第10話(最終話)
文字数 1,745文字
「えー! 最低の男じゃないですかー」
「いや、彼氏は被害者だよ」
「え!」
オザワさんは目を丸くしている。短く叫んだところを見ると、心底驚いているらしい。
夏休みに入ってから、彼女のメイクはひときわ濃くなった。一足飛びに大人っぽくなるところは、とても子どもっぽい。くっきりと浮かんだ鎖骨にはラメが散らばっているようで、キラキラと光を放っている。
オザワさんの反応はおおむね世間と一致している。フカモリさんは先日【オセロクリーニング】を辞めた。彼氏の雇った弁護士に訴えられたそうだ。フカモリさんは日常的に、彼氏に罵声を浴びせ、たたいたり蹴ったりの暴行を繰りかえした。彼氏は黙って耐えていたが、包丁で追いかけられた日をさかいに、もう無理だと悟ったという。
「ほええー。結局会ったことない人だけど、同じ職場だったと思うとこわー」
「多分、オザワさんに対しては普通だと思うけど」
「そういう問題じゃないですよー。暴力振るう人がいるってヤバいじゃないですかー」
「でも、ぼくだって振るうかもしれないし」
「あははは。テンチョーはないない!」
調子よく背中をたたかれる。そう思われているのは幸せなことだろうか。
「そういえば最近ナガノさん来ないんだけど、なにか知らない?」
「あー……もう来ないんじゃないですかー」
「なにかあった?」
「どうしてもっていうから一回だけ会ったんですよー。でも、あの人下心しかないし、なんか私のこと見下してる感じだったし、キモいって言っちゃいましたー」
「ええ? フカモリさんの代わり雇わなきゃいけないから、また求人お願いしようと思ったのに」
「別に【おしごとやさん】じゃなくてもいいじゃないですかー。私も頑張りますし!」
「それはありがたいんだけどね」
「テンチョーだって仕事人間なんだから大丈夫でしょー」
「いや、ぼくも休みたいんだけどね」
「ていうか、もしかしてテンチョー、ナガノさん来なくて寂しいんですかー?」
オザワさんがにやにや笑っていると、自動ドアが開いた。彼女は一瞬顔をしかめたが、さすがに成長を見せて「いらっしゃいませー」とにこやかに対応する。
ツジさんだった。彼の顔を見るのは、ずいぶん久しぶりな気がする。暑さにやられたのか、少し頬がこけている。不健康に枯れた手で、ポケットからしわくちゃになった預かり票を放る。「少々お待ちください」とオザワさんが衣類の森へ消える。ツジさんは微動だにしない。そしてなにも言わない。
彼は気づいているのだろうか。フカモリさんがこの店から消えたことを。
「お待たせしましたー。ベージュのスラックスが一点……って、これベージュじゃないでしょ」
オザワさんのつぶやきに、ツジさんがわずかに反応した。
「……わたしも、そう思います」
オザワさんは目を丸くしたが「ですよねー」と応じた。袋を取りだして、スラックスを入れる。
「どれでも正解なんだから、全部カーキでいいですよ」
わたしは衣類の森にぶらさがっている、最近預かった品々を見た。【カーキ】の【シャツ】、【カーキ】の【スカート】、【カーキ】の【セーター】に【カーキ】の【ドレス】。
そこはカーキの森だった。全部カーキだ。赤も青も黄色も、格子柄も千鳥柄も花柄も、白も、黒も、全部カーキだ。
ウェスはいつもあいまいな色の服を着ていた。下手をすれば、汚れていると勘違いされそうなくすんだ色味。あそこに顔をうずめると、土のようなにおいがした。
「この世はオセロゲームみたいなもの」
そうつぶやいていたウェスは、きっとカーキだったのだ。オセロゲームが嫌になって行方をくらますのなら。
連れていってほしかったなあ、とわたしは初めて少しだけウェスを恨む。別に殴ったり、ましてや殺したりするほどじゃないけれど。
夏は長い。きっと休みのあいだに薄手のカーキが何枚も何十枚も、山のように預けられるだろう。
そして夏は短い。わたしは一日でも休めるのだろうか。オセロゲームから離脱して、どこかに帰れるのだろうか。
店内に土野小波はもう流れていない。不穏なニュースも流れていない。聞こえてくるのは、オザワさんの笑い声と、ツジさんのかすかなささやきだけだった。
