姿だったこの前とは真逆で、今日はとてもラフな格好をしている。スニーカーにジーンズと膝丈ほどのデニムコートに、さっき洸太に貰ったマフラーだ。
 服装と同じくらい軽快に階段を下りてから、大きなドアに手を伸ばしてゆっくりと開けた。一度目の時と同じように、音が洪水みたいに耳へと飛び込んで来て、いい意味での衝撃が心臓に走った。
 それからすぐに、この前とは明らかに違う音質に気づく。
 生音?
 以前来た時には静かに流れていたジャズだったのに、今は激しくそれでいて楽しげなピアノとギターが聴こえてきた。
 その音楽に導かれるようにして中へと踏み込むと、存在感いっぱいだったあのグランドピアノの前に女性が座って指を躍らせていた。そのすぐそばには、銀髪の五十代後半くらいのおじさんが目を瞑り、ギターを気持ちよさそうに奏でている。
「いらっしゃいませ」
 入り口から少し入った先で見惚れ聴き入るように立ち止まったままでいると、バーテンダーの彼が来て声をかけてくれた。
「とてもいいタイミングですね。滅多に聴けないですよ」
 屈託なく微笑み、音楽を奏でる二人へ視線をやったあと、カウンター席へと案内してくれた。
 コートを脱いで隣の席に置いてから、未だ演奏を続けている二人へと視線を向けるために椅子をくるりと回し、カウンターに背を向けた。
「テーブル席の方が良かったかな?」
 気遣うように訊ねられたけれど、演奏が終わってしまった後のことを思えば、ここで正解だと思う。
 一人でテーブル席にいるよりも、カウンターでバーテンダーの彼と少し話をするくらいが丁度いい気がした。
「有名な方たちですか? なんて言うか、素敵ですね」
 見惚れたまま、自然と言葉がこぼれていた。
 ジャズのジャの字も知らなくて、気の利いた感想も言えないけれど、音楽の楽しさやピアノを弾いている彼女のジャズに対する愛が伝わってくる。
「痺れますね」
 心臓に直接語り掛けてくるような、耳の奥を刺激してくるような。初めて聴く音楽なのに、自然とリズムを取りたくなってしまうくらい楽しい。
「でしょ」
 バーテンダーの彼は、自分のことのように笑みを浮かべている。
 曲が終わると、テーブル席に座る人たちからたくさんの拍手が上がり、カウンターで聴き入っていた私も拍手を贈った。
 深く、深く、頭を下げるピアニスト。たったこれだけしかいない観客に、とても深い感謝を込めている。それを受け取るように、拍手は驚くほどに膨れ上がっていった。まるでコンサートホールにでもいる気分だ。
 実際にはコンサートホールで演奏など聴いたことはないのだけれど、きっとそうだと思わせるくらいの華やかで壮大な空気に包まれた。
「とても素敵なコンサートへ来たみたいです」
 カウンターへ向き直ってバーテンダーへと話しかけると、笑顔のあと視線を私の少し背後へとやった。
「俊ちゃん、いつもの」
 演奏し終えたピアニストの彼女がこちらへ歩いて来て、少し離れたカウンター席に腰かけた。
「また、ファンが増えたみたいだよ」
 “いつもの”と言った彼女の前に琥珀色の飲み物を置いたバーテンダーが、ピアニストへそう囁いているのが聴こえてきて照れくさい。
 気恥ずかしさに目を伏せつつもピアニストの彼女を見ていたら、琥珀のグラスを持ち上げて、小さく会釈と笑みをくれた。
 絵に描いたようなというか、映画にでも出てきそうな優雅でスマートな仕草に、アニメのようにペコペコと頭を下げるしかない自分が益々気恥ずかしい。
 なんて、かっこいい人なのだろう。私が男なら、絶対に惚れてしまう。まるで恋にでも落ちたみたいに勘違いした心臓が、トクトクとときめくように脈打っている。
 演奏に聴き惚れている間に、目の前にはいつの間にかオススメでお願いしていたお酒が置かれていた。今日のカクテルは、ほんのり桜色した飲み物だ。表面に桜かな。花びらが一枚浮いている。こんな時期に、どこで咲いていたのかな?
