第24話 笑顔の箱

文字数 5,952文字

 昨夜、公園で聞いた鈴木君の話しは、簡単な言葉では片付けることのできない類のことで。連絡の取れなかった鈴木君自身無事だった事を良かったと思っても、それを口にするのを躊躇わせる内容だった。
 お母さんのことをずっと抱えて来た彼に、良かったなんて言えるはずがない。
 それでも、彼が元気でいたことにホッとせずにはいられない。奏太と同じことは、もう二度とごめんだ。
 バーで鈴木君が言った通り、彼は翌日いつものように出社してきた。変わりのない顔をして席に着き、少しぼんやりとしてから休憩室にふらりと向かい、コーヒーを淹れる。
 ルーティンワークともいえる姿を目にして、頬が自然と緩みほっとした。いつもの彼がそこにいるというだけで、とても安心できた。
 仕事中、特に何か話しをするわけでもないけれど。そこに彼がいるというのが、とても大切に感じられた。

 終日働き、帰り支度をしているところへ洸太がやって来た。
「珍しく、残業なしなんだ。一緒に帰ろう」
 送り迎えを断ったとはいえ、今までの付き合いを考えれば拒むのもおかしな話で、頷きながらバッグを持って立ち上がった。
「腹、減らないか?」
「そうだね。何か食べてく?」
 ビルのエントランスを出て話していると、洸太がふいに思いついたような顔をした。
「なぁ。久しぶりにうちに来ないか?」
「うちって、マンション?」
 訊ねると、相好を崩して頷く。
「実は、ソファを買ったんだ。ちょっと奮発したから、座り心地いいぞ」
「うっそ。行く、行くっ!」
 以前話していたソファが、現実になるとは驚きだ。特別ボーナスでも入ったのだろうか。できる男は違うね。
 洸太の提案にノリノリになり、近くのスーパーへ二人で寄り食材を調達する。並ぶ野菜や果物を眺めながらカートを押した。
「それにしても、久しぶりにっていうどころじゃないよね。洸太が引っ越して以来でしょう」
「だな」
 奏太が戻らないとわかった時、洸太は涙を浮かべながら単身用のマンションへと越した。二人で使っていたものを片付けていくたびに、奏太を消していくみたいで苦しいと言っていた。
 記憶をなくしていた私は、その頃の洸太を今になって鮮明に思い出し、同じように心に痛みを覚える。
 消していくわけじゃない。消し去れるはずなんかない。
 胸の中に渦巻く悲しみに、涙が浮いてくる。
 カートを押す手をさりげなく目元へ持っていき、洸太に気づかれないように拭った。
「突然、女の人が訪ねてきたりしないでしょうね」
 悪戯な顔をして訊ねると、わざと意味深な表情をするから笑ってしまった。
「来るわけないだろ。誰も入れない。スミレ以外」
 最後の言葉に、心臓がビクッと反応する。なんて応えればいいのかわからず、黙ってカートを押し続けた。
 食材の収まるスーパーの袋をブラブラと揺らしてマンションまでの道を歩いていると、「撹拌すんなよ」と洸太が笑い手を伸ばす。
 ビジネスバッグとスーパーの袋を手に下げる姿は、あまりに似合っていない。洸太には、生活感がないからだろう。変な話、テレビに出ている俳優と大差ないと思う時がままある。身長もすらりと高いし、着ているスーツもシューズも皴や汚れなんかの落ち度なく、いつだってピシッとしている。
 俳優というよりは、モデルに近いかもしれない。一緒にいるのが、時々不思議に思えるくらいだ。
 奏太は正反対で、どちらかというと可愛い系だ。甘いくしゃりとした笑顔を見せるわりに、頑固なところがあって、譲れないと主張するこだわりが強い。
 だから、きっと一人で行ってしまったのだろう。私たちを置いて、一人で逝ってしまったんだ……。
「お邪魔しまーす」
 もう何年前だろう。荷物を運び込み整理するのを手伝ってからは、一度も洸太の部屋に入ったことがなかった。それは、二人のマンションの間にマスターの喫茶店があることや、それ以外の場所で食事をすることや、洸太の残業があることにも起因するけれど。きっと、奏太がいなくなってしまった。その現実が、一番大きな要因だ。
 奏太が一緒なら、洸太の部屋にだって躊躇なく押しかけていたことだろう。それができなくて、しちゃいけない気がするのは、洸太の気持ちが幼馴染以上だというのを心のどこかではわかっていたからだ。
 そばにいてくれることに甘えながらも、それ以上はと線引きして来た。なんて都合のいいことをしてきたことか。
 なのに、今になって行こうと思ったのは、鈴木君のせいかもしれない。
 彼の思いや気持ちや気遣いや、あの屈託無く笑う三日月の目と俊君との掛け合いが、私を前向きに明るくさせてくれているから。奏太がいた頃と変わらずに、この先も洸太と過ごすことを自然と望んでいる。実家がお隣で、マンションがご近所で。幼馴染で、頼れる上司。
