第4話

文字数 2,254文字

「ありがとうございましたー……テンチョー、なんですかあの人!」
「オザワさん、ちょっとツッコみが早い」
 ぼくはあわてて彼女をなだめた。それでもオザワさんは「だってだって」と興奮している。【オセロクリーニング】の常連になりつつあるツジさんの後ろ姿が、完全に点となり消えていくのを確認してから説明を始める。「テンチョー、慎重!」と韻を踏むかたちでダメ出しされた。
「あの人はツジさんといって……」
「それはわかりますよ! メンバーカード出したじゃないですか」
「ああ、ちょっとクセのある人なんだけど」
「ちょっとじゃないですよねー? なんであんな急いでんですか? 追われてんですか?」
「なにに?」
「組織とか」
 言いながらオザワさんは笑っていた。目がきれいな三日月になる。つられてぼくも笑ってしまう。こういうテンションに当てられて、彼女とはすぐにくだけた会話ができるようになっていた。
「ツジさんはいつもあんな感じだよ。『まだですかまだですか』って、カード出した瞬間から忙しないんだ」
「テンチョー、今のモノマネですよねー」
「そんなつもりないけど」
「似てましたよー悪意あるけど」
 オザワさんは本当によく笑う。箸が転んでもおかしい年頃というやつだろうか。言ったところで「なんですか、それー箸って!」とまた笑われてしまいそうだけれど。
「なんか目ぇぎょろぎょろさせて怖いし。しかも、あれ! シャツについてたシミ! 血ですよね!」
 受けとってタグ付けした衣類は、一度レジ横にあるバスケットに入れる。オザワさんはわざわざそこを漁って「ほらー」とツジさんのシャツを掲げる。袖口には黒ずんだシミが点々としていた。
「何者? 怖い怖いー」
「オザワさん、シミのときちゃんと確認取ってね。これは取れない場合もありますって」
「今、そういう話じゃないでしょー。えー、あの人、いっつもこの時間なんですかー? テンチョー、教えといてくださいよー」
「まあまあ、慣れていくから」
「えー、やだー」
「ツジさんのときは、ぼくも隣にいるようにするから」
「絶対ですよー」
 いつか店番を任せて、ちょっと休もうと思っていた目論見は早くもくずれた。長い目で見ていくしかない。もしくはほかの曜日、ほかの時間帯で手を打とう。
「あとね、オザワさん。もうちょっと丁寧に衣類を広げてチェックしてね。さっきみたいなシミとかほつれとか見落としちゃうと、こっちの責任にされちゃうことがあるから」
「えー、そんなのクレーマーじゃないですかー」
「うん、まあそうなんだけどね」
「ほっときましょうよ、そんなの。別にこっちは悪くないんだからー」
「悪くなくても謝らなきゃいけないときがあるんだよ」
「なんか、やな感じ」
「え?」
「社会人とはこうあるべき、大人なんだからこうしなきゃ、みたいなやつですよねー」
「そんなつもりじゃないけど」
「そういうのつまんないです。やる気なくなるー」
 オザワさんはだるそうにエプロンのポケットへ両手を突っこんだ。本当に体中の筋力を一気に奪われてしまったかのように、ぐにゃぐにゃと揺れる。海にただようクリオネとかタコとかを想像した。彼女といると、自分が脊椎動物であることを痛感させられる。
「ごめんごめん、そんなつもりないって」
 ひたすら平身低頭で謝りたおしても、オザワさんはふてくされたように無言をつらぬいた。客足が途絶えていてよかった。ぼくは思いつくままに、当たりさわりのない話題をポンポン投げてみたけれど、どれもオザワさんの心にはヒットしない。
「あ、土野小波」
 唐突にオザワさんが口を開いたので、ホッとしたと同時にしかしなにを言われたのかさっぱりわからなかった。手持ち無沙汰だったぼくは、カウンターを拭きながら尋ねた。
「ツチノコ?」
「え、テンチョー、知らないんですか!」
 うなずくと、オザワさんは水を得た魚のようにはしゃぎだした。「マジですかー」「信じられなーい」とひとしきり騒いだあと、
「土野小波ですよー。今めっちゃ売れてるアイドル! すっごいかわいいんだから」
 店内では地方ラジオを流しているが、いつもの地味な雰囲気にそぐわない音楽がかかっていた。機械で補正されたような甲高い声が、アップテンポなナンバーを歌っている。何度もしつこいくらい繰りかえされるサビは、確かに耳に残りそうだ。レジ締め作業をしているとき、お風呂がたまるのを待っているとき、布団に入って目をつぶったとき。ふとしたときに、すばやく脳内を占領する力を持っている。
「知らなかったなあ」
「テンチョー、時代に取り残されてますよ」
「そうかも」
「ラジオじゃなくて、土野小波かけましょうよー」
「え、一日中ずっと?」
「テンション上がりますもん。テンチョー、絶対好きですって」
「そうかなあ」
「絶対好き。私もめっちゃ好きです。最高に萌えます」
「オザワさんも?」
「はい」
「土野小波って女の子だよね?」
「推しに性別関係ないでしょー。テンチョー、古い!」
 いつの間にかオザワさんは骨を取りもどし、ちゃきちゃきとしゃべり、けらけらと笑った。途端に今度はぼくが骨抜きでぐにゃぐにゃになる。ポケットに手を突っこむわけにいかないから、布巾をむやみに折りたたんだりする。どこまで小さく折りたためるか試してみたりしている。
「テンチョー、それじゃモテないですよー。ていうか、恋人いないんですか?」
 自動ドアが開いて、客が入ってきた。ぼくはすぐに「いらっしゃいませ」と応じたつもりだったが、それでもオザワさんの大きな声は聞こえてしまったかもしれない。
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