第2話 ばかーばかー
文字数 4,210文字
三月の大学付近の学生街のある町の風は今の浩太には特に冷たかった。浩太の目に映る町の中の景色はどこもかしこも自分が住む世界とは別世界のように感じられた。俺だけだ。俺だけが不幸なんだ。浩太はそんな思いに頭の中と胸の中を真っ暗にしながら当てもなく何事もなく毎日過ぎ去って行く平穏で幸福な日常に溢れる町中を彷徨っていた。不意にぼつっと額に結構な勢いで何かが当たった。
「はいたっ?」
は? と痛いのいたを混ぜつつ言ってしまいながら浩太は額に手を当てた。浩太の額に当たったのは鳥の糞だった。
「うがががー」
浩太は怒りのあまりに意味不明な唸り声を上げながら上を見た。電線の上に糞をしたであろう烏が一羽と留まっていて浩太と目が合うと浩太の事を嘲笑うかのようにばかーばかーと鳴いた。
「ばかーってなんだよ。せめてかーと鳴け」
浩太はそう怒鳴ってから、何かないか? この糞烏に復讐してやる何か手段は? と考えつつ出掛けに母親が鞄の中に入れてくれていたポケットティッシュで手と額を拭きながら怨嗟のこもった目で烏とその周囲を見た。浩太の目に電線のすぐ後ろにあるひょろっとした細い感じの六階建ての雑居ビルの屋上の柵が映った。
「見てろよ糞烏」
浩太は呟いてからビルの屋上から糞を、いや。待った。やっぱりそれはちょっとできないから、えっと唾だ。唾でも吐きかけてやると考えると勢い込んで雑居ビルの入り口に向かった。立ち入り禁止になっているかも知れないけど多少の障害なら強引にでも通り抜けて行ってやると鼻息を荒くしながら進んで行ったが何事もないままに浩太は屋上に入るドアの前に到着した。屋上に入るドアにも施錠などはされてはいなかった。ドアを開け屋上に入ると喫煙所になっているのかプラスチック製の椅子が二つと灰皿スタンドが一つドアのすぐ横に置かれているのが浩太の目に入った。だから鍵とかは掛かってなかったのか、これはラッキーだぞと嬉しく思いながら狭い屋上の中を浩太は烏のいる方向に向かって進んで行った。屋上の端の柵の所まで行った浩太は自分の胸くらいの高さの柵から上半身を乗り出させるようにして下を覗き込んだ。烏は電線の上にまだ留まっていて浩太が上から見ている事に気が付いてはいなかった。浩太は上半身を引っ込めるとにやにやと時代劇に出て来る越後屋がするような悪そうな笑みを顔に浮かべながら口の中に唾を溜め始めた。唾が溜まったので行動を起こそうとしたが柵の外側に足場のように張り出した部分がありそれが邪魔をして柵の中からでは唾を吐き烏に当てるのは難しいという事に浩太は気が付いた。少し冷静になって考えれば自分がどれほど愚かな事をしようとしているのかを悟りすぐにでもやめたかも知れなかった。だが烏への復讐に夢中になっている今の浩太にはそんな心の余裕はなかった。浩太は目の前にある柵に手を掛けて乗り越えると柵の一部を片手で掴みながら張り出した部分の端に近付いた。息を思い切り吸い込み、これでも食らえとばかりに浩太は唾を吐き出そうとした。だが唾を吐き出す事はできなかった。制服の胸の裏ポケットに入っている携帯電話が突然鳴り、その音に驚いた浩太は思わず唾を飲み込んでしまっていたのだった。
「こんな時に誰だよもうっ」
浩太は憤りを覚えながら怒鳴りつつ柵に寄り掛かって体を安定させてから携帯電話をポケットから取り出して通話を始めた。
「浩太? 母さん。受験どうだった?」
聞き慣れた母親の声が浩太の耳に入って来た。
「いや、それが、えっと」
烏の糞の事も唾を飲み込んでしまって憤った事も自分がビルの屋上の柵の外にいる事もすっかり忘れながら言い母親の言葉にどう答えようか? 何をどう言えば良い? と浩太は深く深く思い悩み始めた。
「その感じだとひょっとして駄目だった?」
優しい気遣うような口調で母親が言った。
