8月16日(月)【23】おくり
文字数 2,039文字
「エリカさん。帰りましょう」
バクバクの心臓を深呼吸でゆるめながら、さきほどと同じ石段に座っていたエリカさんの手をつかむ。
「えっ。ちょっと」
ゆきこちゃんはと聞かれたが「帰りました」とだけ伝えた。
「そうだ。エリカさんラジオ体操のお菓子もらいました?」
強引に話をそらす。
「いや。あれから――」
「そうですか。ちょうどいい」
そういって、彼女の手を射的屋の前まで引っ張って歩く。
「おじさん、いくら?」
100円玉を店主に手渡し、鉄砲にコルク弾をつめる。バネを引き寄せ狙いに近づいて引き金を引く。2発目で、大きなクチバシの鳥がマスコットのチョコレートを撃ち落とした。
「エリカさん。これ受け取ってください」
「ありがとう」
エリカさんの手を引き、境内を出る。
前方の歩道橋に人が集まっていた。そのまま直進し、ぐるりと遠回りをしてアパートへと戻る。
敷地に入り、南側アパートの茶色いペンキが塗られた鉄の階段を、のぼる。
「間に合いましたね」
「ん?」
「花火」
――ポンッ......ポンポンッ――。
遠く北西の空で、花火が3発さいた。
「えっ、ちっちゃ」
上がった息を沈めながら、エリカさんが笑う。
――パパパパパッ――。
小さい赤の花火が、連続で上向きに炸裂する。
「かわいっ」
そしてまた笑う。
低すぎて、田んぼに咲いている彼岸花のようだ。エリカさんは手すりに両腕をのせて、遠くを見つめている。
「あれでも300mくらい上がってるらしいですよ。4秒かけて」
「そうなんだ」とエリカさんはいった。
「あさがお、咲いた?」
「まだです。けどツボミができていたので、そろそろだと思います」
「そっか」
エリカさんはチョコを一粒、唇に押し込む。
「あきふみくんは、なんであさがおを選んだの?」
「アサガオがたくさん残っていたので、宿題のために」
「あさがおじゃなくてもよかった?」
「いえ......はい」
意図が読めない。
「そうやって、なぜかみんなに選ばれつづけて夏に増えるんだね」
「......はい」
「あさがおは一人で立っていられないから、首をふって、地面を這って、はじめに触れたものに巻き付くの」
「そうですね」
「弱いほうが守ってあげたくなるし、育てたくなるでしょ。クルクルするのもおもしろいし」
「はい」
それがわたしが今までやってきたことなのだと、エリカさんはいった。
彼女の右手につままれたチョコを、一粒もらう。
「キヨフミくんのこと好き?」
「好きじゃないです」
「ゆきこちゃんは?」
「好きです、二人きりのときは。友達として」
そっか、といわず、なんで、と彼女は問う。
「誰か一人を振り払ったら、そこからパタパタと全部倒れていきそうで」
「こわい?」
花火に揺らめいていた瞳が、こちらに向けられている。
「......はい」
一人きりで過ごすには、夏休みは長すぎること。日記に書けるものなんかもっていないということ。一人だけを信じるなんてこわくてできないということ。
腹の底に根を張っていた声が、彼女の方へと引き抜かれていく。
お酒は一滴も入っていないはずなのに。
――ボツン、ボツン――。
大きな花火が二つ消えた。
「エリカさん」
「なに、あきふみくん」
夜のやわらかい声。
「サクさんのこと、まだ好きなんですか?」
「えへ。バレちゃった?」
「はい。隠すの下手でしたから」
「うっそー」といって、ぼくの両頬をプニプニと弄ぶ。
「サクさん。エリカさんとのプリクラまだ財布に入れてるらしいですよ。『サクレイ』って落書きされてたって、キヨがいってました」
「そっか」
ぼくの両頬がギュッとつままれ、鳥のくちばしみたいに飛び出す。
「でも、あきふみくんにはとっても感謝してる」
ASJに行った日。エリカさんはぼくと別れたあと一人駅に戻って、キヨの家族を待ち続けていたらしい。2時間後、三人は改札の向こう側の階段を並んで降りてきた。右手をサクさん、左手をキヨと繋いでいるサヤカさんの姿を見て、エリカさんは満足したという。
「わたしたぶん、今日でいなくなるから」
「えっ」
「ありがとう。あきふみくん――」
言い終わる前に、エリカさんの両手がぼくを寄せる。
顔面がすべすべの浴衣にうずまる。夏の空気よりもあついおっぱいに覆われて、足の力が抜ける。胸と背筋をつたって頭蓋骨におさまりきらないほど膨れ上がった熱が、ぼくのまぶたから飛び出した。とまらない熱がお姉さんの浴衣に染みをつくっている。
目におくれて、頭ぜんたいから汗が吹き出し首筋をつたう。逃げたい。せめて汗だけでもシャツで拭きたい。気持ちはつたわらず、くずれそうになった体を彼女は離さない。
ひざが曲がり、首は後ろに押し返されている不格好な抱擁。
吸い過ぎていた息を吐くと、汗が熱を包み鼓動が落ち着いていく。
真っ暗な視界の中、ゆっくりと両手を彼女の腰にまわし、おそるおそる腕で閉じこめてみる。肺の中が彼女のにおいで満たされていく。
――ボドン――。
