第11話 憶えている

文字数 5,410文字

「夜。マスターのところで、飯でも食ってかないか?」
 資料室を出ると、いつもの顔に戻った洸太に夜ご飯を誘われた。
 たった一枚のドアで遮断されていた資料室の外は別の世界みたいにざわめいていて、嫌でも現実へと引き戻された。
 薄闇の資料室で言葉にできない不安に押しつぶされそうになっていた私たちは、互いの不安を不安で打ち消すようにぶつけ合い、今感じることのできる人の温かさに安堵を覚えた。こうしていれば、いつしか不安は消えてなくなる。そんなはずなどないのに、そうせずにはいられなくて、ただ互いを引き寄せ、奏太の名前を呼んだ。
 落ち着きを取り戻して資料室を出れば、周囲の喧騒も手伝い、何もなかったようにその後はいつもの時間が始まった。
 あいも変わらず、予定などないし。そろそろマスターのところへ顔を出したいと思っていたから、洸太の誘いに迷いなく頷いた。

 デスクにあるパソコン画面。その右隅の時刻が、定時を示すと同時にシャットダウン。デスクに鍵をして、バッグを手に立ち上がる。
「お疲れ様でーす」
 それほど抑揚もなく周囲に挨拶をして踵を返せば、少し離れた席から鈴木君がこちらを見ていたから、軽く右手を上げてからフロアを出た。
 洸太からの「少し残業になりそうだ」というメッセージが届いたのは、エレベーターで一階に降り立った時だった。ついで、会社近くのカフェで待つようにメッセージが届いた。
「残業ですか、社畜君。お疲れ様です」
 メッセージに向かって皮肉るように呟いてから、スマホを握ったままの手をコートのポケットに入れた。エントランスの自動ドアを出ると、すぐに冷たい風が頬を切るように吹き過ぎる。
「寒いっ」
 声に出し首を竦めてしまう。肩を縮めるようにしてカフェに足を向けたら、少しして鈴木君が後ろから追いかけてくるように駆け寄り声を掛けてきた。
「望月さん」
 掛けられた声に振り返ると、変わらずのアニメチックな笑みが眼鏡の奥に窺えた。
 いつも笑っている。
 心中で呟くと、何故かクスリと笑えた。
「真っ直ぐ帰るの?」
 横に並んで歩く鈴木君も同じように肩を縮こめていて、とても寒そうだ。天気予報は、例年よりも暖冬だとか、例年以上に寒気が激しく切り込むだとか、毎年あれこれとセリフを変えて告げてはくれるけれど、なんだかんだで今年の冬も変わらず寒いに間違いはない。
「帰らないよ。そこのカフェに行く」
 短く応えて、目でカフェを示した。
「そっか。俊のところへ行くから、一緒にどうかと思ったんだけど」
「俊君のとこへ行くんだ。それ、捨てがたいな」
 彼の作る数々の美味しい料理の絵面や味を思い出せば、洸太と約束をしているのに気持ちがそちらへ傾いていく。マスターとも年末に会って以来だから、顔を出したいのだけれど正直迷ってしまうな。
 歩を進めながら悩んでいるうちにカフェの前にたどり着いてしまい、自動ドアが二人に反応してどうぞと言わんばかりに開いた。
「寒いから、とりあえず入ろうか」
 誘惑に天秤をグラグラさせながら、ひとまずコーヒーでも飲んで考えようと、洸太が来たらわかるように通りに面した窓辺のカウンター席にバッグを置いた。
「鈴木君も何か飲む」
 バッグの中から財布を取り出すと、眼鏡を曇らせて右の掌を向けられた。
「僕が買ってくるから、座ってて」
 眼鏡を外し、取り出したハンカチで曇りを取っている。
「そう。ありがと」
 鈴木君の好意に甘えて椅子に座り、カウンターに頬杖を着いた。通りを行く人たちは、みんながみんな同じように首も肩も縮こめていて、とても寒そうに歩き過ぎて行く。カフェの中は適温だけれど、それでも入り口に近い席のせいで、お客が出入りするたびにひんやりとした空気が入り込んでくるから着ているコートを脱ぐに脱げない。前のボタンだけを外し、ポケットへ入れていたスマホを取り出したところで、鈴木君がトレーにカップを二つ乗せて戻って来た。
「はい」
 目の前に置かれたカップの中身は、ホットチョコレートだった。しかも、以前ホイップをカスタマイズすればよかったと心で思っていたことを知っていたみたいに、真っ白なクリームが綺麗な渦を巻いて盛り上がりのっていた。
 休日ならこれでよかったと思うのだけれど、これから食事という時にホイップ増しのホットチョコレートでは、これだけでお腹が膨れてしまう。