「ええっと、それは、その、ごめん。また落ちた」
浩太は言ってから思い切り頭を下げた。
「そう。しょうがないわね。今どこにいるの?」
母親の口調がさっきよりももっと優しく気遣うような物になった。母親の自分を思ってくれる気持ちが強く伝わって来て浩太は泣きたくなった。
「まだ大学の近所」
早く家に帰りたい。母さんに会いたい。浩太は強くそう思いながら言った。
「そう。それならちょうど良かったわ。晩御飯の事なんだけど、何か買って来るか外で食べて来てくれない? 急でごめんね浩太。母さんね。ちょっと今日は家に帰れなくなっちゃったのよ」
今日のような浩太に何かがあるような日は仕事の日であっても早めに帰って来て必ず夜は家にいて浩太と一緒に過ごしていてくれていた母親の思いも寄らない言葉に浩太は酷く驚いた。
「急でごめんねって、どうしたの? 何かあった?」
浩太は思わず大きな声を出していた。
「全然大した事じゃないのよ。仕事中にちょっと軽い眩暈起こしちゃって」
母親がなんでもない事のように言った。
「何それ?」
眩暈ってどういう事だ? 何があったんだ? と酷く心配しつつ思いながら浩太は聞いた。
「本当に大した事じゃないのよ。疲れがちょっと溜まってただけなんだって。それでも一応今日だけは病院に泊まる事になっちゃったの」
そう言った母親の声はなんでこうなっちゃったのかしら? と自分自身に問うているような声だった。病気じゃないよね? 疲れって何? 倒れたりとかしてどこかに体をぶつけて怪我とかしてない? などとたくさん言いたい事が浩太の頭の中には浮かんでいたが浩太の口からは本当に大丈夫なの? という言葉だけが無意識のうちにすっと出ていた。
「うん。全然平気よ。ごめんね。心配かけて」
そういった母親の声はとても自然な元気そう声だった。
「そんな事気にしなくて良いよ。それで、どこの病院?」
浩太はすぐにでも向かおうと思いながら聞いた。
「ええっとね。家の近くの駅の傍の総合病院」
母親が少し間を空けてから思い出したように言った。
「じゃあすぐ行くから」
浩太は自宅の最寄り駅の近くにある総合病院の位置を頭の中で確認しながら言った。
「良いわよ来なくって。今日は疲れたでしょ。家でゆっくりしてなさい」
少し怒っているような本当に来なくて良いという強い意志が伝わって来る口調と声色で母親が言った。
「でも」
浩太は食い下がるように言った。
「母さんは平気。ごめんね。こんなタイミングで。心配しちゃうわよね」
母親の言葉尻には溜息が交じっていた。
「俺の方こそごめん。また受験落ちちゃって」
そう言うと浩太の視界は涙でぼやけて来た。泣いたらいけない。泣いたら母さんをきっと心配させてしまう。浩太はそう思うと必死に泣かないようにと努力した。
「しょうがないでしょ。そんな時もあるわ。また来年頑張れば良いのよ」
母親が優しく気遣うように元気付けてくれるように言った。
「うん。そうなんだけど」
もう大学は諦めた方が良いのかも知れない。言葉を返してから、そんな思いが浩太の脳裏を過った。
「あら。ごめんね浩太。先生が呼んでる。何かあったら電話ちょうだい。すぐには出られないと思うけど後でちゃんと掛け直すから」
「うん。本当に大丈夫なんだよね?」
母親が慌てながら言ったので浩太もつられて慌てながら念を押すように言った。
「大丈夫よ。気を付けて家に帰るのよ」
心配している浩太の気持ちをしっかりと理解しているのが伝わって来る母親のとても優しい温かい声が返って来た。
「うん。分かった」
そう返事をして通話を終えたが携帯電話を耳に当てたまま浩太はその場から動けなくなっていた。
「母さんごめん。母さんが眩暈を起こしたのは俺の所為だ。父さんが死んでから母さん一人で働いてて家計が大変なのに二度も浪人して。それに、また試験に落ちて」
