第1話

文字数 1,866文字

 妻の死体をリビングに運んできて、ソファーに横たえた。妻の頭部はびちゃびちゃに濡れていて、ショートカットの髪が頭にぴったりと張り付いている。俺はバスタブの残り湯に顔を押し付けて妻を殺したのであった。抵抗する妻の後頭部を何度も水に押し込んでいるうち、やがて妻は動かなくなった。あかんべえで口から出した舌のように、妻の下半身がだらりと浴槽から出ていた。
 ついかっとなって、というと嘘になる。冷静ではなかったかもしれないが、あくまで殺意を自覚したうえで殺したのである。
 冬の日だったが、昼過ぎの一軒家のリビングにはオレンジ色の陽光が差し込み、暖かな空気で満ちていた。向かいの公園からの子供たちの声が窓越しに聞こえる。俺は仕事を休んでいるが、今は平日で下校時刻の頃だった。荒くなっていた俺の呼吸も落ち着きつつある。あれから四、五分は経っていることだろう。
 ソファーの妻の傍らに立ち尽くしていると、ジーンズのポケットが震えた。携帯電話を取り出してみると、上司からの着信だった。受話口からすまなさそうな声が聞こえる。
「休みのところ申し訳ない。今日先方に渡す資料なんだが……」
「町田に言っておいたんですがね。共有サーバに入ってすぐのところに出しておきました」
 ふとソファーの上に目を落とした。やはり妻は死んでいた。
「あ、これか! 町田のやつ、お前に聞いたはずなのに忘れてたらしくてな。助かったよ」
 目を閉じた妻の顔は眠っているようだった。
「いえ、では失礼します」俺は電話を切った。
 妻の左手の薬指には指輪がはめられている。十二年前に大学を卒業してすぐに一緒に買ったものだ。

 妻とは大学時代の映研で知り合った。映画の趣味が似ていることから意気投合してそのまま交際に発展、という世の夫婦の三組に二組が該当しそうなありきたりな馴れ初めである。しかしその後なぜ結婚に至ったのか、最近はよく思い出せなくなってしまった。燃え上がった瞬間は短かったし、子供ができたわけでもない。ただ、なんとなく流れで結婚してしまった。そんな気がする。
 ただ、意見の食い違いは多かった。妻は何にでも慎重な質だった。優秀だったはずなのに、冒険せずに俺がいるような少し偏差値の低い大学を選んでいたし、就職にしても堅実な地元の信用金庫に新卒で入って今日まで続けてきている。対して、俺はとりあえずやってみてから考えるタイプだ。失敗すればやり直せばいい。俺はイベント制作会社に就職し、実績を積んだ後で独立したがうまくいかず、現在の会社に雇ってもらった。やってみたいことがあればすぐにチャレンジをしてみたいと思う質だ。
 そんな俺がやることに反対はしなかったが、妻は繰り返しこう言った。
「どんなことでもやり直しがきくわけじゃないのよ」
 この人生に対する根本的な考え方の違いが、いつしか結婚生活に綻びを生んだように思う。ここ数年夫婦関係は冷めきっていた。なぜ俺がこの女と一緒に暮らしているのか思い出せない。そしてなぜ今日殺すことになったのかも思い出せない。口論があったのは間違いないが、内容が思い出せない。それほどいつも言われていることを、今日も言われたのだろう。だが、明確な殺意とともに、意図的に殺害を実行したのは確かだ。
 俺はソファーの前で膝をつき、妻の顔を近くであらためた。顔色は死体のそれだが、出会った頃のまま、少し面長の美しい顔だった。
 殺してはまずかった。それだけはわかる。どの角度から考えてもわかる。
 その意味では確かに俺は冷静ではなかった。妻のこれからの長い人生を奪ってしまったことに対してではない。俺の人生に対してである。殺しは法で裁かれる悪事だ。捕まると失うものが大きい。俺がこれまで築き上げてきた実績や評判はすべて失われる。人生が罪で汚染される。
 その時、差し込む陽光に混じって、一つの考えが頭に突き刺さった。
 この殺しを、なかったことにできる。

 俺は立ち上がり、携帯で電話をかけた。
「お前か。どうした?」受話口から眠たげな声が聞こえてきた。
「逸見か。助けてほしい。妻が死んだ。生き返らせてほしい」
「……どういうことだ?」怪訝そうだが、声に緊張感が出た。
「詳しいことは後で説明する。できるのか?」
 俺が冗談を言っているのではないとわかった様子だ。「いつ、どうやって死んだんだ?」
「五分と経っていない。死因は溺死だ」
「……八時間以内に俺の家まで死体を運んでこられるか?」
「おそらく問題ない。すぐに出発する」
「早ければ早い方がいい。話は後で聞く」
「助かる」
 俺は電話を切った。
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