 カクテルの表面をまじまじと眺めていたら、バーテンダーの彼がそばに来た。
「僕が作った桜です」
「え?」
 育てたってこと? 庭にでも桜の木が咲いているのだろうか。
「飴細工です。食べられるから安心して」
 飴? これ、飴なの? すごいっ。
 思わず感動して、バーテンダーを凝視してしまった。彼は、さり気ない笑みを返した。
 とても薄くできた花びらは本物みたいで、こんな繊細な作業をこなすなんて驚きとしか言いようがない。鈴木君が褒めていたのがよくわかる。
 それにしても、さっきから驚きしか言葉がないって、ボキャブラリーがなさ過ぎて凹むな。
 花びらの浮くカクテルを口にすると、ふうっと息が漏れた。とても美味しい。ほんの少し香る桜の匂い。一足早く春が来たようで、得した気分だ。
(わたる)が女の子をここへ連れてきてくれて、僕まで嬉しくなったよ。渉のこと、よろしくね」
 注文が一息ついたところで、バーテンダーの彼が前に来て話しかけてきた。
「渉?」
 首をかしげると、あれ? っという顔をされた。
「人の顔は、一度見たら忘れないはずなんだけど……。この前はあそこの席で、スーツだったよね?」
 自分の記憶に自信を無くしたように、バーテンダーの彼が視線で奥のテーブル席を示し確認した。
 ああ、もしかして渉って。
「鈴木君のことですか?」
「そうそう。鈴木渉」
 記憶に間違いがなかったことにホッとしたのも束の間、鈴木君との間を勘違いしてしまったかなというように、彼は僅かに苦笑いを浮かべている。
「鈴木君とは同期で、実は今まであんまり話したことがないんです。この前は、忘年会の二次会に行きたくない私を、鈴木君が助けてくれて。その帰りに、たまたまここに連れてきてもらって」
 彼は、穏やかな表情で頷いた。
「みんなで飲むのは嫌じゃないけど、その日はなんとなく……。みんな一次会からとても盛り上がっていて、二次会にもノリノリで。けど、この時期で一年の疲れが溜まったみたいに、そういう場に行くのがだるくなってしまって。そしたら、鈴木君も帰るって言うから、一緒に一次会だけで帰ろうとしてたんですけど、他の社員に呼び止められてしまって……。鈴木君は咄嗟に、私の具合が悪いって嘘をついてくれて」
「渉らしいな」
 え?
「あいつは、気配り上手だから」
 何が面白いのか、バーテンダーはそう言って少し笑ったあと、「今のは、内緒で」と口元に人差し指を置いた。
 気配り上手をわざわざ内緒にしなければいけない理由は分からなかったけれど、とりあえず頷いておいた。
 それにしても、鈴木君の名前、渉っていうんだ。初めて知った。普通すぎる苗字に気を取られていたせいか、下の名前にまで気が回らなかった。
 カクテルを口にしていると、やけにアルコールが回ってきた。飲んだ時の、このふわふわとしていく感覚は気持ちがいい。考えてみれば、洸太との夜ご飯を断ってここへ来ているのだから、何かお腹に入れないと、悪酔いしてしまうかもしれない。
「あの、何か軽く食事がしたいんですけど」
 訊ねると、任せてというように「高菜は、好き?」と訊ねられて取り敢えず頷いた。好きでも嫌いでもないからだ。あまり高菜を食べる機会がなかったから、好きか嫌いかと訊ねられても分からなかった。それでも嫌だと言わなかったのは、目の前のバーテンダーが不味い料理など作るはずがないと、前回食べたことで確信していたからだ。
「少し待ってて」
 料理をするために奥の厨房へ入っていく彼の姿を見ていたら、先ほど気持ちよさそうにギターを弾いていたおじさんが替わりのようにカウンターに入った。
 あれ? この人もバーテンダーなの?