小さな声で呟くと、堰を切ったように浩太の目から涙が溢れ出て来た。涙で濡れている頬と目を両手で擦って拭いたが後から後から溢れ出て来る涙はあっという間にまた浩太の目や頬をびしょびしょに濡らして行ってしまう。嗚咽が激しくなり立っていられなくなって来た浩太はその場に座ろうと思い足元を確認しようと顔を動かした。涙でぼやけた視界に入って来た景色を見て浩太は自分がビルの屋上の柵の外にいる事を思い出した。
「このまま死んで消えてしまったらこんな気持ちもなくなって楽になるのかな」
浩太はふっとそんな言葉を口から漏らした。母親に苦労させてしまっているという思いと自分の愚かさに対する思いが屋上の柵の外という場所に今いるという事実と結合し浩太の思考を暗澹たる方向へと誘っていた。浩太は柵から離れるとゆっくりと張り出した部分の端に向かって歩き出した。
「この高さならきっと落ちれば死ねる」
端まで行き下を覗くと背筋がぞくぞくとして来て浩太の頭の中は恐怖という感情一色に染まった。
「駄目だ。怖い。死ねないよ。けど、このまま生きてて良いのか? また母さんに迷惑掛けて。来年だって受かるか分からないのに」
やれ。足を踏み出せ。ほんのちょっとだ。そうすれば楽になれる。このどうしようもない現状から逃げ出せるんだ。浩太は口を閉じぐっと奥歯を噛み締めるとそう思いながら何もない空間に向かって足を踏み出そうとした。だが、すぐに全身ががくがくと震え出しどうしても足を動かす事ができなくなった。
「生きててもしょうがないのに。なんでできないんだよ」
口を開くとどっと涙がまた浩太の目から溢れ出て来た。浩太はその涙を拭こうと両手を動かしたが涙で濡れていた手の中から携帯電話が滑って落ちてしまった。咄嗟に携帯電話を掴もうと浩太は体を動かし手を伸ばした。携帯電話を掴む事は出きたが体のバランスが崩れ浩太の体はビルの屋上の張り出している部分の外に飛び出た。重力が無慈悲に浩太の体をがっちりと掴んで下に向かって引いた。なんて間抜けなんだろう。最期までこんななんて。不思議と冷静にふっと浩太はそんな事を考えた。体全体に何かにぶつかった強い衝撃が走ったと思うと浩太の意識はそこで途切れた。
「はいたっ?」
は? と痛いのいたを混ぜつつ言ってしまいながら浩太は額に手を当てた。浩太の額に当たったのは鳥の糞だった。
「うがががー」
浩太は怒りのあまりに意味不明な唸り声を上げながら上を見た。電線の上に糞をしたであろう烏が一羽と留まっていて浩太と目が合うと浩太の事を嘲笑うかのようにばかーばかーと鳴いた。
「ばかーってなんだよ。せめてかーと鳴け」
浩太はそう怒鳴ってから、何かないか? この糞烏に復讐してやる何か手段は? と考えつつ出掛けに母親が鞄の中に入れてくれていたポケットティッシュで手と額を拭きながら怨嗟のこもった目で烏とその周囲を見た。浩太の目に電線のすぐ後ろにあるひょろっとした細い感じの六階建ての雑居ビルの屋上の柵が映った。
「見てろよ糞烏」
浩太は呟いてからビルの屋上から糞を、いや。待った。やっぱりそれはちょっとできないから、えっと唾だ。唾でも吐きかけてやると考えると勢い込んで雑居ビルの入り口に向かった。立ち入り禁止になっているかも知れないけど多少の障害なら強引にでも通り抜けて行ってやると鼻息を荒くしながら進んで行ったが何事もないままに浩太は屋上に入るドアの前に到着した。屋上に入るドアにも施錠などはされてはいなかった。ドアを開け屋上に入ると喫煙所になっているのかプラスチック製の椅子が二つと灰皿スタンドが一つドアのすぐ横に置かれているのが浩太の目に入った。だから鍵とかは掛かってなかったのか、これはラッキーだぞと嬉しく思いながら狭い屋上の中を浩太は烏のいる方向に向かって進んで行った。屋上の端の柵の所まで行った浩太は自分の胸くらいの高さの柵から上半身を乗り出させるようにして下を覗き込んだ。