 目の前のカップを見たまま動きを止めていると、隣に座った鈴木君がどうしたのかと窺うようにしていた。思わず頬が引き攣る。
「えっと。あれ、望月さんて、ホットチョコレートじゃなかったっけ?」
 心遣いには感謝するけれど、食事前にはコーヒーの方が良かった。とは、眼鏡の奥にある生真面目な目を見てしまえば何も言えなくなる。
「そう。うん、ホットチョコレート」
 引き攣るように笑みを浮かべて肯定すると、気づくこともなく良かったとレンズの奥で目が三日月になった。この顔に向かって、コーヒーが良かったとはやはり言えない。洸太にだったら平気で言えることも、この人の良さそうな鈴木君相手ではどうにも調子が狂う。
 空腹を覚え始めていたお腹に熱々のホットチョコレートを飲めば、当然のごとく甘みとクリームの濃厚さに満たされていった。
 美味しいけれど、これだけで今日の夜ご飯は終了となっても問題ないくらい、甘さに満腹中枢が刺激された。
 ホットチョコレートの甘さを堪能しているところへ、洸太からメッセージが届いた。もう少しで会社を出られるらしい。そのメッセージを見て、どちらかに決めなくちゃいけなかったと、再び誘惑が頭をもたげた。同時に資料室での出来事が蘇る。
 三人でいた頃、私の隣には決まって奏太がいた。そして、私たち二人を見守るように洸太が近くにいた。奏太がいなくなり、私が落ち込んでふさぎ込んでしまってからは、洸太はいつだって近くで声をかけ、寂しくないよう連れ出したりもしてくれていた。それには、本当に感謝している。けれど、そんな私が奏太や洸太以外の人といることを彼は嫌がっていた。
 奏太を裏切るつもりなどないけれど、こうやって鈴木君とお茶をしたり、ランチしたりするのは奏太に対して不誠実だということか。明日、お弁当を作ってくると宣言したけれど、それも洸太に知れてしまえばあの資料室の時のような顔をさせてしまうのだろうか。洸太にあんな顔をさせるのは、本意じゃない。そばで見守ってくれていた洸太だから、悲しい顔なんてして欲しくはない。だけど。
「どうしたの?」
 きっと考え込みなら苦い顔でもしていたのだろう、隣に座る鈴木君が心配そうにこちらを見ていた。
「あ、ううん。なんでもない……」
 誤魔化すように再びホットチョコレートに口をつけた。盛り上がったクリームが、ホットチョコレートの波に少しずつ飲み込まれていた。
 奏太が日本を旅立ったのは、私が数ある入社面接をくぐり抜けて、奇しくも洸太と同じ会社に内定が決まり。奏太自身も受かった会社で働き出してからだった。
「菫。僕、広い世界がみたい。ずっと、みたかったんだ」
 キラキラと瞳を輝かせて話をしてくれた時には、本当に驚いたし。その瞳には、寧ろ魅入られた。けれど、せっかく入社して仕事にも邁進しているのかと思っていたところだったから、なんの冗談かとも思った。
 奏太だけ入った会社が違ったから、もしかしたら社内で何か嫌なことでもあるんじゃないかと心配になり洸太へ相談したら、そんな話は聞いたこともないし、悩んでいる様子もないという。
 それよりも、奏太がそんなことを考えていたことを全く知らなかったことに洸太は衝撃を受け、時間が止まったように驚いていたのを覚えている。
 旅に出たいと語る奏太と、何度も話し合った。梅雨のじめつく中、気持ちまでジメッとしそうで病みそうな毎日に、奏太の心が壊れてしまったんじゃないかって心配だってした。けれど、奏太の心は壊れてもいないし、入社した会社で嫌なことがあるわけでもなかった。
 ただ、奏太はずっと思っていただけだったんだ。自分の心の中で、遥か遠い国にあるものを、見て触れて感じたいと。その想いを、秘め続けていただけだったんだ。誰にも話すことなく、心の中に夢を思い描き続けていただけだったんだ。
 嫌だった。奏太が遠くへ行っちゃうなんて、本当に嫌だった。いつ戻ってくるのか、予定は未定だなんて笑って話していたけれど、返す笑顔など持ち合わせていなかった。
 洸太だって一緒だ。今まで何も話してくれなかった事に、とてもショックを受けていた。そのショックで、洸太が病んでしまうんじゃないかっていうくらいだった。私だって、あんなに一緒にいたのに話してもらえなかったことも辛かったけれど、そんな奏太の気持ちに一つも気がつかずにきた自分が情けなくて泣けてきた。