 カウンター越しにピアニストの彼女の前に立ち、親しそうに会話をしながら、入る注文のアルコールをさばいている。
 鈴木君の友達の彼には申し訳ないけれど、手際の良さが格段に違って凄さがよくわかった。この人が、ここのマスターなのかもしれない。
 そんな想像をしていたら、食欲をそそるとても香ばしい匂いがして来た。
「お待たせしました。高菜チャーハンだよ。熱いから気をつけてね」
 スプーンを渡されて料理を見れば、高菜と挽き肉を炒めたご飯が湯気を上げていた。
「とってもいい匂い」
 さっきまで空腹にも気がつかずにお酒を飲んでいたのに、お腹が正直に鳴り出した。まるで彼が料理を目の前に置いたら、空腹センサーのスイッチが押される仕組みにでもなっているみたいだ。
 熱々の湯気を上げる高菜チャーハンへスプーンを入れると、胡麻油の香ばしさも漂い、迷うことなく口へと運ぶ。
「美味しいっ」
 匂いだけでもすでに美味しかったけれど、口に入れたらたまらない。ほっぺたがキュッとなり、思わずスプーンを握ったまま頬に手を持っていってしまうほどだ。
 何これ、お酒も進む。
「料理、本当に上手ですね」
「ありがとう。渉に何か訊いた?」
 嫌な表情一つせず問い返すバーテンダーへ頷いた。
「鈴木君は、自分がフラフラと大学に行ってる間に、バーテンダーさんがすごく頑張って料理の資格を取ってたって」
「渉のやつ、そんな事言ってたんだ。あ、僕は俊ね。呼び捨てでいいよ」
 気さくで人懐っこい笑みは、俊と呼び捨てよりも君づけの方がいい容姿だ。だから、俊君と呼ばせてもらうことにした。
「俊君が頑張っているのを見にくることで、自分も頑張れるって言ってて」
「何だよ、渉のやつ。照れるな。そんなこと言ったら、あいつだって凄いんだけどな」
 本当に照れ臭いのか、髪の毛から覗く耳がほんのり赤みを帯びている。
「渉。フラフラ大学に行ってなんて簡単に言ったかもしれないけど。渉にしてみたら、それってものすごく大変な努力だったんだ。まー、その辺の話は、本人から聞いたほうがいいと思うけど」
 自分からはあえて話さない、鈴木君を気遣う彼の姿勢に好感が持てた。
 何でもかんでも訳知り顔でベラベラ話す人は、信用ならない。そんな人ほど、上っ面だけを見て知っているふりをすることが多いからだ。
「仲がいいですね」
 あいつなんて言い合うくらいだし、このお店に通っている鈴木君が少し羨ましくなった。こんな風にお互いを高め合う仲間など、なかなかできるものじゃない。
 私を高めてくれていた奏太は、もうそばにいない。遠い空の下、彼は今なにに向かって自分を高め、鼓舞しながら歩き続けているのだろう。
 遠い異国の地で、誰か頼れる人を見つけることはできただろうか。友達を作るのが得意な奏太だから、数えきれないほどの人たちと笑いあって、旅をしている気がする。
 そうやって日々を超えていても、少しくらいは私や洸太のことを思い出してくれているだろうか。
 毎日のように奏太のことを思い出す私たちのようにとまではいかなくても、眠る間際の目を閉じる瞬間だけでも思い出していてくれたらいいな。
 美味しい高菜のチャーハンをしっかり完食し、もう一杯この前作ってもらったものと同じカクテルを飲んでから、その日はジャズバーを後にした。
 洸太には悪いけど、一緒に食事へ行かなくてよかった。鈴木君に連れられて来たこのバーをとても気に入ったからだ。
 外に出ると遠くに賑やかな酔客の声が聞こえて来たけれど、このバーのそばだけは静かで。それがどことなく神聖に感じ、見上げるととても明るい月が煌々と輝いていた。
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