 1LDKの部屋にあるリビングへ入る早々、目に飛び込んで来たのは革張りのクリーム色したソファだった。
「うわー。これが噂のっ」
 弾むように言ってから座れば、体を包み込むような優しい座り心地に思わず感嘆の溜息だ。
「これ、やばいって。ここに座ったら動きたくなくなるでしょ」
 キッチンでコーヒーを淹れている洸太を振り返えれば、背中が可笑しいとばかりに揺れている。
「一生座っててもいいぞ」
 からかうようにしてから、コーヒーを目の前のテーブルに置いた。
「この上で暮らせるよ。ホント」
 深くだらしのない姿勢で座っていると、洸太は笑みを浮かべたままキッチンへ戻る。
「あ、私も手伝うよ」
「いいよ。スミレは、座ってろよ」
「何それ。ていうか、洸太って料理できたっけ? 奏太は器用に色々作ってたけど、洸太が料理できるイメージないんだけど」
「俺も、一人暮らしが長いからな。それなりには」
 レタス片手に振り返り、「見てろ」なんて少しばかり胸を張る。生活感なんてこれっぽっちもないと思っていたけれど、レタス片手に料理をする姿は、なくもないなと思わせた。
 意外と、いい夫や父親になるのかもしれない。
 洸太の料理を待つ間に、眠気に誘われる。あまりに座り心地がよくて、少しずつ瞼が下りていった。
「できたぞ」
 頭の上から降ってきた洸太の声に、浅く背もたれに寄りかかって目を閉じていた私は瞼を持ち上げる。
「ごめん。寝ちゃってた」
 もぞもぞと座りなおすと、可笑しそうに見ている。
 洸太が振舞ってくれた料理は、タコライスだった。シャキシャキとしたレタスの食感と、辛味を少しマイルドにするチーズがたまらない。
「辛っ。でも美味しっ」
「ビールにも合うよな」
 タコライスと共に洸太がビールを用意してくれて、並んでソファに座りながら黙々とタコライスを口に運び、ビールを喉に流し込む。時々、「辛いっ。でも、おいしっ」と、声をあげるのがセットになっていて、言うたびに二人で笑っていた。
 それがなんだかとても楽しくて、食べるペースも自然と上がる。
 洸太とこんな風に明るく声を上げて食事をしたのは、本当に久しぶりだった。洸太との食事でこんな気持ちになるなんて、今までならあり得ないことだった。記憶が戻ったことは、悪いことばかりじゃないのかもしれない。こんな風に、とても懐かしい気持ちになるのだから。
 笑顔を閉じ込めていた箱の蓋が少しずつ開いていく感覚は、心を明るい方へと導いていた。
「完食〜。ごちそうさまでした」
 スプーンを置いて手を合わせると、隣では既に食べ終わっていた洸太が満足そうな表情を向けてきた。
「その顔。なんか、勝ち誇った風に取れるんだけど」
 若干、不満気に返すと、「何にだよ」と笑っている。
 今日の洸太は、よく笑う。奏太がいた頃にはまだ遠いけれど、それでもずっと笑っている。
 肩の荷が、下りたのかな。そうならいい。私の分まで、洸太が心に負担を背負うことはない。
 洸太の笑顔に安心して、食べた食器を持ってキッチンへ行く。
「洗わなくていいぞ」
「うん。洗わない」
 即答すると、「スミレらしい」と笑う。
 ホント、よく笑ってる。
 洸太にも現在(いま)を生きて欲しいな。洸太のおじさんが言ったように、現在(いま)を。
 リビングへ戻る途中に書棚へ目がいった。ビジネス関連の書籍が並ぶ棚の中に、奏太と三人で写した写真が、シンプルな木目の写真立てに入れられ飾られていた。
「これ、懐かしいね。大学の時のだよね」
 何の変哲もない三人が並んで映る写真は、確か食堂を出た先の芝生の上だ。満腹になったお腹をさすりながら寝転んで仰向けになり、寄り添うように三人がくっついて、洸太が腕を伸ばしスマホで撮ってくれたやつだ。
「プリントしてたなら、私にもちょーだいよ」
「画像も荒いし、何っていうわけでもない写真だからな」
「けど、三人ともいい顔してる。懐かしいなぁ。いつも写真を撮るときは、こうやって私を間に挟んでたよね」
 奏太と二人でいることももちろん幸せだったけれど、二人の間は本当に心地よかった。
「なあ、スミレ」
 自分の食器をシンクに置いた洸太が、書棚の前にいる私のそばへとくる。
「これからはさ、俺と二人で写真を撮るってのは、どうだ?」
 洸太の言葉に振り返り、わずかに首をかしげてから、何を言いたいのかを理解した。
「洸太……」
「奏太が、……忘れられないか?」
 忘れられない……。違う。忘れたくない。けど、それが理由じゃない。
「――――私は、今まで通りがいい……。洸太とは、この先もずっとこのままが……いい」
 奏太がいなくなってしまった今。洸太まで失うようなことにはなりたくない。洸太のことをそんな風にみられるかどうかわからないし、何より男女の関係になってしまったら、いつか別れる日が来てしまうかもしれない。そんなことには、なりたくない。
