7月24日(土)【08】ゆきこん家のお昼

文字数 4,345文字

「――だからいらないって」

 つい2分前。ぼくは靴を履きながら、ゆきこの家で昼ごはんをいただくと母に告げると「ちょっと待ちなさい」と呼びとめられた。

 いま母は、ガス台の下にもぐっている。

「ゆきこちゃんせんべい好き?」
「知らない」

 得用ドデカせんべい袋をわしづかみにした母が顔を出す。

「ご飯食べるんだからせんべいなんかいらない」
「お母さんは食べられるけどねー」

 またガス代の下にもぐると、今度はスティック式の2つにパキンと割れるチョコレートを取り出した。

「これいくらだと思う?」

 欲しくないときに出題される『これいくらクイズ』。解答権が無限に与えられるシステムなので、ベスト解答は《解答しない》だ。

「............」

「――なんと! キャンペーンで198円」
「わかったから早くちょうだい。遅れるから」

 溶けるから袋に氷入れていきなさいと言っていたが、無視して家を出た。

 ゆきこの家は川のすぐ横の大きな一軒家。

 壁と壁の間隔が1メートルにもみたない、そんじょそこらのギチギチ建売住宅とは違う。使いきれずにあまった部分には、本物の庭まであった。車庫にはごついタイヤを履いた背の高い角張った車がギリギリおさまっている。

 カメラ付きインターホンを押すと、ゆきこが出た。

「あきくん入って」
「おじゃまします」

 玄関に入ると、熱した油のにおいに包まれた。

「あとこれ、お菓子」
「なに? わ、チョコだ」
 ゆきこはそういうと、ぼくの手からスーパーの袋ごと受け取る。

 フライパンの上で水分のはじける音が聞こえる。

「もうすぐできるから。こっちで手洗って」

 ゆきこに導かれ子供二人が並んで歩ける廊下を右に曲がると、洗面台があった。足元には、幼児用と思われる二段式の踏み台が用意されている。

「コップ使う?」
「ありがと。でもいらない」

 二段を一息であがり、腹筋をちぢめ、手洗いとうがいをすませる。壁にかけてある白いタオルで手だけ拭いて、口は右肩でぬぐった。

「じゃあこっちきて」

 慎重に靴下を滑らせながらフローリングを進む。音とにおいの充満する部屋へ案内されると、奥のキッチンからゆきこ母が顔を出した。

「あきふみくん、いらっしゃい」
「おじゃまします」

 おそらくこの家の中で一番広いであろうリビングのソファに座っているのが、ゆきこの父親だろう。

「おう。いらっしゃい。ゆきこの彼――」
「パパ!」
 ゆきこ母の、腹からの声。

「――冗談冗談。ゆきこの友達か」
「こんにちは」
「おうっ。こんにちは」

 おじさん特有の笑えない冗談は、ほとんどの場合、深い意味を持たない。空気をほぐしたいとき、面倒な問題から目をそらしたいときなど、男子小学生の間でもしばし用いられる。

 問題は、深く考える前に放った冗談で誰かを深く傷つけてしまう確率が非常に高いことだ。故意ではなく過失、事件というより事故。速さを優先した結果ともいえる。

 ぼくは気にならなかったが、ゆきこが気にしていると思ったので、彼女の顔は見ないでおいた。

「あきくんはここ」

 さっきよりも落ち着いているゆきこに従い、ひさびさの椅子に座る。椅子はゆきこのものと同じく、座高が少し高くなっていた。普段は妹が使っている椅子で、妹は昨日からクラスの友達数人とお泊り会をしているようだ。

「ゆきこん家のお昼ごはん、すごいね」
 隣のゆきこに、いまの驚きをつたえる。

 手前のダイニングテーブルには、いまテレビタレントがインターホンを鳴らしたとしても十分に対応できるほどのおかずが並んでいる。

 うちでは見たことの無い色づかいの焼き飯と、アンのかかった肉団子、エビチリ、紫がかった生野菜サラダ、トマトと葉っぱとチーズ、わかめと油の浮いた赤いスープが並んでいる。

「エビピラフとエビチリ、甘酢あんかけ。トマトとモッツァレラチーズと残り物の韓国風スープ。あと、アスパラガスで全部です」

 ゆきこ母は本日のメニューを紹介しながら、アスパラガスのベーコン巻きをテーブルのすきまに割り込ませる。

「こんな豪華なお昼ごはん、はじめてです」
 本音だったが、言ってみると少し恥ずかしい。

「ジャンルがバラバラで恥ずかしいけどごめんね」
 ゆきこ母の声色から、恥ずかしさは感じられない。

「いえ。どれもおいしそうです」
「嫌いなものとかあったら、無理して食べないでね」
「いえ。嫌いなものはないので」
「そうなの? にんじん嫌いのゆきちゃんと大違い。パパは魚が好きじゃないのよ」

 

というひびき、ここは家なんだなと思う。ゆきこ父は奥のソファで短めの釣竿をいじっている。

 「釣ってきた魚は、いつも私と娘たちで処理するからほんと大変」
 ぼくの返事を待たずに彼女は続ける。

「あきふみくんがうちの子だったら、もっとレパートリーが増えるのにな」
「ゆきこのお母さんって、何でも作れるんですね。羨ましい」

 彼女は結っていた茶髪を解放すると、顔全体で笑顔をつくり「パパおいで。食べましょっ」と言った。

 寸前で

という言葉をすり替えた判断は、正解だった。

 どのおかずも、見た目通りの強い味がした。

 ゆきこは給食のときよりも行儀がよかった。食卓の中心はゆきこ母だ。

 ゆきこの顔面が牛乳まみれになった話が彼女のお気に入りだった。

 一時期、牛乳を飲むタイミングで笑わせる遊びが流行した。

 まんまと笑わされたぼくは、正面女子席に座っているゆきこの顔面に、口と鼻からミルク砲を噴射した。ゆきこの給食も、もれなく牛乳被害を受けた。

 ゆきこもハンカチは持っていたが「汚れるからこっちを使って」と、ぼくがハンカチやらポケットティッシュやらとにかく拭けるものを全部彼女にわたした――そのエピソードがツボのようだった。