 どんなに話し合っても、どんなに引き止めても、奏太の決意は変わらず。夏期休暇を機に仕事を辞め、奏太は遠い異国へと旅立ってしまった。それからの私は、生きている気など一つもしなかった。
 奏太がいないことがこんなにも辛いなんて、どうにかなりそうで堪らない毎日を過ごしていた。
 旅立った当の奏太は、何一つ連絡を寄越さないのだから、待つ側にしてみたら気を揉むだけだ。
 どんなに会いたくても、どんなに声を聞きたくても、連絡するすべもなく、マイナスの感情ばかりが毎日何度も何度も繰り返し心を押し潰していった。
 だから、感情を引き離す術を手に入れた。辛いも悲しいも、泣きたいのも怒りたいのも、心の中から追い出した。そうしていないと、自分を保つことなどできなかったから。
 無感動な日々は、平坦で滞りなくすぎてくれた。だけど、同時に心から笑うことを忘れさせた。奏太といた時に笑っていた私は、あの夏から消えていたはずだった。
 隣にいる鈴木君が話しかけてくれるまでは……。
 あの頃の私は、どんな風だっただろう。一緒に働いてきた鈴木君の存在に気づきもせず、旅立ってしまった奏太のことばかり考えて暮らしていたあの頃。
 鈴木君は、私のことをどんな風に見ていたのだろう。無口でまともな会話もしない、近寄りがたい女だと思っていただろうか。そんな私に、どうして話しかけようと思ったのだろう。
「ねえ。鈴木君て、ずっと同じ部署だったよね?」
 訊ねると、「そうだね」と頷いた。
 突然、なんの話が始まったのかと思っているのだろう。不思議そうな表情を浮かべている。
「私ってさ、近寄りがたいイメージじゃなかった?」
 わずかに苦笑いを浮かべているから、強ち間違いでもないのだろう。
 少しだけ考えた鈴木君が、間を置き選ぶように言葉を繋ぐ。
「近寄りがたいっていうのとは、少し違うかな……」
 首をかしげて続きを促すと、「芹沢さん……」と言葉を零した。
「洸太がいたから、近寄れなかった?」
 率直に返すと、笑って誤魔化された。
「先輩だし。洸太って、威圧感あるもんね」
 代弁すると、何とも言えない表情でコーヒーを口にしている。
 奏太がいなくなったあの夏、私はどんな風だったのだろう。それまでだって、洸太の存在でほかの人を寄せ付けない雰囲気を醸し出していたのに、加えて落ち込んでいるなんて、目も当てられなかったことだろう。
 不意に、資料室で感じた、説明のしようがない不安が心を刺激し始めた。なにがどうというわけじゃない。ただ、あの夏から。今抱える不安以上の何かに、支配されていた気がする……。
「鈴木君……。入社して初めての夏休み明け、私ってどんな感じだった……?」
 訊ねる声が震えた。どうしてか、心が泣き出しそうで、のどの奥が徐々に熱くなった。
 自分の涙腺が緩み始めているのに、それがどうしてなのか少しもわからない。
 様子がおかしいことに気が付いたのか。それとも、そんな昔のことを突然訊ねられて戸惑っているのか。鈴木君が複雑に驚いたような表情になった。
 入社当時のことなど訊ねられても、思い出せるわけないか。しかも、関わりのない相手の過去など、憶えているはずがないよね。
 奏太がいなくなったあの夏のことを、どうして鈴木君へ訊ねようと思ったのか。いつも目じりを垂らし、日の当たる場所にいる彼なら、暗闇にいた私のことをどうしてだか憶えている気がしたのだけれど。……そんなことないか。
 緩み始めた涙腺から意識を逸らし、何でもないことのように声を張る。
「何言ってんだろ。憶えてないよね。やっぱいいや」
 誤魔化すように、無駄に笑みを貼り付ける。
 そろそろ洸太がやってくる頃だろうと、飲みきれなかったホットチョコレートが収まるカップを下げようと手にした。
「ごめんね。変なこと訊いて」
 席から立ち上がろうとしたところで、鈴木君が引き止めるみたいに声を上げた。
「憶えてるっ。望月さんの事は、ちゃんと憶えてるよ」
 鈴木君の言葉は、私を引き止めるのに充分な力を持っていた。真っ直ぐ私を見つめ返す眼差しの奥には、この不安を探る原因が秘められている気がした。
 資料室で哀しい顔をした洸太の顔が過っても、不安にぐらついた心が、奏太の旅だったあの夏のことを知りたいと答えを求め始めていた。
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