7月24日(土)【07】中学二年生の嬢
文字数 2,224文字
6時23分。肩幅に両足をひらき腰に両手を当てアサガオを見下ろしていたぼくの、腕の三角形にもぐりこんだ左手が、おへそを通過し、ぼくの右手の指をつかんだ。
ぼくはバレリーナのようにくるりと一回転させられて、そのままお姉さんとラジオ体操へ向かう。
体操が終わると、お姉さんと二人でスタンプ列に並ぶ。
その後ろにはゆきこ。
「あきくんおはよう」
「ようゆきこ。おはよう」
「あきふみくんのお友達?」
エリカさんは目の前の女子小学生に目を大きくしている。
「友達です――」
「――はじめまして。谷瀬 ゆきこと申します。初乃君のクラスメイトです」
ゆきこのよそゆき言葉づかいをはじめて聞いた。
「小山内エリカと申します。あきふみくんのご近所さんです」
ゆきこの質問攻めがはじまり、エリカさんはそのすべてに答える。そしてついに、ぼくも知りたかった項目にたどり着いた。
「お姉さんは学生さんですか? OLさんとかでしょうか?」
「わたしはね。お客さんにお酒をついで、お話を聞く仕事をしています」
「キャバ嬢というお仕事でしょうか?」
『相手がそれ以上詳しく話さないとき、それ以上詳しく聞いてはいけない』という大人常識をゆきこはたぶん知っている。子供のふりなのか攻撃なのか。ともかく、気になっていた疑問を無神経に聞いてくれた女ゆきこを心の中で応援した。
「キャバ嬢というより今はホステスかな。ま、似たようなもんだけど」
「へー」
思わず声がもれた。
眼鏡のレンズ越しにゆきこの右目がぼくの声をとらえる。
《キャバ嬢》はドラマで見たことがあったし、《ホステス》という言葉も聞いたことがあった。が、両者は似ているが違うものだという知識をいま知った。
「水商売ってやつですよね」
「ゆきこちゃんよく知ってるねー」
中学校2年生からキャバ嬢をはじめたこと。
最初の店は飲み放題5,000円だったこと。
怖いので、たいした額のものは貰ったことがないということ。
100万円の着物を持っているということ。
肝臓が悪くなって痩せたこと。
ついでに3回目の禁煙をしていること。
付き合った人としか寝ない、ということ。
女子小学生の容赦ない質問に、笑顔で答えるお姉さん。のぼりはじめた白色光線が、二人の横顔をピシッと照らし出す。
ぼくは手に汗を握った。
まだ知らない世界。美しい女性のために大人の男性が大枚をはたく世界。その世界の主役を目の前にして、鳥肌が立ちっぱなしだった。
「あきくん。今日ようじある?」
「えっ」
聞き尽くしたゆきこが、じっとぼくの目を見ている。エリカさんの前で誘ってくるなんて。情報を引き出してくれた感謝の気持ちが、モヤモヤと上書きされていく。
「もう他の子と約束してるかな?」
今日は土曜日、ケイタは水泳と空手だ。
「してないけど――」
「じゃあ遊ぼっ。二人で」
「......いいけど」
「へー、仲良しなんだ。いいなあ。何して遊ぶの?」
ゆきこの視界から完全に消えていたお姉さんが割って入る。
「それはまだわかりません。あきくん何したい?」
一言で、ゆきこはお姉さんを締めだした。
「やりたいこと無いなら遊ぶのやめよ」
いじわるだと自分でも思った。
ゆきこが気持ちを表に出すようになって2か月。「いつ結婚するの?」と茶化される状況に、とても困っていた。
「ごめん。じゃあ、お昼ご飯いっしょに食べよ?」
何故隠せないのだろう。もし告白をされたらきちんと断ろうとボンヤリ考えてはいたが、その機会はまだない。
好意を迷惑に変えて近づいてくる人間との距離感を、まだ計りかねている。
「俺、お金持ってないよ」
「ううん。そうじゃなくて。あたしの家で食べよ」
「いいの?」
「いいよ。よくなかったら誘わないし」
「ありがと。親は大丈夫なの?」
「全然大丈夫。むしろあきくんきたら、喜ぶと思う」
また困らせる。
結局、11時にゆきこの家で食事、ということだけ決まった。
〇
「エリカさんホステスだったんですねえ。美人だし、人気なんだろうな」
帰り道。軽い口調とは裏腹に胸はバクバクしていた。《美人》という褒め言葉を女性につかうのは、ぼくにはまだ早かった。
「美人だなんて。あきふみくんに言われると......照れちゃうかも」
返し技も強い。いま横にいる女性の戦場では、こんな弾が無数に飛び交っているのだろう。むしろ、瀕死にされたくてお金を払っているのかもしれない。
「――エリカさんこれから寝るんですか?」
「そうそう。今日はね。だから、寝る前のストレッチかな」
無理して体操に参加していないかと聞くと「全然へっちゃらなのだ」と彼女は言った。
「あきふみくんが同伴してくれるなら、もうちょっと早く寝ないといけないけど」
「ぼく、お金持ってないです」
同伴についてもくわしく聞いてみたかったが、これ以上は迷惑だと判断した。
「お金じゃなくて。ゆきこちゃんとご飯の約束があるから、してくれないんでしょ?」
「えっ......」
プロフェッショナルだ。
沈黙のさ中。忘れ物でも拾うように、彼女の左手はぼくの右手を持ち上げる。
「そうだ。今度、名刺渡すね」
「えっ。ありがとうございます」
名刺をわたす。その行為に何か特別な意味はあるのだろうか。
「じゃあ、ここでお別れ。わたしは探検の続きしてくるから」
「はい、わかりました」