この夏、一番の花火を、ぼくたちは見逃した。
バクバクの心臓を深呼吸でゆるめながら、さきほどと同じ石段に座っていたエリカさんの手をつかむ。
「えっ。ちょっと」
ゆきこちゃんはと聞かれたが「帰りました」とだけ伝えた。
「そうだ。エリカさんラジオ体操のお菓子もらいました?」
強引に話をそらす。
「いや。あれから――」
「そうですか。ちょうどいい」
そういって、彼女の手を射的屋の前まで引っ張って歩く。
「おじさん、いくら?」
100円玉を店主に手渡し、鉄砲にコルク弾をつめる。バネを引き寄せ狙いに近づいて引き金を引く。2発目で、大きなクチバシの鳥がマスコットのチョコレートを撃ち落とした。
「エリカさん。これ受け取ってください」
「ありがとう」
エリカさんの手を引き、境内を出る。
前方の歩道橋に人が集まっていた。そのまま直進し、ぐるりと遠回りをしてアパートへと戻る。
敷地に入り、南側アパートの茶色いペンキが塗られた鉄の階段を、のぼる。
「間に合いましたね」
「ん?」
「花火」
――ポンッ......ポンポンッ――。
遠く北西の空で、花火が3発さいた。
「えっ、ちっちゃ」
上がった息を沈めながら、エリカさんが笑う。
――パパパパパッ――。
小さい赤の花火が、連続で上向きに炸裂する。
「かわいっ」
そしてまた笑う。
低すぎて、田んぼに咲いている彼岸花のようだ。エリカさんは手すりに両腕をのせて、遠くを見つめている。
「あれでも300mくらい上がってるらしいですよ。4秒かけて」
「そうなんだ」とエリカさんはいった。
「あさがお、咲いた?」
「まだです。けどツボミができていたので、そろそろだと思います」
「そっか」
エリカさんはチョコを一粒、唇に押し込む。
「あきふみくんは、なんであさがおを選んだの?」
「アサガオがたくさん残っていたので、宿題のために」
「あさがおじゃなくてもよかった?」
「いえ......はい」
意図が読めない。
「そうやって、なぜかみんなに選ばれつづけて夏に増えるんだね」
「......はい」
「あさがおは一人で立っていられないから、首をふって、地面を這って、はじめに触れたものに巻き付くの」
「そうですね」
「弱いほうが守ってあげたくなるし、育てたくなるでしょ。クルクルするのもおもしろいし」
「はい」
それがわたしが今までやってきたことなのだと、エリカさんはいった。
彼女の右手につままれたチョコを、一粒もらう。
「キヨフミくんのこと好き?」
「好きじゃないです」
「ゆきこちゃんは?」
「好きです、二人きりのときは。友達として」
そっか、といわず、なんで、と彼女は問う。
「誰か一人を振り払ったら、そこからパタパタと全部倒れていきそうで」
「こわい?」
花火に揺らめいていた瞳が、こちらに向けられている。
「......はい」
一人きりで過ごすには、夏休みは長すぎること。日記に書けるものなんかもっていないということ。一人だけを信じるなんてこわくてできないということ。
腹の底に根を張っていた声が、彼女の方へと引き抜かれていく。
お酒は一滴も入っていないはずなのに。
――ボツン、ボツン――。
大きな花火が二つ消えた。
「エリカさん」
「なに、あきふみくん」
夜のやわらかい声。
「サクさんのこと、まだ好きなんですか?」
「えへ。バレちゃった?」
「はい。隠すの下手でしたから」
「うっそー」といって、ぼくの両頬をプニプニと弄ぶ。
「サクさん。エリカさんとのプリクラまだ財布に入れてるらしいですよ。『サクレイ』って落書きされてたって、キヨがいってました」
「そっか」
ぼくの両頬がギュッとつままれ、鳥のくちばしみたいに飛び出す。
「でも、あきふみくんにはとっても感謝してる」
ASJに行った日。エリカさんはぼくと別れたあと一人駅に戻って、キヨの家族を待ち続けていたらしい。2時間後、三人は改札の向こう側の階段を並んで降りてきた。右手をサクさん、左手をキヨと繋いでいるサヤカさんの姿を見て、エリカさんは満足したという。
「わたしたぶん、今日でいなくなるから」
「えっ」
「ありがとう。あきふみくん――」
言い終わる前に、エリカさんの両手がぼくを寄せる。
顔面がすべすべの浴衣にうずまる。夏の空気よりもあついおっぱいに覆われて、足の力が抜ける。胸と背筋をつたって頭蓋骨におさまりきらないほど膨れ上がった熱が、ぼくのまぶたから飛び出した。とまらない熱がお姉さんの浴衣に染みをつくっている。
目におくれて、頭ぜんたいから汗が吹き出し首筋をつたう。逃げたい。せめて汗だけでもシャツで拭きたい。気持ちはつたわらず、くずれそうになった体を彼女は離さない。
ひざが曲がり、首は後ろに押し返されている不格好な抱擁。
吸い過ぎていた息を吐くと、汗が熱を包み鼓動が落ち着いていく。
真っ暗な視界の中、ゆっくりと両手を彼女の腰にまわし、おそるおそる腕で閉じこめてみる。肺の中が彼女のにおいで満たされていく。
――ボドン――。
この夏、一番の花火を、ぼくたちは見逃した。