「――ゆきちゃんのメガネとナフキンを洗ってくれて。机と椅子もきれいになるまで雑巾で拭いてくれて。それで、『牛乳入っちゃったから、帰りにコンビニでパン買うから、それまで我慢して』って言ってくれたんだよね」

 ノッてきた母は、ななめ向かいの娘を見る。
「......うん」

「それでこの子、ツナおにぎりとソーセージパンとエクレアとフルーツオレを持って帰ってきたの」

「すみませんでした。普段カバンには500円しか入れていないので」

 あらためて謝っておくべきだと思い謝罪すると「違う違う。あきふみくんは優しい男の子だねって話。この子は全然気にしてないの。そうよね?」と再び娘を見る。

「......うん」

 いい子モードのゆきこは、せっかくのかたまりチーズをそぼろになるまでカットしている。

「それでこの子、あきふみくんが選んでくれたからって、夕食前にエクレアまで全部食べちゃったの。チョコは苦いからって、いつも妹と交換してるのに。そのせいで妹はチョコ好きになっちゃって――」

「えっ、チョコ嫌いだったの?」
 母の話に割り込み、左隣のゆきこを見る。

「うん、昔はね」
「あれ、今は大丈夫なの?」
 いじわる笑顔でゆきこ母は問う。
「......まあ」

 ゆきこ母の口は、食べずにしゃべりつづける。

「あと、あきふみくんはテストでいつも花マルだしマットで逆立ちができるし優しいからクラスの誰とでも仲良くなれてすごいって、いつも――」
「――ママ」

 ゆきこ母は「ちょっと喋り過ぎたかしら」という表情をしたのだと思う。見ていなかったが、ガリガリという音だけが食卓に響いた。

 ぼくはそのとき、ゆきこ父が回転させているガラス瓶に目を奪われていた。シワシワの黒いビービー弾が白まじりの砂に砕かれ、トマトに振りかかっている。異国の香辛料だろう。テレビでシェフが肉にかけている映像を見たことがある。一度使ってみたかったが、手を伸ばせなかった。

「――ごちそうさまでした」

 昼食を終えると、口数の減っていたゆきこに手を引かれ、二階の部屋に案内される。

「お腹いっぱい。突然きて、お家の人迷惑じゃなかった?」
「ううん。うちのママ、こういうのやりたがる人なの」
「こういうの?」
「お家でお誕生日パーティーとか」
「ああ。いいじゃん羨ましい」
「ほんと?」
「うん」

 半分本当で、半分嘘だ。

「だから、久しぶりにあたしが友達連れてきたもんだから、テンション上がってたんだと思う」
「ふーん」

 ゆきこの部屋らしき大きな空間で、何をして遊びたいか聞かれたが、困った。

 普段ゆきこは妹と女の子遊びばかりだというので、絞り込んだ結果「じゃあテレビゲームをしよう」ということになった。

 ふたたび一階へ。

 先ほどゆきこ父が座っていたソファに、二人並んで座る。父は四角い車でバス釣りに出かけたらしい。

 キヨご自慢の薄型テレビの2倍以上はある画面に、少し前に流行ったパーティーゲームが映し出される。

 ゆきこはお姫様。ぼくはライトグリーンベレー帽のヒゲおじさん。競技は選んでいいといわれたが、よくわからないので乱数に選択させた。

 ぼくの右隣でゆきこは操作方法とコツをレクチャーしている。彼女は一度もぼくを攻撃しない。代わりに、コンピュータをボコボコにつぶす。

 そして、二人だけになると必ず「あたしをころして」と言った。

 何種類かの競技を終えると、ぼくのベレー帽が1位に表彰された。

 その一歩後ろで、お姫様は拍手をしていた。

 夕方。ゆきこは「そこまでおくる」といって、小学校の後門までついてきた。好きだというパステルピンクの一輪車に乗って。

 両手を広げたゆきこは、マウンテンバイクの周りを何度も何度も周る。前傾姿勢で速度はかなり出ている。魔女のように地上20センチメートルを滑空する彼女の姿に、ぼくは見惚れた。

 ただ、ぐりんとUターンしてこちらへ向かってくるときの真剣な目がこわい。けど、嫌いではない。ただ、夢の中で両手放しのゆきこに遭遇したら漏らすかもしれない。

 止まる技術は未習得なのか、何かにつかまらないと止まれないらしい。

 セミのような勢いで電信柱にとまる。「車や人にぶつかると危ないから。肩もっていいからゆっくり行こう」というと、ゆきこは右肩にとまった。

 ぼくはマウンテンバイクにまたがり、前へ後ろへカクカク足を回転させるゆきこの、左手を右肩で支え、両足で地面を蹴る。ラチェットをすべるツメの乾いた音がカラカラとひびいた。

「あきくん。今日は楽しかった。ありがとう」

 「嘘つくな」とは言えない。ご飯はすごくおいしかった。でも、ゲームは面白くなかった。遊びではなく、もてなしだった。

 でも、ゆきこの「楽しかった」の意味は少し違う。目を見ればわかる。なので顔は見ない。

「こちらこそ。ごちそうさまでした」

 ゆきこの返事を待たず「じゃあまたラジオ体操で」といって、ぼくはペダルをまわす。

 家に戻ると、キヨから電話があったと母が伝えた。
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