敷地の前でお姉さんと別れた。
「彼女との約束が無い日に、待ってるね」
生まれて初めてホステスに誘われた。
眠れない夜になりそうだった。
ぼくはバレリーナのようにくるりと一回転させられて、そのままお姉さんとラジオ体操へ向かう。
体操が終わると、お姉さんと二人でスタンプ列に並ぶ。
その後ろにはゆきこ。
「あきくんおはよう」
「ようゆきこ。おはよう」
「あきふみくんのお友達?」
エリカさんは目の前の女子小学生に目を大きくしている。
「友達です――」
「――はじめまして。
ゆきこのよそゆき言葉づかいをはじめて聞いた。
「小山内エリカと申します。あきふみくんのご近所さんです」
ゆきこの質問攻めがはじまり、エリカさんはそのすべてに答える。そしてついに、ぼくも知りたかった項目にたどり着いた。
「お姉さんは学生さんですか? OLさんとかでしょうか?」
「わたしはね。お客さんにお酒をついで、お話を聞く仕事をしています」
「キャバ嬢というお仕事でしょうか?」
『相手がそれ以上詳しく話さないとき、それ以上詳しく聞いてはいけない』という大人常識をゆきこはたぶん知っている。子供のふりなのか攻撃なのか。ともかく、気になっていた疑問を無神経に聞いてくれた女ゆきこを心の中で応援した。
「キャバ嬢というより今はホステスかな。ま、似たようなもんだけど」
「へー」
思わず声がもれた。
眼鏡のレンズ越しにゆきこの右目がぼくの声をとらえる。
《キャバ嬢》はドラマで見たことがあったし、《ホステス》という言葉も聞いたことがあった。が、両者は似ているが違うものだという知識をいま知った。
「水商売ってやつですよね」
「ゆきこちゃんよく知ってるねー」
中学校2年生からキャバ嬢をはじめたこと。
最初の店は飲み放題5,000円だったこと。
怖いので、たいした額のものは貰ったことがないということ。
100万円の着物を持っているということ。
肝臓が悪くなって痩せたこと。
ついでに3回目の禁煙をしていること。
付き合った人としか寝ない、ということ。
女子小学生の容赦ない質問に、笑顔で答えるお姉さん。のぼりはじめた白色光線が、二人の横顔をピシッと照らし出す。
ぼくは手に汗を握った。
まだ知らない世界。美しい女性のために大人の男性が大枚をはたく世界。その世界の主役を目の前にして、鳥肌が立ちっぱなしだった。
「あきくん。今日ようじある?」
「えっ」
聞き尽くしたゆきこが、じっとぼくの目を見ている。エリカさんの前で誘ってくるなんて。情報を引き出してくれた感謝の気持ちが、モヤモヤと上書きされていく。
「もう他の子と約束してるかな?」
今日は土曜日、ケイタは水泳と空手だ。
「してないけど――」
「じゃあ遊ぼっ。二人で」
「......いいけど」
「へー、仲良しなんだ。いいなあ。何して遊ぶの?」
ゆきこの視界から完全に消えていたお姉さんが割って入る。
「それはまだわかりません。あきくん何したい?」
一言で、ゆきこはお姉さんを締めだした。
「やりたいこと無いなら遊ぶのやめよ」
いじわるだと自分でも思った。
ゆきこが気持ちを表に出すようになって2か月。「いつ結婚するの?」と茶化される状況に、とても困っていた。
「ごめん。じゃあ、お昼ご飯いっしょに食べよ?」
何故隠せないのだろう。もし告白をされたらきちんと断ろうとボンヤリ考えてはいたが、その機会はまだない。
好意を迷惑に変えて近づいてくる人間との距離感を、まだ計りかねている。
「俺、お金持ってないよ」
「ううん。そうじゃなくて。あたしの家で食べよ」
「いいの?」
「いいよ。よくなかったら誘わないし」
「ありがと。親は大丈夫なの?」
「全然大丈夫。むしろあきくんきたら、喜ぶと思う」
また困らせる。
結局、11時にゆきこの家で食事、ということだけ決まった。
〇
「エリカさんホステスだったんですねえ。美人だし、人気なんだろうな」
帰り道。軽い口調とは裏腹に胸はバクバクしていた。《美人》という褒め言葉を女性につかうのは、ぼくにはまだ早かった。
「美人だなんて。あきふみくんに言われると......照れちゃうかも」
返し技も強い。いま横にいる女性の戦場では、こんな弾が無数に飛び交っているのだろう。むしろ、瀕死にされたくてお金を払っているのかもしれない。
「――エリカさんこれから寝るんですか?」
「そうそう。今日はね。だから、寝る前のストレッチかな」
無理して体操に参加していないかと聞くと「全然へっちゃらなのだ」と彼女は言った。
「あきふみくんが同伴してくれるなら、もうちょっと早く寝ないといけないけど」
「ぼく、お金持ってないです」
同伴についてもくわしく聞いてみたかったが、これ以上は迷惑だと判断した。
「お金じゃなくて。ゆきこちゃんとご飯の約束があるから、してくれないんでしょ?」
「えっ......」
プロフェッショナルだ。
沈黙のさ中。忘れ物でも拾うように、彼女の左手はぼくの右手を持ち上げる。
「そうだ。今度、名刺渡すね」
「えっ。ありがとうございます」
名刺をわたす。その行為に何か特別な意味はあるのだろうか。
「じゃあ、ここでお別れ。わたしは探検の続きしてくるから」
「はい、わかりました」
敷地の前でお姉さんと別れた。
「彼女との約束が無い日に、待ってるね」
生まれて初めてホステスに誘われた。
眠れない夜になりそうだった。