この新瀬(しんせ)学園都市の一部は、なんでも昔は外国人居住区だったらしい。
都市開発によって埋め立てられた海の上にあり、港に居留していた外国人がそこに住んでいたのだ。そのため文化財指定こそなっていないものの、当時面影を偲ばせる建物が数多く残っており、ユウが新たに暮らすことになった学生寮もまた、例に漏れず瀟洒な洋館じみた外観をしていた。
意を決して観音開きの扉を開き、またも荘厳な内装に面食らいつつも、自室で荷解きに取り掛かった。幸いと言うべきか、自室はそれなりに近代的なリフォームが施されており、寝る時に落ち着かないなどということにはならなさそうだった。
なんかあったな、ヨーロッパの古い建物にこんなの……
ユウはやっと自身の忘れ物に気がついた――忘れたのはまた間の悪いことに、現代人にとって欠かすことのできないスマートフォンである。
どうやらトキオとチャットのアカウントを交換した際、机の中に放り込んで通学カバンに戻しそびれたらしかった。
ユウは特別スマホ中毒ということではなかったが、やはり手元にないと分かると、どうにも据わりが悪くなる。現代病だ。手持無沙汰のまま夜を明かす侘しさはごめん被りたかった。
備え付けの壁掛け時計を見上げる。時刻は午後八時過ぎ。
夕食と入浴を挟んだにしては、それほど遅くはない時間帯だ。消灯時間までしばらくある。
あと、これは繰り返しになりますが、生徒は十八時以降、校舎に残ることは禁止されています。
先日、耐震強度の確認をしたところ、ガス管の問題が発覚しました。
普段生活する分には問題ありませんが、専門の業者による検査が入るので、放課後に部活動が終わり次第、速やかに下校するようにしてください
専門の業者による検査とはいえ、生徒こそ残ってはいないものの、先生の一人や二人、この時間ならば残っているかもしれない。一言断りを入れて教室を漁らせてもらえば、すぐに見つかるだろう。
今時、スマホ取りに戻ったぐらいでどやされることもないと思うし
そうと決まれば話は早い。先生の心象を良くするためにも、もう一度制服に着替え、ユウは夜の学校へと向かった。
なにせ三分とかからない近さだ。たとえ教科書を忘れたとしても、休み時間のうちに寮へと取りに戻ることすら可能なのだから、助かることこのうえない。静けさに包まれている不気味さに面食らうよりも、ほっと胸を撫で下ろすのも無理はなかった。
……そのせいか、非日常の異様な空気感に気づくのも遅れてしまった。
静かだ。それにしても静かすぎる。窓から漏れる明かりのあたたかさはなく、シンと凍えるような静けさばかりが校舎に漂っていた。まだ蒸し暑いはずなのに、どこか薄ら寒い。一階にある職員室付近に至っても、その雰囲気は一切変わらなかった。どうやらおけららしい。
専門の業者による検査だとは言っていたが、教職員までも出払わないと出来ないたぐいのものなのだろうか? それとも本当に、今夜は誰もいないのか?
気味の悪さに絡め取られそうになる中――背後から、かすかに声がした。
跳ね上がるように振り返ってみれば、そこには制服姿の男子が立っていた。
よく見れば、きちんとした肉感を持ってオドオドと立っている。足もちゃんとあった。
君、今日から寮に来た生徒でしょ……?
こんな夜に出ていくのが見えたから、なにかあったのかと思って、追い駆けてきたんだ
入浴時間も気にせず来てくれた相手を幽霊呼ばわりとは、逆に前言を撤回して感謝を述べなければならないだろう。
僕は、栗根理音(クリネ・リオン)……転校生、だよね。隣のクラスの
うん。
それより見た感じ、先生達もいなさそうだし、寮に戻らない……?
次に飛び込んできた声は、リオンとは比べものにならないほど鋭く尖っていた。図らずも縮こまった肩のまま見てみれば、そこにいたのは――。
先生、すみません。
スマホを学校に忘れてしまったので、取りに入りたいんですが……
音枝レンリの言動には、不審な点がいくつも見られた。生徒の忘れ物を「そんなこと」と、バッサリ切り捨てたことではない。焦燥感に駆り立てられているかのような様子は、今まさになにかに追い駆けられているかと錯覚するほどで、しかし先程のリオンとは毛色がまるで違っていた。蒼ざめた顔には、玉のような汗が光って見える。
それこそ、命の危機が間近に迫っているかのような――――。
――ゆらり、ゆらりと、闇に燐光が舞っている。
それが空中に漂うボロ布のほつれから生じているのだと気づいたのは、そこから骨ばった手が伸びたのが目についたからだった。
絹を裂く悲鳴と共に、ユウは突き飛ばされた。なんなのか展開を把握する間もなく、異なる絶叫がこだまする。リオンだ。近くにいたユウは突き飛ばして距離を取れたが、呆けたまま立ち尽くしていたリオンへと魔手は狙いを定めた。
ボロ布をまとった骸骨が、一人、また一人とリオンへと集っている。まるで地獄絵図だ。現実のものとは思えない光景に、ユウは愕然とした。だというのに、突き飛ばされて尻餅をついた痛みは、これを現実だと知らせていた。
幽霊ではない……実体云々は分からなくとも、確実にリオンを害そうとしている。
当たり前だ。
至極当然な義侠心からユウは即答したが、音枝レンリが一答に込めた複雑な思いまでは読み取れていなかった。ただ逃げるべきだという正論の現実を理解しつつ、脳がそれを拒否した。その意志が口角から泡を飛ばす。
自分が異能力を使い、しかもそれが音枝レンリの姿をしていた。そんな非現実的な現状を目の当たりにしながら、ユウは二の句が継げず呆けていた。
はい。各々の心にある私の姿を雛形にして、あの怪物達を倒すための力を形作りました
詳細な説明を受けるが、しかしユウにはとんと分からない。幽霊だか怪物だかが現れたことだけでなく、【ココロのウタ】なる異能力まで使う羽目になるとは思いもしなかった。まだ悪夢の中を揺蕩っているような心地に、気絶しないのが不思議でならなかった。
――いや、気絶なんてしている場合ではない!
慌てて見れば、腰を抜かしながらも怪我らしいものは見当たらないリオンが、ぽかんと口を開けていた。
え、あれ、音枝レンリ? でも、音枝レンリは先生で……あれ?
小さくも確かに頷く。なんの仕組みなのかは不明だが、どうやらリオンも音枝レンリを正しくバーチャルシンガーだと認識したようだった。
『死神現象』を見て、更には【ココロのウタ】を認知したからですね
詳しい話は、寮に戻ってからしましょう。ここはまだ危険ですから
音枝レンリが垣間見せた少しの甘さに、ユウはほっと胸を撫で下ろした。
○君本侑(キミモト・ユウ)
■■は『■■』。■■■■■■■■■■■。高校生活を怠惰に謳歌していた時、不幸にも■■■■に遭遇。■■は■■■■の■■。その際、■■■■と■■■■に分離し、後者は■■■■■■■■■■■■■■と化した。ある意味すべての元凶。