スマホを手に寮に戻ると、そこには日常の風景が広がっていた。やっと戻ることができたと、ユウはゆっくりと深呼吸をした。玄関を上がってすぐある談話スペースに深く腰掛ける。どっと疲れが溢れ返る感覚があった。
……しかし、そうも言っていられない。人気のない夜の学校に現れた死神現象なる怪物に、【ココロのウタ】――脳裏をよぎる目まぐるしい情報の数々は、寝落ちを許してはくれなさそうだった。
リオンもうつむきがちに小さく首肯する。
校舎の中には誰もおらず、代わりにあの死神現象とやらが縦横無尽に闊歩していた。異様な光景は、落ち着いて考えられる今でもあまり信じたくはない。
貴方達を早く逃がそうとしたのは、あれが要因です。
ガス管の問題も専門の業者による検査も、偽りです。すべては死神現象の被害から生徒を遠ざけるための方便なんです。
教師の方々は私が直接認識を操作して帰ってもらっていますが
認識操作とは、音枝レンリを見てもバーチャルシンガーだと思わないことと同じものだろうか。
凛とした声が階上の廊下から響いたかと思えば、追って軽薄なハスキーボイスが続いた。
ボクは撫木睦羽(ナデキ・ムツハ)。
フェミニンなものが大好きな、清く正しい男子生徒で~っす!
どこが『清く正しい』んだか。
今週は何日出席したんだ?
凛とした声の主が、すらりとした足取りで階段を下りていく。
鳴護未散(メイゴ・ミチル)。
彼女も撫木さんと共に、少し前に【ココロのウタ】を手に入れた生徒です
澄んだ瞳はらんらんと興味に輝いており、曲者の雰囲気を醸し出していた。
ボクもあれが相手だとちょ~っと気が乗らないけど、
まあ巻き込まれちゃった子がいるんじゃあ仕方ないよね~
そうですね。話を始めましょう。
死神現象はあのとおり、超常の化け物です。
この世界の理で解きほぐせる事柄ではありません。
そのことを理解してください
分かる分かる。
あんなの『理解しろ』っていう方が土台無理っぽいよね~
リオンの苦悩にムツハが同情するのもよく分かる。宇宙人ですら信じる人・信じない人に分かれている世の中なのだ。後者に本物を見せたとして、はいそうですかとすんなり信じてくれるかといえば、難しいことのように思われた。
『理解してください』は『理解してください』だよ。
それ以上でも以下でもない。
お前らも実際に遭ったっていうんなら、あれがまともじゃないことぐらい、直感的に判別つくんじゃないのか?
ミチルの言い分は理解に足る。あれは幽霊の正体見たり枯れ尾花などと言えるようなものではなかった。実体があり、しかし不可解で、それこそバーチャルシンガーの音枝レンリがここにいる事実と同義の超常性を有していた。
まあいいさ。『信じられない』って言って現実逃避する輩より、よっぽどマシだ
それより、「そっちの」じゃない。君本侑(キミモト・ユウ)
謝罪はフランクだったが、言葉の響きは決して軽くはなかった。それなりに悪く思ってくれたらしい。
簡単に言っちゃえば、死神現象がまともじゃないバケモノで、普通じゃ歯が立たないから、【ココロのウタ】でどうするしかないってこと
あれを放っておけば、いつ教員や生徒が被害に遭うか分からない――本音を言えば、音枝レンリはあいつらを退治してほしいんだよ
強制ではありません。
私も一教師である以上、生徒達が危険に首を突っ込むような行いは看過できません。あくまで任意で、夜の学校に潜む危機を取り除いてほしいだけです。先んじて言ったように、強制ではありません。成績に響くようなこともありません。
ただ……
ほんの少し言い淀んだ時、音枝レンリは憂いを帯びた少女の顔をしていた。
ただ……今回は了承が取れたからと、君本さんには軽率に【ココロのウタ】を授けたと反省しています