 ううん、違うな。そんな建前なんて、洸太が納得しないし、私自身も納得しない。
 私はもう気が付いている。洸太の優しさや頼りがいのある姿に甘え、たくさん助けられてきたけれど、今そばにいて欲しいと願うのは、違う。記憶をなくし、弱っていた気持ちでは判断できなかった感情が、今ならわかるんだ。
 酷い奴だと思われて罵られたとしても、気持ちは変わらないし、変えられない。
「洸太とは、年を取ってもずっと奏太の話を懐かしむように話せる仲でいたい」
 これは、私の我儘だ。洸太の気持ちを弄んだつもりはなくても彼は傷つくだろう。
 それでも心が望む洸太との関係は、男女にはなりえない。奏太へ抱いていたあの感情と、同じにはならない。
 その感情を今の私が抱いている相手は――――。
「鈴木のことは、どうなんだ?」
 徐に訊ねられて、一瞬心臓が跳ねた。その後すぐに浮かんだのは、鈴木君の笑った顔だった。あの眼鏡の奥の瞳を三日月にして笑う顔には、本当に癒される。
「そばにいたいって……思う」
「あいつの家のことは、聞いたのか?」
 コクリと頷いた。
「きっと、簡単なことじゃないぞ。傷や骨折と違って、心はすぐに治らない」
 洸太の言いたいことは、よくわかる。けど――――。
「放っておけないんだよね。洸太が言うように、もしかしたらこの気持ちは、情けなのかもしれない。いつか、何日か何か月か経って、違ってたって、やっぱり情けだったんだって思うのかもしれない。けど、今はそばにいたいの。彼が苦しいと放っておけないし、何かしてあげたいって強く思う」
 洸太の目を見て告げた。洸太は、ただ黙って聞き、そのうちに瞳の奥がかげりだす。
 何か言葉を探しているのか、それとも、理解に苦しむと嘆いているのか。私の感情は幻だと一蹴するのか。
 なんにせよ、私の気持ちは変わらない。どんな言葉を投げつけられたとしても、動じない自信があった。
 鈴木君のことを思えば、不思議と心は静かでとても冷静でいられた。
 洸太とどれくらい向き合い、目と目を見続けていたのだろう。
 ふっと、洸太の表情が緩み、懐かしい顔つきになった。幼い頃、一番年上だった洸太が私と奏太に見せていた、長男然とした顔だ。その表情が、たまらなく嬉しかった。
「どっちが女かわかんねーな。男前すぎんだよ、スミレは」
 洸太がクツクツと笑う。
 それからキッチンへと向かい、勢いよく蛇口から水を出す。飛び散る飛沫を気にすることもなく、洸太は水音に負けないように声を上げた。
「スミレが泣くようなことになったら、俺は黙ってないからな。スミレは奏太の大事な相手だし。俺にとっては、妹みたいな家族だし。何より、俺はスミレが好きだから。だから、それだけは、譲れないし。覚えていてほしい」
 洸太の背中に向かって頷きを返しながら、それ鈴木君に言うセリフだよね、と目尻に涙をためて嬉しさに笑みを漏らした。
「さてっ。自棄酒だな。付き合え」
「え? 相手、私でいいわけ?」
 洗い物を済ませた洸太はタオルで手を拭くと、男同士がするみたいに肩に腕を回してきた。
「振られた相手に愚痴こぼすってのも、なかなかいい酒のつまみだろ? ビールだけは、山ほどあるんだ。だから、付き合え」
 肩を組んだ先にあるキッチンの隅を指で示すから視線を向ければ、箱買いした缶ビールが二箱も置かれていた。
「買い込んでるね〜」
 笑うと、「いいから冷蔵庫へ入れろ」と笑いながら命令された。
 早く冷えるようにと、何本かは冷凍庫へ入れて、私たちは朝まで幼き頃の懐かしい話をし続けた。
 奏太と洸太に初めて会った時のこと。捨てられた子犬をみつけて、三人で河原のそばで飼おうと、学校が終われば餌を持って行ったこと。親に見つかって、呆れられた事。もらってくれる人を探すために、下手くそな絵のポスターを何枚も作ったこと。おやつの交換こをしたこと。公園で秘密基地ごっこをした事。いくら話しても話し足りないほどで。奏太がいなくなってから、洸太と二人、こうやって話してこなかったことを取り返すみたいに、飽きることなく話し続けた。
 空が白み始めたころ、帰る準備をする。
 玄関でヒールを履いていると、壁に腕を預けた洸太が背中越しに言った。
「あいつは、奏太に似てるって、ずっと思ってたんだ。屈託なくいつも笑顔を浮かべている顔も、ふわふわしてるようでいて、逸らすことなく俺を見返す目も。だから、警戒してた。きっとスミレは、あいつのことが好きになるだろうから……」
 洸太の言葉に、私は振り返ることなく小さく頷いた。
 洸太のマンションを出ると、あの頃に戻れた昨夜からの時間が、とても大切な宝物になっていた。
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