烏は電線の上にまだ留まっていて浩太が上から見ている事に気が付いてはいなかった。浩太は上半身を引っ込めるとにやにやと時代劇に出て来る越後屋がするような悪そうな笑みを顔に浮かべながら口の中に唾を溜め始めた。唾が溜まったので行動を起こそうとしたが柵の外側に足場のように張り出した部分がありそれが邪魔をして柵の中からでは唾を吐き烏に当てるのは難しいという事に浩太は気が付いた。少し冷静になって考えれば自分がどれほど愚かな事をしようとしているのかを悟りすぐにでもやめたかも知れなかった。だが烏への復讐に夢中になっている今の浩太にはそんな心の余裕はなかった。浩太は目の前にある柵に手を掛けて乗り越えると柵の一部を片手で掴みながら張り出した部分の端に近付いた。息を思い切り吸い込み、これでも食らえとばかりに浩太は唾を吐き出そうとした。だが唾を吐き出す事はできなかった。制服の胸の裏ポケットに入っている携帯電話が突然鳴り、その音に驚いた浩太は思わず唾を飲み込んでしまっていたのだった。
「こんな時に誰だよもうっ」
浩太は憤りを覚えながら怒鳴りつつ柵に寄り掛かって体を安定させてから携帯電話をポケットから取り出して通話を始めた。
「浩太? 母さん。受験どうだった?」
聞き慣れた母親の声が浩太の耳に入って来た。
「いや、それが、えっと」
烏の糞の事も唾を飲み込んでしまって憤った事も自分がビルの屋上の柵の外にいる事もすっかり忘れながら言い母親の言葉にどう答えようか? 何をどう言えば良い? と浩太は深く深く思い悩み始めた。
「その感じだとひょっとして駄目だった?」
優しい気遣うような口調で母親が言った。
「ええっと、それは、その、ごめん。また落ちた」
浩太は言ってから思い切り頭を下げた。
「そう。しょうがないわね。今どこにいるの?」
母親の口調がさっきよりももっと優しく気遣うような物になった。母親の自分を思ってくれる気持ちが強く伝わって来て浩太は泣きたくなった。
「まだ大学の近所」
早く家に帰りたい。母さんに会いたい。浩太は強くそう思いながら言った。
「そう。それならちょうど良かったわ。晩御飯の事なんだけど、何か買って来るか外で食べて来てくれない? 急でごめんね浩太。母さんね。ちょっと今日は家に帰れなくなっちゃったのよ」
今日のような浩太に何かがあるような日は仕事の日であっても早めに帰って来て必ず夜は家にいて浩太と一緒に過ごしていてくれていた母親の思いも寄らない言葉に浩太は酷く驚いた。
「急でごめんねって、どうしたの? 何かあった?」
浩太は思わず大きな声を出していた。
「全然大した事じゃないのよ。仕事中にちょっと軽い眩暈起こしちゃって」
母親がなんでもない事のように言った。
「何それ?」
眩暈ってどういう事だ? 何があったんだ? と酷く心配しつつ思いながら浩太は聞いた。
「本当に大した事じゃないのよ。疲れがちょっと溜まってただけなんだって。それでも一応今日だけは病院に泊まる事になっちゃったの」
そう言った母親の声はなんでこうなっちゃったのかしら? と自分自身に問うているような声だった。病気じゃないよね? 疲れって何? 倒れたりとかしてどこかに体をぶつけて怪我とかしてない? などとたくさん言いたい事が浩太の頭の中には浮かんでいたが浩太の口からは本当に大丈夫なの? という言葉だけが無意識のうちにすっと出ていた。
「うん。全然平気よ。ごめんね。心配かけて」
そういった母親の声はとても自然な元気そう声だった。
「そんな事気にしなくて良いよ。それで、どこの病院?」
浩太はすぐにでも向かおうと思いながら聞いた。
「ええっとね。家の近くの駅の傍の総合病院」
母親が少し間を空けてから思い出したように言った。
「じゃあすぐ行くから」
浩太は自宅の最寄り駅の近くにある総合病院の位置を頭の中で確認しながら言った。
