第12話 知らない過去

文字数 4,682文字

 俊君が働くバーがあるのは、会社からでは電車に乗るよりも、タクシーで向かった方がずっと近い。通りに出て、大きく手を挙げタクシーを捕まえた。
【洸太、ごめん。予定ができた】
 短いメッセージを送り、直ぐにスマホの電源を落とす。
「何か、用事があったんじゃなかったの?」
 タクシーに乗り込んでしまってから鈴木君が確認するから、「今更でしょ」と笑っておいた。
「憶えている」そう言った鈴木君の目が、いつもの穏やかな三日月ではなかった事に心を動かされた。冗談ではなく、彼はきっと、ずっと私のことを見ていたんじゃないかって、確信のようなものを感じた。
 洸太は今頃、繋がらない電話にイラついていることだろう。約束を突然キャンセルした上に、連絡が取れないなんて。型にはまった洸太にしてみたら、怒りを煽るのに充分だ。そう思うから、余計にスマホの電源は落としたままにしておいた。
 タクシーの中では何か話すでもなく、過ぎ行く街のネオンを車窓からぼんやりと眺め続けていた。時折電源を落としたままのスマホを気にして、怒っているだろう洸太の事も同じように気にした。
「着いたよ」
 コートのポケットにある、手の中に握られたスマホに気を取られていたら、鈴木君がタクシー代を払い早々に降りた。
「中は私が出すね」
 幅広の階段を下りながら後ろをついてきた鈴木君に言えば、「いいよ」と短く断られた。
 木枠のドアを開ければ、曲名のわからないジャズが直ぐに耳に入ってくる。なのに、この店の雰囲気に合っていることだけはわかって、さっきまでザワザワとしていた心を一瞬で落ち着かせてくれた。
 丁寧に磨いていただろうグラスから、俊君がドアのそばに立つ私達へ視線を向けた。現れたお客が鈴木君だと認識した瞬間に、クシャリと笑顔になった。
 その表情を見ていたら、どう考えても俊君の気持ちも鈴木君にあるとしか思えない。本当のところは、どうなのだろう。
 からかい半分の想像を引きずりながら、テーブル席へと足を向けた。
 慣れたように鈴木君が椅子を引き、ビジネスバッグを空いた隣の椅子に置き、ダッフルコートを脱いだ。同じようにバッグとコートを空いた椅子に置き、向かい合わせで腰かける。
「いらっしゃいませ」
 さやを剥かれた枝豆がサラダになり、小さな小鉢に入れられ置かれた。
「菫ちゃん、いらっしゃい」
 改めて笑顔で声をかけられて、「こんばんは」と笑顔を返した。
「二人で来てくれるの、嬉しいよ」
 俊君は愛想のいい笑みを浮かべてから、「渉はビールだろ」と訊ねる。
 鈴木君が頷いたのを確認してから、俊君はフードメニューを広げて私へ渡してくれた。
 どうやら、初めから今までいつも食べてばかりいたから、食事は当然と思われているみたいだ。間違いではないから何も言えないので、素直にメニューへ手を伸ばす。
「飲み物は、どうしよっか?」
 俊君に訊ねられてメニューに目をやりながら考えてはみても、カクテル系はよく知らないのが事実だ。
「お任せでもいいかな」
「了解。甘いの?」
「うん」
 俊君がカウンターへ下がったあと、奥にあるピアノを見る。スポットライトを浴びた姿は、今宵も堂々としたものだ。けれど、寂しげに見えるのは、私の抱える今の感情がそう捉えさせているのかもしれない。
「今日もいないね」
 ピアニストの姿がないことに、少し残念になる。あの日は、本当についていたのだろう。あまりの素晴らしさに感動してばかりいたけれど、もっとしっかり耳の奥に焼き付けておけばよかったと後悔した。
「聴きたかった?」
「そうだね。本当に素敵だったから、できるならもう一度聴きたいな」
 穏やかな表情の鈴木君が、カウンターへ目を向けた。ビールが来た。
