第9話

文字数 798文字

 ウェスの話している言葉は、日本語でも英語でも中国語でもイタリア語でもフランス語でもロシア語でもなくて、とにかく異世界の言葉だった。もしかしたら話してさえいなかったのかもしれない。叫んだりわめいたりしていただけだったのかもしれない。
 ホテルを出て、駅ビルの屋上にあるオープンテラスで朝食を食べた。性欲と睡眠欲と同じように食欲も確認できた。ウェスは無言でサンドイッチとオムレツを一気に胃におさめ、ホットコーヒーを飲みながら苦い顔をした。
 わたしは「コーヒー苦手なんだ」と笑ったけれど、ウェスは一文字もそれを理解しない。オープンテラスは盛況で、ほぼ席は埋まっていた。朝から控えめなおしゃべりがあちこちで交わされている。今日一日の予定。昨日までの感想。明日からの決意。
 それらすべてがウェスの耳には雑音に聞こえているだろうと思うと、異様なほどの孤独が想像できた。ぼくはウェスのカップにミルクを注いでやった。真っ黒な表面に白い筋がゆっくりと広がって渦を巻く。ウェスはそれをじいっと見つめていた。まだら模様に吸いこまれていきそうなほど、真剣な眼差しで。
 ウェスはカップを持ち、再びコーヒーを口にふくんだ。先ほどより表情はやわらかい。そのあどけなさが少しかわいらしく思えた。おれは砂糖をスプーンにすくって、何杯かコーヒーに入れてやった。さーっと流しこまれる白い砂をウェスは興味深そうにながめていた。
 かちゃかちゃと音を立ててかきまぜてやる。ウェスはもう一口、コーヒーを飲んだ。露骨に顔をしかめて舌を出した。昨夜見たときより、妙に細長くなっていた気がした。
 ウェスは怒ったりはしなかった。ただ、水を飲んだ。二度とコーヒーを口にすることはなかった。代わりにそれを飲んだ。胸焼けしそうな甘ったるさが、口いっぱいに広がる。
「そういうとこあるよねえ」
 ウェスの向こう側に座っているカップルが、無邪気にじゃれあっている。
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