第6話 奏太のいない新年

文字数 9,156文字

「部屋にいても、実家にいても一緒でしょ」
 実家の母からそんな電話がかかって来たのは、三十一日のお昼頃だった。ついさっきまでダラダラとベッドの中にて、そこから這い出たばかりだった。顔は洗っても着替えさえせず、部屋着のままテレビのリモコンを手にしたところでスマホに明かりが点った。
 洸太にマフラーを買ってもらった日に外出してからというもの、まるで引きこもりのように家から一歩も出ていない。
 お腹が空くと棚にある買い置きのカップ麺を食べたり、チョコレートを摘んだりと、とてもだらけた生活をしていた。
 そんなんだから、母に一緒だと言われてしまえば返す言葉もない。
「洸太君は、帰って来てるわよ」
 洸太を引き合いに出してくるなんて、母も意地悪だ。
「会ったの?」
「挨拶に来てくれたもの」
 全く、どこまでできた男なのだろう。
 呆れていると、母がまた何か小言を言いだしそうだったので、捲くし立てるように、「これから帰るからっ」とすぐに通話を切った。
 今年も一年会社に酷使されたのだから、年末年始くらい好きにさせてもらいたい。このだらけた生活、かなり気に入ってたのにな。
 そうは言っても、実家に帰るまではああだこうだと面倒がったところで、帰ってしまえばまともな食事も出るし、楽なことに違いはない。
 テーブルに並ぶ母の料理を目一杯想像して、帰省するための勢いをつけた。

 実家がある最寄駅は、都内に比べれば人はまばらだ。閑散と言ってもいいくらいかもしれない。近所に繁華街があるわけでも飲み屋街があるわけでもないから、そんなものかもしれない。都会のごみごみとした人の多さに慣れたつもりでいたけれど、この長閑な雰囲気にほっとしていることは否めない。
 改札を抜けてみたら、出てすぐのところにあったはずの馴染みの古い鮨屋がなくなっていて、有名なチェーン店のカフェに変わっていた。
 こんなに人が少なくても、都会の勢いに侵食されてしまうようだ。加えて、この小さな町に住む人たちが、そのカフェに招集されてでもいるかと思うくらい、窓ガラス越しに店内を窺えば満員御礼だった。最近オープンしたばかりなのか、小奇麗な店舗の外にまで待っている人たちがいる。そこまでして飲みたいものがあるようには思えないから、名の知れたカフェに行ったというステータスが欲しいのかもしれない。
 店がなくなってしまって、鮨屋の主人はどうしているのだろう。暖簾を潜るといつもにこやかに「いらっしゃい」と声を上げていた顔を思い出した。
 カフェに代わってしまったその店を、ぼんやりと眺めていたら声をかけられた。
「スミレ」
 聞きなれた声のする方へ視線を向けると、洸太がいた。
「何してんの?」
 いるはずのない人物の登場に、自然と顔が渋くなる。この幼馴染は、家にじっとしていられないのだろうか。
「愚問だな」
 返答に嘆息した。
「いつから待ってたの?」
「ついさっき。スミレの行動パターンを考えて時間を遡れば、大体このくらいの時間に来るだろうと、な」
 きっと母から洸太へ連絡がいったのだろう。
「そういうの。ストーカーみたいだし、やめた方がいいよ」
 肩を竦めて忠告すると意にも介さず、数日分の着替えが詰まるバッグを持ってくれた。
「お鮨屋、無くなってるね」
「ああ……。秋口くらいだって言ってた」
 洸太も寂しく感じているのか、声が沈んでいる。
「カフェなんて、どこに行ってもあるのにね。おじさんのお鮨、好きだったのにな」
 寂しく呟けば、幼い頃から通っていた記憶が蘇る。
