約束・3

文字数 1,774文字

 田舎の夜は涼しい風がそよいでいる。
 庭からは、池に流れ込む水音がサラサラと聞こえて、時折り「かこん」と鹿威しが鳴った。
 ふう、と秀一は大きく息を吐き、フローリングに足をおろす。
 気がつくと、喉がからからだった。水を飲みに行こうと、裸足のままキッチンへと向かうことにする。

 ヒタ、ヒタ、ヒタ……

 しんとした廊下に月明かりが落ちて、その中に浮かび上がるのは自分の影だけだった。
 しかし、もう誰も居ないのではと思ったキッチンには、思いがけず明かりが灯っていた。
 キッチンへ入るためのドアはガラス張りで、中の様子が見えるようになっている。
 女のお手伝いさんが二人、何やら作業をしているようだ。
 忙しそうに立ち働いている女性の横顔が見えた。
 一人は露だった。思いがけないところで露を見つけた秀一の胸の中に、じわりと温かいものが広がる。
 露のあの笑顔を見ているだけで、寝苦しさも、さっき見た嫌な夢も、安堵の中に溶けていくような気がした。

「露さん、明日の準備も終わりました」
「ありがとう。こちらの片付けも終わったわ。どう? 一服してから上がらない? 今日のお客様から頂いたチョコレートがあるのよ」
「わ! いいんですか?」

 そんな声が聞こえてくる。
 キッチンへ入りそびれた秀一は、いっそのこと引き返そうかと思った。けれどその時聞こえてきた会話が、秀一の動きを止める。

「ねえ露さん、結婚、そろそろなさらないの?」
「え?」
「知ってるんですよぉ!」

 お茶の用意をしている若いお手伝いが「くふふふふ」と笑った。

「先日真神の一族の方から、お見合いのお話があったのでしょう?」
「やだ……どこまで噂が流れてるのかしら……」

 露のため息。

「私なんか、もうおばさんなんだし、放っておいてくれればいいのに……」

 話し声を聞きながら、秀一は頭の芯がぼうっと痺れたような感覚を味わっていた。

 ――露が嫁に行く?

「なに言ってるんですか。露さんおきれいだし、いいお話だって聞きましたよ。あ、それとも……どなたかいい人いるんじゃないんですかあ?」

 秀一は思わず自分の胸を抑えていた。うまく呼吸が出来なくて、胸が苦しかった。
 これ以上この話を聞いていたくなくて、キッチンに背を向けると、ふらふらとその場を離れていく。
 長い廊下。
 窓ガラスの向こうには、洋風の家とは不釣り合いな和風庭園。
 しん、と蒼い月影がフローリングの床に落ちる。
 秀一は、腹の底から何かが湧き上がってくるような感覚に、思わずその場にしゃがみ込んだ。

 ぐぅ!

 目が回る。頭の中がガンガンと音を立てはじめる。

 誰か!

 助けを求めて見上げた先には、銀の月が浮かんでいた。

 どくん!

 心臓が大きく跳ねる。体全体で、その鼓動を感じた。

「なんだ……これ?」

 世界が歪んでいってしまうのではないかと思うような、不快。不快なものが、胸の奥に集まって、黒いとぐろを巻いているのだ。

「あ……あ……ああっ! だれか……助けてっ!」

 自分自身ですら知らなかった奥深いところから、何かが湧き上がってくる。抑えなくちゃいけないと思うのに、その勢いに秀一はなんの抵抗もできずに飲み込まれていく。

「秀一さん? どうしました?」

 露の声が背後から聞こえた。

「秀一さん!? 誰か! 秀就様を……呼んで! 残ってる一族の者を何人かこちらに回してちょうだい! それまでは私が……!」

 秀一の耳に、露の叫びは意味のある言葉として届いていなかった。
 メキメキと、自分の体が発する音が骨を伝い、耳骨を震わせ、増幅された振動は脳を直接震わせる。
 身体が……捻じれる! 砕ける!
 かろうじて残る秀一の意識が一抹の恐怖に包まれる。

「しゅ……いち?」

 小さな声が前方から聞こえて、秀一であったものの目が、そこに立つ小さな人影を捉えた。
 秀一が貸したトレーナーを着込んだ信乃が、目をこすりながらそこに立っている。
 そして、秀一を見つけると、ぽかんと口を開いて、目を見開いて……。

 ぐ……ぐ……ぐ……ぐ……

 何の音だ? 唸り声?
 だが次の瞬間、それが自分の発した唸り声だと気づく。




「しゅういち?」

 獣の前に佇む子どもはわずかに首を傾げながら、誰かの名を呼んだ。
 獣の瞳が動き、ぐぐぐ……っと震えるような唸りを上げ、そして跳躍した。


 それが、秀一としての意識が残る、最後の記憶だった。
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登場人物紹介

山津見神の拳族である大神家の跡取り息子。フランスから大神家へ嫁いできた母親は秀一を産むとすぐに大神家に仕えていた男と駆け落ちをしてしまったために、彼に母親の記憶はない。お手伝いの露を母のように慕っている。のちに先祖返りの能力者安部信乃の第一守護者となる。

本来わがままリーダータイプだが、成長するにつれ、物腰柔らかな優等生タイプへと変わっていく。

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