消え入るような言葉尻は、夜の静けさを引き戻した。コチ、コチと、壁に掛けられた振り子時計がリズムよく時を刻む音だけがこだまする。誰しもが二の句を継げずにいた。
だからだろうか――バタバタというけたたましい足音が玄関方面から聞こえてきたことが、ハッキリと分かった。そのままただならぬ気配が寮へと飛び込んできた。
女子を俵抱きした男子が、命からがらといった雰囲気で転がり込む。開け放たれた観音開きの扉の向こうからは、先程と同じ死神現象が追いすがってきているのが目に見えた。
でもでも、流石に襲われてる人ガン無視は人道的にどうかと思うでしょ
意気揚々とミチルが立ち上がる。渋々といった面持ちのムツハよりも先に、ユウが隣に並ぶ。
ふうん。でも手があるのは純粋にありがたい。礼を言うよ
敵を見定めながら首肯で返し、ユウは神経を尖らせた。あの時と同じ、なんとかしようと死に物狂いになる気持ちを蘇らせて迎え撃つ。【ココロのウタ】が応えるように姿を現した。
お前……意外とやるな。
どうだ? 私と一緒に死神現象退治をしないか?
シニカルなミチルをよそに、女子の悲鳴が鼓膜を揺らした。俵抱きされながらも手を離さなかったそれの惨状を見て、堪らず感傷に駆られたらしかった。
き、期間限定のほうじ茶クリームフラッペがああああーっ‼
あ、あれコーヒーショップ『ブレイクタイム』の新作ドリンクじゃん。
ボクも明日飲~もう
打ちひしがれる声のとおり、ほうじ茶クリームフラッペなる期間限定商品はまんべんなくシェイクされ、薄茶色のとろりとした液体と化していた。
お前なぁ……こっちはバケモンから必死でお前を引っ張ってきたんだろうが!
ちったぁ労いの言葉ぐらい言え!
というか、そもそもお前が『夜だけど甘いもの欲しい~』とか言って抜け出すから、心配して付き添ったんじゃねぇか!
なによ! JKが流行に命懸けんのは当たり前でしょ!
あわあわしながら、リオンが止めに入る。
両者は一歩も譲らなかったが、人目があると気づいて矛を収めるに至ったようだった。
いやだから、なんでそんなのが現実にいたのかって話なんだが……
まさしく鶴の一声。
音枝レンリが発した言葉に、一同が釘付けになる。
遠からぬ未来、こうなることは想像できていました。
皆さんの共通項はお分かりですね?
寮生、だろ?
まさか六人いるうちの二人も脱走してるとは思わなかったけどな
名前を聞いてピンと来たよ。
そこの見ない学生が新顔の寮生だってさ
ミチルに紹介され、ユウはぺこりと二人へと頭を下げた。
会釈が返され、続けて二人が自己紹介をする。
――顔合わせが済んだところで、本題に入ります。
この寮内にいれば問題はありませんが、今後、皆さんは死神現象に狙われることでしょう。そのためにも、【ココロのウタ】に覚醒しておいてほしいと考えています
チハツがダイキを小突き、素っ気なく返されるのを尻目に、ユウは言いようのない焦燥感に駆られていた……その予感が正しかったと知るのに、そう時間はかからなかった。
あ、あの、夜に学校へ行かなければいいだけの話では、ないんですか……?
はい。夜間、外に出るだけで狙われます。
というより、死神現象は貴方達を主たる獲物として狙ってきます。
だからといって、他の生徒や教員が狙われないというわけではありませんが……
狙われる、って……引き寄せるなにかが、僕らにあるってことですか?
○君本侑(キミモト・ユウ)
■■は『■■』。■■■■■■■■■■■。高校生活を怠惰に謳歌していた時、不幸にも■■■■に遭遇。■■は■■■■の■■。その際、■■■■と■■■■に分離し、後者は■■■■■■■■■■■■■■と化した。ある意味すべての元凶。