「俺も。あそこは、鯖の〆具合が良かったんだよな」
「おっさんだね」
 からかうと頭を小突かれた。
「スミレは、何が好きだったんだよ」
 じゃあ、お前は? とばかりに訊ね返す顔は、幼い頃の顔になっていた。いたずらに得意気になる顔つきだ。その顔に向かって、顎を突き出し応えた。
「コハダの〆具合が良かったんだよね」
「おばさんかっ」
 互いに突っ込み、特に大きな笑いが起こるでもなく家路を行く。
 大通りの緩い坂道を登っていくと、右側には昔からある小さな神社の鳥居が少し遠くに見えてくる。神社までの道には、桜の街路樹が続いていた。春になると満開の花を咲かせ、まるで神社まで誘われるように花びらが舞う。その季節が好きで、用もないのに昔はよく二人を誘って花吹雪の中、神社へ行っていた。道の端に降り積もる薄桃色の花びらを手に掬い、目一杯高く空に向かって散らし、桜吹雪を浴びていた。まるで映画の中に入り込んでしまったようなその瞬間を、毎年胸の奥に大切にしまう。だって、そばにはいつだって二人が笑顔でいてくれたから。
「どうした?」
 神社方面に目を奪われていることに、洸太が気が付いた。
「ううん」
 前を見て首を振ってみたけれど、奏太がいなくなってから神社への道を歩くことがなくなった事実は、想像以上に胸を苦しくさせて、それ以上の言葉は口から出てこなかった。
 見慣れた屋根が二つ見えて来ると、やけに懐かしく感じた。変に近いせいで頻繁に実家へ顔を出すことがなく、前に帰ったのは確か去年の年末だった。今年と同じように母から連絡があった。あの時も洸太が迎えにきたんだっけ? あれ? 奏太も一緒だったかな?
 違うか。奏太はずっと前に旅立っているし、居るわけないよね。ん? そもそも、去年は帰ったっけ?
 思考を巡らせてみたけれど、記憶がはっきりとしない。まるで迷路に迷い込んだように、記憶がつながらない。頭の中にある思い出と思い出を繋ぎ合わせようとしてもうまくいかなくて、何かが足りないのか、何かが多いのか。思い出そうとすればするほど混乱していき、しまいにはその曖昧な記憶に、どうしてか心臓の鼓動が速く鳴りだした。少しずつ迫りくるようにドクドクと耳の奥に響く自分の心音に、逃げ出したくなって耳をふさぎたくなる。
 自然と左胸に手を置き、静まらない焦りにも似た鼓動を抑えつけるように声を震わせた。
「……奏太、帰ってこないかな……」
 そう呟くことで、自らの中で響く煩い音から気を逸らそうとしていた。
 洸太の歩調がわずかに緩まり、半歩ほど後ろで立ち止まった彼を振り返った。
「洸太?」
 もしかして奏太からなにか連絡でもあったのだろうかと、心臓がさっきとは違う騒ぎ方をし始めた。期待を胸に洸太を見ていたら、困ったような悲しい顔をしているものだから、こっちまで眉根が下がる。
「……どう……だろうな」
 苦笑いのように不自然に笑みを浮かべると、止まった歩調を戻し隣に並んだ。
 今の私たちは、奏太の行動を知ることができない――――。
 奏太のすることはいつだって突拍子もなくて、そばにいる私たちは毎回驚かされてきた。誰とでも知り合いになるのもそうだけれど、治験のバイトなんて珍しいことをして、周囲をハラハラさせたこともあった。治験なんて、人体実験のようなイメージしかない私たちには、無謀なことにしか思えなくて本当にやめて欲しいとお願いしたし。実際、やめさせた。夏のバイトに農家の手伝いに行ってくるなんて言って、ふらっと一人で行ってしまったこともあった。夏の終わりにたくさんの野菜と一緒に戻ってきた奏太は、真っ黒に日焼けしていた。かと思えば、ラブホテルのベッドメイキングのバイトを始めてみたり、中華屋さんでチャーハンの重い中華鍋を振っていたこともある。バイト代がたまると、日本の有名処にあたる山を登りに行き、お城巡りなんてのもしていたな。奏太はなんにでも興味を持ち、チャレンジしないと気が済まない性格だった。そんな奏太だから、彼の行動を予測するなんていうのは無理な話だった。