 俊君によって、ビールのグラスがコースターへとスマートに置かれる。私には、オレンジベースのカクテル。甘すぎず、程よい酸味と炭酸が胃を刺激して、ホットチョコレートで満腹だったはずなのに、何か食べたくなってきた。
 これはもしかして、店側俊君の策略? 食事も摂らせて売上貢献? なんてね。
 指先でメニューを追いながら、お腹が反応したものを注文した。
「四種のチーズのペンネ下さい。あとオリーブと野菜のアヒージョも」
「ありがとうございます」
 恭しくお辞儀をして去る俊君の背中を目で追ったあと、鈴木君は視線をこちらに戻した。
「細いのによく食べるね」
 嫌味のない言い方だけど。
「セクハラっぽい」
 わざと不満を口にしたら、「ごめんっ」と慌てて謝った。擦れていないところが、からかいやすい。
「さっきのことだけど」
 オレンジ色のカクテルに口をつけると、鈴木君が躊躇いながら言葉をこぼした。
「夏休み明けの……望月さんのこと……」
 どうして突然そんな前のことを訊ねたのかは訊かずに、鈴木君はあの頃の私のことを話してくれた。
「実は、望月さんのことは、入社当時から知っていたんだ」
「え? どうして?」
「芹沢さんの恋人が新入社員にいるっていう噂が、至る所でされてたの、知らない? 新入社員の僕らのところまで、その噂は来てたくらいだからね」
 面白そうに訊ねられて、フルフルと首を振った。
 そもそも、私が付き合っていたのは奏太だし。洸太と仲がいいのは、幼馴染だからでそれ以上でも以下でもない。
「多分望月さんは、普段と何も変わらず芹沢さんと接していたんだと思うんだけど。周囲はそうは捉えなかったんだよ。まー、僕もその一人だけれど」
「だから、洸太とはただの――――」
 言い訳するように口を開くと、鈴木君の目が柔らかく遮る。
「うん。そうだね。この前望月さんの口からはっきり聞いて、やっとそうなんだって理解した。したけど……」
 なんだか困ったような表情をするから、問い返すように見ていたら、「話を戻そう」と表情を改めた。
「先輩の芹沢さんと望月さんが話す姿は、幼馴染だからか余計にさっぱりとしていて、しかも対等さもあって。芹沢さん相手にあの口が聞けるのは、後輩では望月さんくらいだと思う」
 少し可笑しそうに笑った後、鈴木君はビールを一口飲んだ。それからふうっと息を吐き、これから話すことに若干の戸惑いを見せているようだった。
「夏休み明け、望月さんの落ち込んでる姿がよく目についてたよ。それまでの望月さんは、とても明るくてハキハキしていて。太陽みたいで、本当に眩しかった」
 明るくハキハキ? そんな風に言われていたとは、思いもしなかった。人付き合いはそれほど得意じゃないから、近寄りがたいって思われていて当然だと思っていた。なのに、まさか太陽みたいだなんて例えられるとは驚きだ。
 穏やかに微笑みながらそんなことを言われるととても照れ臭くて、俊君の作ってくれたオレンジ色のカクテルをゴクゴクと音を立てて飲んでしまった。炭酸がキュッと喉を刺激し、アルコールが体に沁みていく。そこへ注文していた料理が届き、話が一旦中断される。
 今日も俊君の作る料理は絶品だ。チーズのペンネは、お酒が進むほど美味しい。
 熱々のうちにお腹に収め、一息ついたところで、二杯目のアルコールにあの紫色した朝焼け空のようなカクテルを頼んでから、また話の続きをお願いした。
「夏なのに太陽がどこかへ行ってしまったみたいに、望月さんは落ち込む日々が続いていて。芹沢さんは、そんな望月さんのことをからかったりして、元気付けようとしてたのが傍から見ていてもよくわかったよ。けど、問題だったのは……、その後だったんだ」
「その後?」
「冬休みが開けた時だよ」
 冬休み……?