―了―
「いや、彼氏は被害者だよ」
「え!」
オザワさんは目を丸くしている。短く叫んだところを見ると、心底驚いているらしい。
夏休みに入ってから、彼女のメイクはひときわ濃くなった。一足飛びに大人っぽくなるところは、とても子どもっぽい。くっきりと浮かんだ鎖骨にはラメが散らばっているようで、キラキラと光を放っている。
オザワさんの反応はおおむね世間と一致している。フカモリさんは先日【オセロクリーニング】を辞めた。彼氏の雇った弁護士に訴えられたそうだ。フカモリさんは日常的に、彼氏に罵声を浴びせ、たたいたり蹴ったりの暴行を繰りかえした。彼氏は黙って耐えていたが、包丁で追いかけられた日をさかいに、もう無理だと悟ったという。
「ほええー。結局会ったことない人だけど、同じ職場だったと思うとこわー」
「多分、オザワさんに対しては普通だと思うけど」
「そういう問題じゃないですよー。暴力振るう人がいるってヤバいじゃないですかー」
「でも、ぼくだって振るうかもしれないし」
「あははは。テンチョーはないない!」
調子よく背中をたたかれる。そう思われているのは幸せなことだろうか。
「そういえば最近ナガノさん来ないんだけど、なにか知らない?」
「あー……もう来ないんじゃないですかー」
「なにかあった?」
「どうしてもっていうから一回だけ会ったんですよー。でも、あの人下心しかないし、なんか私のこと見下してる感じだったし、キモいって言っちゃいましたー」
「ええ? フカモリさんの代わり雇わなきゃいけないから、また求人お願いしようと思ったのに」
「別に【おしごとやさん】じゃなくてもいいじゃないですかー。私も頑張りますし!」
「それはありがたいんだけどね」
「テンチョーだって仕事人間なんだから大丈夫でしょー」
「いや、ぼくも休みたいんだけどね」
「ていうか、もしかしてテンチョー、ナガノさん来なくて寂しいんですかー?」
オザワさんがにやにや笑っていると、自動ドアが開いた。彼女は一瞬顔をしかめたが、さすがに成長を見せて「いらっしゃいませー」とにこやかに対応する。
ツジさんだった。彼の顔を見るのは、ずいぶん久しぶりな気がする。暑さにやられたのか、少し頬がこけている。不健康に枯れた手で、ポケットからしわくちゃになった預かり票を放る。「少々お待ちください」とオザワさんが衣類の森へ消える。ツジさんは微動だにしない。そしてなにも言わない。
彼は気づいているのだろうか。フカモリさんがこの店から消えたことを。
「お待たせしましたー。ベージュのスラックスが一点……って、これベージュじゃないでしょ」
オザワさんのつぶやきに、ツジさんがわずかに反応した。
「……わたしも、そう思います」
オザワさんは目を丸くしたが「ですよねー」と応じた。袋を取りだして、スラックスを入れる。
「どれでも正解なんだから、全部カーキでいいですよ」
わたしは衣類の森にぶらさがっている、最近預かった品々を見た。【カーキ】の【シャツ】、【カーキ】の【スカート】、【カーキ】の【セーター】に【カーキ】の【ドレス】。
そこはカーキの森だった。全部カーキだ。赤も青も黄色も、格子柄も千鳥柄も花柄も、白も、黒も、全部カーキだ。
ウェスはいつもあいまいな色の服を着ていた。下手をすれば、汚れていると勘違いされそうなくすんだ色味。あそこに顔をうずめると、土のようなにおいがした。
「この世はオセロゲームみたいなもの」
そうつぶやいていたウェスは、きっとカーキだったのだ。オセロゲームが嫌になって行方をくらますのなら。
連れていってほしかったなあ、とわたしは初めて少しだけウェスを恨む。別に殴ったり、ましてや殺したりするほどじゃないけれど。
夏は長い。きっと休みのあいだに薄手のカーキが何枚も何十枚も、山のように預けられるだろう。
そして夏は短い。わたしは一日でも休めるのだろうか。オセロゲームから離脱して、どこかに帰れるのだろうか。
店内に土野小波はもう流れていない。不穏なニュースも流れていない。聞こえてくるのは、オザワさんの笑い声と、ツジさんのかすかなささやきだけだった。
―了―