 見慣れた家の、ひとつ手前で立ち止まる。
「おじさんとおばさんに挨拶してくよ」
「律儀だな」
「洸太のせいでしょ」
 文句を言いながら、洸太と一緒に芹沢家の門を潜る。呼び鈴を押す私を、洸太が面白そうに見ている。
「あらあら、菫ちゃん。相変わらず美人さんで。元気にしてた?」
「はい」
 玄関先に出てきた洸太のお母さんは、笑顔で迎え入れてくれた。
「菫ちゃんが元気でいてくれると、おばさんほっとするわ。もうね、あんな――――」
「――――母さん」
 おばさんのおしゃべりが始まりそうになったところを、洸太が止めた。おばさんは、口元に手を持っていき苦笑いだ。
「悪いな、母さんのおしゃべりは長くなるから」
「失礼ねぇ」
 おばさんは、少し不満そうに頬を膨らませている。
 可愛らしい人だ。目元が奏太ととても似ている。あ、似ているのは、奏太の方か。おじさんの切れ長の瞳を受け継いだのは洸太だ。おじさんもおばさんもとても整った顔立ちをしているから、どちらのパーツをもらっても出来上がりは悪くない。なんて言ったら、洸太にゲームじゃねえって、怒られそうだ。
「来年もよろしくお願いします。奏太が早く戻るといいですね」
 すぐに顔を出したおじさんにもそう言って挨拶をすると、二人とも複雑でいて潤んだ瞳を向けるから心がきゅっとなった。
 こんな風に笑顔を見せているおばさんだけれど、息子がずっと帰ってこないなんて寂しいよね。奏太も、お正月くらい顔を見せに帰ってくればいいのに。おじさんとおばさんにこんな寂しい思いさせて、次に帰ってきた時には、絶対に説教してやろう。
「じゃあね、洸太。荷物ありがと」
「……おう」
 片手を上げて見送る洸太に背を向け、隣の実家へと帰った。
「ただいま〜」
 やる気のない声をかけて家に上がると、母はキッチンで忙しく動き回っていた。エプロンで手を拭きながら、玄関先までやってきた一言はと言えば。
「あら。意外と早く着いたのね」
「なによ、それ」
 帰ってきなさいと言う割には、それほど歓迎の空気はないらしい。思わず膨れてしまう。
 帰る気などないという態度をとっておきながら、歓迎されないと拗ねる私もどうかと思うけれど。
「お父さんは?」
「庭の掃除よ」
 家を買った時、小さな庭には母が花を植えていたけれど、私が高校になる頃にはそれに飽きたのか、雑草が生えない程度に綺麗にしているくらいだった。
 荷物をリビングに置いて、庭先を覗きに行く。大きな窓の外では、父がしゃがんで草むしりをしていた。
「ただいま」
「おお、菫か」
 腰に手を当てながら立ち上がる姿に、不意に年なんだなと思う。私が年をとっているのだから両親が年老いて行くのは当然だとわかっていても、普段から会わないとその当たり前に気がつきもしない自分がいた。
 前に会った時よりも、皴が増えた気がする。髪は、染めたのだろうか。一見、白髪は見当たらない。新しい年を迎えるからと、理髪店へいそいそと出かける姿が思い浮かんだ。通いなれた四丁目の理髪店に行き、昔なじみのおじさんに、「今日は、染めてくれ」なんて言ったのかもしれない。そのせいか、皴の量に反して顔つきは若々しく見えた。
