第6話

文字数 2,977文字

「カーキのジャケットにしておきます」
 夕方勤務はNGだったフカモリさんだが、一週間だけという条件をあっさりと呑んでくれた。とりあえず稼げるときは稼いどくという方向にシフトチェンジしてくれたのだろうか。恋人の始めたバイトの景気がいいのだろうか。
 残念ながら、おれとフカモリさんはそんな話をする間柄じゃあない。今みたいに淡々と業務連絡を交わすだけだ。おれの敬語だけがだんだん抜けてきた。顔色をうかがうような丁寧さだと、どうも彼女の気に障るらしいことがわかってきたのだ。
「ああ、ありがとう」
 ナガノさんのジャケットの伝票を、フカモリさんは打ちだした。タグをつけてバスケットに放りこむ。本来、ナガノさんに渡すはずの預かり票は、カウンターの内側に保管しておく。イレギュラーなことにもテキパキと処理してくれるフカモリさんは頼もしい。愛想はオザワさんの十分の一もないけれど。まあオザワさんもごきげんななめな確率は高いけれど。
「高そうなジャケットだよなあ」
 意味もないことをつぶやいてみる。が、当然のようにフカモリさんの反応はうすい。ため息をもらすような「はあ」という答えは、いっそ無視してくれたほうがよかったと思う。
 いつもはオザワさんがいる時間だから、余計にギャップを感じるのだろうか。会話のない時間はやけに重苦しく感じた。外はもう夏日を迎えているというのに、フカモリさんの服装は全身真っ黒というのも手伝っている。自分が着ている真っ白なTシャツが少し気恥ずかしくなるくらいに。
 客足もまばらだし、バックヤードに引っこんでいようと思った。せっかくだからソファで仮眠を取ろう。そのためにアルバイトを雇ったのだし。
「あのさ」
「店長」
「あ、はい」
「これ、やめませんか」
「これっていうのは?」
 フカモリさんはスッと長い人差し指を立てて、天井を指さした。上にスピーカーがあるわけでもないのだけれど、すぐに店内BGMのことを言っているのだとわかった。土野小波はまるで早口言葉みたいな歌詞をたたみかけるように連呼している。
「ああ、土野小波」
「なんですか、それ」
「おれも最近知ったんだけど、今流行ってるらしいよ。バイトのオザワさんのおすすめで」
「ラジオのほうがよかったです」
 フカモリさんは真っ直ぐにおれを見つめてくる。強い眼差し。ああ、わかるよ。おれだってラジオのほうがよかったんだ。
「高校生の機嫌を損ねると怖いからさ」
「若い子が好きなんですね」
「そういう意味じゃないよ」
「性癖は個人の自由です」
「いや、だから……」
 面倒くさくなっておれは言葉を切った。職場というのは不思議なものだ。会ってもいない同僚に文句をつけたり、想像をふくらませたりできる。いずれは二人体制で入ってもらって、おれは休日を……という淡い願いはなかなか成就してくれそうにない。
 こういうとき本当の店長、つまりウェスはどうするつもりだったんだろうと思う。まさか全部を全部、一人でこなせるわけもない。初めはおれを手伝わせるつもりだったのかもしれないけれど(そんな話は一度も聞いたことがないけれど)、ゆくゆくはアルバイトを雇っていただろう。
 ウェスはどんな人を選ぶのだろう。年齢は? 性別は? 国籍は? なにを決め手にするのだろう。単純にカンを働かせるのかもしれない。そういうのがおれには全く備わっていない。ウェスのやりたいことを、勝手にカフェだと決めつけたくらいだし。
 おれは土野小波のプレイリストを止めて、ラジオのアプリを起動させた。ローカルタレントののんびりとしたしゃべりが聞こえてくる。
「……ありがとうございます」
「いや、おれもこっちのが好きだし」
「オザワさんって、どんな子ですか」
「これぞ今どきの女子高生って感じ」
「典型を知りません」
「あくまでイメージだよ。よくしゃべってよく笑ってよくふてくされる感じ」
「奔放ですね」
「まさにそれ。自由だね。下手なこと言ったら、一瞬で軽蔑されそうで怖い」
「怖いんですか」
「怖いねえ」
「どうしてですか」
「若い子に軽蔑されると、もう取りかえしがつかなくなりそう。評価が覆ることはないだろうし、多分だいたいおれのほうが悪くなる」
「そんな気をつかうことないんじゃないですか」
「おれから見たら、フカモリさんも若いうちに入るからね」
 フカモリさんをまとう空気がピリッと張りつめる。彼女もまた、オザワさんとは別口で地雷が多い。けれど、彼女のほうが少々ぶっちゃけても大丈夫な気がした。
 事実、フカモリさんは胸の内でおれの言葉を十分咀嚼してから話しだす。
「すみません」
 短く謝られる。おれは首を横に振る。
「さっきの……ツチノコ? かけてください」
 噴きだしてしまった。フカモリさんの天然っぽい一面を垣間見た。当の本人は細い目を精いっぱい丸くしている。
「いやいや、オザワさんのときだけかけておけばいいよ。それより夕方も入ってくれてありがとね。本当に大丈夫だった?」
「大丈夫です」
「面接のとき、夕方以外がいいって言ってたからさ」
「彼が夕飯をつくるようになったので」
「そうなんだ。すごいね」
「すごくはないですけど」
 自動ドアが開いた。ツジさんだった。相変わらず急いていて、レジの前でも足踏みをしている。ポケットから預かり票を取りだし、カウンターに放りなげる。
「少々お待ちください」
 ツジさんとは初対面のフカモリさんだが、血走った目でもどかしそうに体を揺する客に動揺は微塵も見せなかった。フカモリさんが衣類の森へ消えると同時に、ツジさんは少なくなった髪の毛をかきむしりながら「まだですかまだですか」と呪文のように唱えている。
「お待たせしました。ご確認お願いします。ストライプのシャツが一点でお間違いないですか」
「はいはいはいはい」
「袋はどうされますか」
「入れて入れて入れて」
 ツジさんはますます激しく体を揺らす。フカモリさんはビニール袋を取りだそうとするが、一枚もないことに気づく。
「店長、袋お願いします」
「あ、ごめん」
 うっかり補充を忘れていた。ナガノさんに受けわたしたのが最後の一枚だった。
「まだですかまだですか」
「少々お待ちください」
「まだですかまだですか」
 レジ横に置いてあった段ボールを開封する。
「まだですかまだですか」
 フカモリさんはなにも言わない。おれは一番上の束をわしづかみにして取りだす。
「まだですかまだですかまだですかまだですか、んっ、ふっ、まだですかまだですか」
 まだですか、の合間に謎の呼吸が入った。乾燥した指でどうにか一枚つまんだところで「ふっ」の瞬間を目の当たりにする。
 ツジさんは体を揺らしながら、時折耐えきれなくなったように拳を固め、振りかぶるような動作を見せた。明らかな臨戦態勢にもフカモリさんは無反応だ。おれはあわてて「お待たせしました」と割って入り、ツジさんのシャツを袋に入れる。ツジさんは振りあげた拳でカウンターをたたき、袋をむしり取って出ていった。シミの確認を怠ったことに気がついた。結局、袖口についた血痕らしきものは消しきれなかったのだ。
 おれの後ろでフカモリさんが「すみません」と謝る。
「全然謝ることないよ。あの人、ちょっと変わったお客さんなんだ。こっちこそ怖い思いさせてごめんね」
 フカモリさんは袋の束を定位置に収めて、もう一度「すみません」と謝った。
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