第8話

文字数 1,811文字

 ツジさんの訪れる時間帯が変わった。これまでは夕方頃来ていたのに、フカモリさんが入る時間と合わせて現れるようになったのだ。
 それを知ったオザワさんはうれしそうに「仕事クビになったんじゃないですかー」と言っていた。そんなオザワさんには、心配になるくらいナガノさんが足しげく会いにくる。もうクーポンは使いきったようで、ただ会話を楽しみにやってくる。
 ツジさん担当はフカモリさんへとシフトしていった。威嚇とはいえど、暴力を振るわれそうになったのだ。いい気分ではないだろうと、ツジさんが来たらバックヤードに下がっておくように言った。
「大丈夫です」
 けれど、フカモリさんは平然と答える。無理をしているふうでもない。本当になんでもなさそうにかわすのだ。
「怖くないの?」
「大丈夫です」
「もしなにかされそうになったら、すぐバックヤードに逃げてね」
「なにかって」
「このまえ、殴りかかられたでしょう」
「あの人、できないと思います」
「そんなのわからないよ。とにかくすぐに逃げるか、おれを呼んで」
「店長を呼ぶんですか」
「もちろん」
「店長、どうするんですか」
「そりゃあ……毅然とした態度で話して」
「話が通じなかったら」
「それでも粘り強く……最悪、警察に連絡するよ」
「殴りかかられたら」
「え、避けるよ」
「あたしに当たりそうになったら」
「かばう……ようにする」
「店長、攻撃しないんですか」
「いや、攻撃したらおれが悪いでしょう」
「正当防衛じゃないですか」
「そうかもしれないけど」
「黙って耐えるんですか」
「だから、警察を」
「警察が来るまで」
 フカモリさんとここまで言葉のキャッチボールを交わしたのは初めてかもしれない。短いけれどすぐ投げかえされる。その返球は恐ろしく鋭い。淡々としているけれど、容赦ない。この子はおれのことが嫌いなんだろうなあ。いや、おれというより戦わない生き物全般を忌み嫌っているような。許せないでいるような。
「殴りかえせばいいのに」
 彼女の顔つきが変わった。そのとき自動ドアが開いた。ツジさんだった。
「いらっしゃいませ」
 フカモリさんの表情を見て、ツジさんは一瞬たじろいだ。おれは息を呑んだ。こういうときにかぎって、地方ラジオは暗いニュースを読みあげる。それも思いきりご近所の話題だからまいってしまう。
 若い男性の遺体が発見された。そういうとき、おれはいつも動機が怨恨であってほしいと願う。なんの理由もなく無差別に殺されたんじゃあやりきれない。もちろん一方的な逆恨みの場合もあるし、なにが相手の逆鱗にふれるかわかるわけもないけれど、なにかしらの強い気持ちが原因であってほしい。不特定多数の悪意には、どう見繕っても理由なんてないからだ。
 ウェスはおれを殴ったり傷つけたり、殺したいと思うだろうか。
 ツジさんはスラックスをカウンターに乗せた。フカモリさんが広げて、裏返して、きちんとチェックする。オザワさんにはできないことだ。
「こちらのシミは取れない場合もありますが、ご了承ください」
「はいはいはいはい」
 黒ずんだ点がいくつか散らばっていた。あれはやっぱり血痕なのだろうか。ツジさんは体を揺するが、どこかおどおどして、フカモリさんの顔色をうかがっているように見えた。フカモリさんの横顔からはなにも読みとれない。
 続くニュースも暗い。女子高生が同意のない性行為をされたと、三十代男性を訴えている。が、男性のほうは否認。避妊もしているし。しょうもない暗さだ。どうしてニュースというのは暗いんだろう。
 おれは無性に土野小波が聴きたくなる。
「ベージュのスラックスが一点」
 ツジさんは目を見張る。フカモリさんは目を伏せる。おれはプレイリストから土野小波を選んで爆音で流す。せまい店内で新しい音がはじけた。
「うわっ」
 ニュースにかぶせるように、土野小波がとびきり跳ねて踊りだす。一切ハーモニーを奏でない、独立した平行線。白か黒かの強引なコラボレーションに、ツジさんは体を揺するのをやめた。フカモリさんは目を伏せたまま伝票を発行し「お待たせしました」と渡す。
「ありがとうございました」
 フカモリさんは深々とお辞儀をする。ツジさんはその姿を見るやいなや、さっさと退店する。殴りかかる素振りは一切見せなかった。
「これ、やめませんか」
 フカモリさんは人差し指を立てた。おれはうなずいて、どっちとも聞かずに片一方の音を消した。
 フカモリさんはなにも言わなかった。
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