「手伝うよ。待ってて」
「おかーさーん。軍手ー」
 セセコマと動き回る母をつかまえ、軍手を受け取り庭先に降りた。私が生まれた時に植えたと言う、木蓮(まぐのりあ)は今も健在だ。
「剪定してるの?」
 意外と形の整っているさまを見て訊ねると、父が頷いた。
「たまにな。知り合いの庭師に訊いてやってる」
「そうなんだ」
 木蓮を大事に育てている父に笑みがもれるのは、きっと私自身を大切に思ってくれている気持ちもあるのだと思うからだ。その木蓮の周りに生える雑草を、ひときわ丁寧に抜き綺麗にしていく父の隣にしゃがみ込む。父と一緒になってプチプチと余計な雑草を抜きながら、お隣に顔を出した話をした。
「芹沢さんのところ。おばさんもおじさんも元気そうだね」
「そうだな。母さんが時々、果物を持って行ったり、煮物を持って行ったりしてるぞ」
「お母さん、そういうの好きだよね。作りすぎちゃって、とか言うけど、あれわざとだよね。おしゃべりしに行きたいだけだよ」
 笑いながら話すと、「そうだな」と父も笑う。
「奏太もさ、お正月くらい帰ってくればいいのにね。実家の手料理とか、恋しくならないのかな」
 首をかしげて話すと、父が手を止めた。何かもの言いたげに見る瞳は、わずかに陰りを見せている。
 父が何か言うのだろうと、口を閉ざし待っていたのだけれど、困ったような考え込むような表情をして躊躇いを見せるばかりだった。
 どうしたの? そう問い返そうとしたところで、母が声をかけてきた。
「お父さん、それくらいにして。菫も、寒いから」
 母に促され父と暖かな家に戻り、家族でのんびりとしたお正月を迎えた。
 テーブルには、洸太が好きだと言った、酢の〆具がいいしめ鯖と。私の好きなコハダが並ぶ鮨桶が置かれていた。桶の底には、あの馴染みの鮨屋の名前が入っている。訊くと、駅前を退いた後、別の場所へ移転していたという。
 新年を迎えながら、おじさんの握る鮨がまだしばらく食べられる喜びを、嬉しさと共に大いに味わった。

「あけましておめでとう」
 年が明け、寝起きのくぐもった声で挨拶をしながらリビングへ降りて行くと、テーブルには既に正月料理が並んでいた。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
 母から丁寧な挨拶をされて、こくこく頷くと苦笑いされた。洗面所で顔を洗ったあと、トイレから出てきた父にも新年の挨拶をした。
「初詣は、どうするの?」
 訊ねる母が、御節のお重を父の座る方へと引き寄せる。
「どうするって?」
 黒豆を摘まみながら、「今年のは、柔らかく上手に煮えてるね」と、間に言葉を挟む。
「洸太君と行くの?」
 ああ、そう言うこと。
 奏太がいた頃は、毎年三人であの桜の道を行った先にある神社に出かけていた。けれど、昨日の様子だと奏太は帰ってきていないだろう。奏太がいないのに、わざわざ洸太を誘って出かけるのは億劫に感じていた。できれば、日がな一日ダラダラとした正月ライフを満喫したい。
 数の子のコリコリ感が好きで、取り皿に二つ取る。
「奏太も、帰っていないみたいだしねぇ」
 箸で数の子を摘まんでから口にすると、父の皿に伊達巻を取ろうとしていた母の手が止まった。父も、なんとなくぎこちない雰囲気を醸し出す。
 何、この空気……。奏太の話題って、こんなに禁句だったっけ?
 確かに連絡もないし、もうずっと帰ってきていないけれど、それだってみんな諦めモードで、そのうち帰ってくるでしょ。くらいのノリだと思っていたけれど。私が軽く考えすぎていたの?