 訊ねた夏のことではなく、鈴木君はその後に話を持っていった。
「一瞬何があったのかと、たいして話もしたことのない僕だったけど、心配で思わず望月さんに駆け寄りそうになったくらいだった」
 鈴木君は勿体ぶるように一度言葉を止めてから、再び息を整えるようにして話を続けた。
「冬休み明けの望月さんは、余りにも痩せていて顔色も悪くて。あんなに眩しかった笑顔が、どこにも見当たらなかったから……」
 鈴木君が話すことに、心当たりが一つもなかった。奏太がいなくなってから、寂しく感じていたのは確かだけれど、それだって、やせ細るほどに落ち込んでいたわけじゃなかった。洸太だって、「そのうち帰ってくるさ」なんて、軽い話のように言うことも増えていたくらいだ。
「芹沢さんも、ひどく消耗していて。二人に一体何があったんだろうって、周囲は無駄にガヤガヤとしていたな。芹沢さんなんて、特に注目されてる人だから、結構な噂になって……」
「どんな?」
 語尾を躊躇うように萎ませた鈴木君は、その後の言葉を少し言いにくそうにしているから、構わず話して欲しいとお願いした。
「その……付き合ってた彼女が……自殺したとか。ご両親が亡くなったとか……。望月さんと揉めて二人で自殺未遂とか。なんていうか、そういうシャレにもならない噂が出回って」
 今でもつまらない噂話は絶えないけれど、聞かされた内容は根も葉もないとても酷いものだった。人の死を持ち出すなんて、言っていいことと悪いことがある。蔓延していたという噂話に脳内が憤慨に満たされたけれど、そんな噂を立てられた記憶がどこにもなくて、怒りの塊は瞬時に小さくし萎んでいった。
「そんな中。望月さんが、長期の休暇を取って出社しなくなって……」
「え? 私が長期休暇?」
 何を言っているのだろう。誰の話をしているのだろう。聞きたいのは、望月菫という私の話だ。
 冬休みに長期休暇など、入社一年目にして、そんな大それたことなどできるわけもない。
 誰か別の人と勘違いでもしているんじゃないだろうか。そんな目で鈴木君を見ていても、それは疑いようもない事実だと言うように、瞳は三日月になどならなかった。
 けれど、まったく記憶にない。そんな記憶など微塵もないのだ。
 何がどうなっているのだろう。訳がわからない……。
「えっと……鈴木君。あの、私……」
 どう言葉を繋げればいいのか思いつかず、助けを求めるように鈴木君を見ていた。
 バーでは変わらずジャズが流れていて、弾むような楽しげなトランペットの音は、今のこの状況にはとても不釣り合いに思えた。
「ごめん。鈴木君の話が、自分と少しも……結びつかない」
 何故だろう、声が震え、泣き笑いのように表情が歪む。悲しい感情などどこにもなくて、あるのは私の知らない私のことで。だから、不安でクラクラするけど、泣きたくなるのはどうしてなのだろう。
「ごめん……」
 鈴木君は困った顔をして、スーツの内ポケットからハンカチを取り出し差し出してきた。
 条件反射で差し出されたハンカチを受け取っても、それをどう使うべきかわからずただ手に握りしめた。
「最近は、元気になっていて。なんて言うか、その頃あった何かが解決したんだと思っていたんだけど。違ったみたいだね……」
 僕は、何か余計なことを言ってしまったのかもしれない。鈴木君は、最後にそう小さな声で付け加えてから黙り込んでしまった。
 自らのことなのに僅かも身に覚えのない話に、頭の中は混乱するばかりだった。
 それとは、別に。何故だか心は泣いていて。それがどうしてなのかわからないまま、鈴木君のハンカチをきつくきつく握りしめていた。
 ジャズは変わらず軽快で、この時ばかりはその音を止めて欲しいとまで心が泣いていた。
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