「良いわよ来なくって。今日は疲れたでしょ。家でゆっくりしてなさい」
少し怒っているような本当に来なくて良いという強い意志が伝わって来る口調と声色で母親が言った。
「でも」
浩太は食い下がるように言った。
「母さんは平気。ごめんね。こんなタイミングで。心配しちゃうわよね」
母親の言葉尻には溜息が交じっていた。
「俺の方こそごめん。また受験落ちちゃって」
そう言うと浩太の視界は涙でぼやけて来た。泣いたらいけない。泣いたら母さんをきっと心配させてしまう。浩太はそう思うと必死に泣かないようにと努力した。
「しょうがないでしょ。そんな時もあるわ。また来年頑張れば良いのよ」
母親が優しく気遣うように元気付けてくれるように言った。
「うん。そうなんだけど」
もう大学は諦めた方が良いのかも知れない。言葉を返してから、そんな思いが浩太の脳裏を過った。
「あら。ごめんね浩太。先生が呼んでる。何かあったら電話ちょうだい。すぐには出られないと思うけど後でちゃんと掛け直すから」
「うん。本当に大丈夫なんだよね?」
母親が慌てながら言ったので浩太もつられて慌てながら念を押すように言った。
「大丈夫よ。気を付けて家に帰るのよ」
心配している浩太の気持ちをしっかりと理解しているのが伝わって来る母親のとても優しい温かい声が返って来た。
「うん。分かった」
そう返事をして通話を終えたが携帯電話を耳に当てたまま浩太はその場から動けなくなっていた。
「母さんごめん。母さんが眩暈を起こしたのは俺の所為だ。父さんが死んでから母さん一人で働いてて家計が大変なのに二度も浪人して。それに、また試験に落ちて」
小さな声で呟くと、堰を切ったように浩太の目から涙が溢れ出て来た。涙で濡れている頬と目を両手で擦って拭いたが後から後から溢れ出て来る涙はあっという間にまた浩太の目や頬をびしょびしょに濡らして行ってしまう。嗚咽が激しくなり立っていられなくなって来た浩太はその場に座ろうと思い足元を確認しようと顔を動かした。涙でぼやけた視界に入って来た景色を見て浩太は自分がビルの屋上の柵の外にいる事を思い出した。
「このまま死んで消えてしまったらこんな気持ちもなくなって楽になるのかな」
浩太はふっとそんな言葉を口から漏らした。母親に苦労させてしまっているという思いと自分の愚かさに対する思いが屋上の柵の外という場所に今いるという事実と結合し浩太の思考を暗澹たる方向へと誘っていた。浩太は柵から離れるとゆっくりと張り出した部分の端に向かって歩き出した。
「この高さならきっと落ちれば死ねる」
端まで行き下を覗くと背筋がぞくぞくとして来て浩太の頭の中は恐怖という感情一色に染まった。
「駄目だ。怖い。死ねないよ。けど、このまま生きてて良いのか? また母さんに迷惑掛けて。来年だって受かるか分からないのに」
やれ。足を踏み出せ。ほんのちょっとだ。そうすれば楽になれる。このどうしようもない現状から逃げ出せるんだ。浩太は口を閉じぐっと奥歯を噛み締めるとそう思いながら何もない空間に向かって足を踏み出そうとした。だが、すぐに全身ががくがくと震え出しどうしても足を動かす事ができなくなった。
「生きててもしょうがないのに。なんでできないんだよ」
口を開くとどっと涙がまた浩太の目から溢れ出て来た。浩太はその涙を拭こうと両手を動かしたが涙で濡れていた手の中から携帯電話が滑って落ちてしまった。咄嗟に携帯電話を掴もうと浩太は体を動かし手を伸ばした。携帯電話を掴む事は出きたが体のバランスが崩れ浩太の体はビルの屋上の張り出している部分の外に飛び出た。重力が無慈悲に浩太の体をがっちりと掴んで下に向かって引いた。なんて間抜けなんだろう。最期までこんななんて。不思議と冷静にふっと浩太はそんな事を考えた。体全体に何かにぶつかった強い衝撃が走ったと思うと浩太の意識はそこで途切れた。