 みんなが心配しているのは承知だけれど、こちらでやきもきしていたって、どうにもならないことじゃない。
 この雰囲気を壊すように、敢えて音を立てて大袈裟に数の子を食べた。連絡の取れない相手に、そこまで委縮していても仕方ないじゃない。私だって寂しくて辛いけれど、奏太を信じて待つしかないもの。
 数の子が口の中で滑稽な音を立てて胃の中へと消えていく頃、母が僅かに笑みを見せ、口を開いた。
「洸太君と二人でも、いいじゃない」
 語尾を一生懸命に上げたような言い方は、寧ろずっと戻らない奏太を私が気にしているかもしれないと、気を遣っているように思えた。
 母は、若干言葉に詰まったあと止まっていた動きを再開し、父に伊達巻ののった皿を手渡してから飲みなれないビールを口にした。
 そんなに気にしてくれなくても、大丈夫なのに。
 寂しくないといえば嘘になる。できるなら早く戻ってきて欲しいし、お正月くらいは帰ってきて欲しいと思っているのは事実だ。けれど、奏太はきっと世界中にある楽しいことを見つけ、瞳をキラキラとさせながら、たくさんの友達を作り、今を生きているのだろう。次に帰ってきたときには、その話を聞きたい。どんなに長い話だっていい。徹夜だっていい。奏太のそばに寄り添って、輝く瞳と楽しそうな表情をずっと見つめながら聞きたい。
 奏太、早く帰って来てくれないかな……。
「お母さんたちは、どうするの?」
 新年早々、何とも言えない空気に包まれて、どうにかこの場の雰囲気を変えるように、極力明るい声を出した。
「あとで行くわよ」
 私の態度を倣うようにして、母も明るく応えた。
――――じゃあ、私も一緒に行くよ。
 そう返そうとしたところで、予告もなしに玄関ドアの開く音がした。
「あけまして、おめでとうございまーす」
 実家に私がいることがわかっているからか、遠慮のかけらもなく無断で玄関ドアを開けた奴がいる。
 呼び鈴くらい鳴らしなさいよ。
 声の主にため息をつき、立ち上がろうとした母を制して箸を置き玄関へと向かった。
「おめでとう、洸太」
 テンション低く新年の挨拶をすると、玄関先に立つ洸太がニヤ付きながら見ている。
「なんだよ、それ。俺、なんか合格したっけ」
 まともな挨拶をしないだらけている私を、朝から皮肉な表情で受け流す洸太は、今日もシャキッとしていて隙がない。甲斐甲斐しくお世話してくれる女の子なんていっぱいいるのだから、たまにはだらけてみればいいのに。
「神社、行こうぜ」
 既に行くことが前提の誘いに呆れていると、母も玄関へやって来た。
「洸太君。あけましておめでとうございます。今年も菫をよろしくね」
「最後のなに、それ」
 母の言葉にしかめた顔を向けると、「任せてください」と洸太もノリに付き合っている。
 私の保護者ですか。
「ほら。二人で神社に行ってきなさい」
 いつの間に持ってきたのか、上着と洸太に貰ったマフラーを母から渡された。それらを身に着けると、最後にバッグも差し出された。
 さすが主婦。至れり尽くせり。
 あまりの用意周到っぷりに、最後には笑えてきた。ここまでされたら、だらけた正月ライフはひとまず置いておいて、出かけるしかないか。
「じゃあ、行ってくるよ」
「気をつけてね」
 母に見送られ玄関を出ると、陽の光がやたら眩しくて目を細めた。隣を歩く洸太も、目を細めている。行き慣れた神社までの道なのに、奏太がいない二人というのは、どうにもしっくりこない。不自然に感じるのは、奏太がここにないことを心が拒絶でもしているのかもしれない。
 通りの桜は、寒そうに枝を伸ばしていた。あと数か月もすれば、小さな蕾を付け、またあの心奪うような花びらでこの道を飾るのだろう。その時に、奏太は帰ってくるだろうか。またこの道を一緒に歩きたい。
「奏太、やっぱり帰ってこなかったんだね」
「え? ……ああ」
「連絡は?」
 洸太は、わずかに躊躇ってから首を振った。
「おばさんたち、心配してるでしょ」
「ああ、うん、……そうだな。……でも、まあ、わりと能天気なところがあるからな。大丈夫だろう」
 いくらおばさんが明るい人だとはいえ、そうしてでもいないと笑っていられないのかもしれない。
「冬に、奏太からハガキ来てたしね」
「え、冬? あ、ああ。そうだな……」
 一月の初め頃だったろうか。それとも、冬期休暇で休みの時期だっただろうか。洸太が慌てたように連絡して来たのを覚えている。
 世界を見て回るんだとキラキラした笑顔を残していなくなり、連絡のひとつも寄越さなかった奏太から、絵葉書が届いたと洸太が慌てていた。
 奏太からの絵葉書は、どこの風景かもわからないけれど、壮大な平原に夕日がまばゆく光り輝いている写真のものだった。
“元気にしてますか? 僕は元気です。”
 たったそれだけの言葉が添えられているだけで、どこにいるのか、どこへ向かっているのか、いつ帰ってくるのか。連絡先の一つさえ書かれていなかった。
「自由なやつだったからな」
 洸太が呆れたように、地面に向かって笑みをこぼした。
「洸太は、真面目だよね」
「俺か? 真面目なのか?」
 俯いた洸太は、ふっと声を漏らしてから顔を上げた。
「俺は、臆病なだけだよ。型にはまってないと、不安になるからな」
「ふぅん」
 確かに、奏太は型にはまる事に固執するタイプじゃなかった。人がやらないことをするのが奏太で、石橋を叩くように周囲の状況を把握しながら行動するのが洸太だ。
 この国で生きるにはどちらも生きづらいだろうけれど、生き残るのは洸太のようなタイプなのだろう。だから奏太は、旅に出たのかもしれない。ここに居ることが、ここで生きていくことが息苦しかったのかもしれない……。
 私はどっちかな。自由に振舞っているつもりでも、結局ははみ出すことができない。私も洸太と同じ、臆病者なのだろう。
 奏太は、こんな私と一緒にいることさえ息苦しく感じていたかもね……。だから一人きりで旅立ってしまったのかもしれない。
 そんな風に考えてしまえば泣き出しそうになり、涙が込み上げないように何度も瞬きを繰り返した。
 隣を歩く洸太に気づかれないよう、静かに深く息を吸い吐き出し、浮かび始めた涙がどこかへ消えてしまうように遠くを見た。
 神社へ向かっていると、例年までの疎らな人数とは違い、とても賑わいがあった。鳥居の先にある階段が視界に入る頃には、並んでいる長い列が見えるくらいだ。
「混んでるんだけど、どうして!?」
 小さな頃からずっと住んできたこの町の小さな神社が、ここまで混むさまを今まで一度だって見たことがない。
「マンションが増えたせいじゃないか」
 土地開発で道路が拡張されるのに伴い、便利になるのを見越して、この辺りにはマンションや戸建てが増えているのは知っていた。それだけのことで、こんなにも通い慣れた小さな神社に行列ができるなんて驚きだ。お賽銭が増えて、宮司さんも頬が緩んでいることだろう。
 下世話な感情は表に出さず、列の最後に洸太と並ぶ。
 いくら人が増えて並んでいるとはいえ、テレビで観るような大きな神社とはやはり違って、思いの外早く目的が達成できそうだ。
「十円玉?」
 洸太の手に握られているお賽銭を見て笑う。
「私は、百円」
「何をそんなに願うんだよ」
 掌の小銭を得意げに見せると、洸太が呆れたように息を吐き出した。
 願いなど、ひとつしかない。奏太が戻って来てくれること。そうでなければ、せめて遠い地で元気で居て欲しい。
「秘密」
 賽銭を投げ入れ、最後に見た奏太の笑顔を思い出しながら、目を閉じて柏手(かしわで)を打つ。
 行く先には光しかないと疑いもしていない、あの眩しい笑顔を――――。
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