第2話

文字数 2,008文字

 逸見は高校時代のクラスメイトだった。
 絵に描いたような美少年で目立っていたが、絶望的な根暗で、誰が話しかけても無視を決め込んでいた。俺は体育の柔道の授業で組んだことがきっかけで、大外刈りの練習の最中に話しかけたのだが、その後、なぜだかわからないが俺に対しては親しく話してくれるようになった。彼にとって俺は、何か通じ合うものがあったのかもしれない。
 逸見は高校生離れした教養を持つ男だった。いつも哲学、歴史、そして科学の本を読んでいて、よく俺にその話をしてきた。特に「死とは何か」とか「生死の境界」といったテーマについては思うところが大きかったようだった。俺には大概の話はよくわからなかったが、「生と死は思っているほどの差はない。細胞内では生と死はいつも存在しており、どちらが積極的かの違いだ」というようなことをよく言っていた。
 高校卒業後、逸見は医学部に進学した。医師となった後は研究者として若くして大成したらしい。逸見の専門は蘇生科学だった。一般に蘇生科学というと、たとえばCPR(心肺蘇生法)など、呼吸や心臓が停止した瀕死の人間の蘇生を研究するものだ。しかし、彼が執心していたのは完全な死体から生命を取り戻すものだった。
 いわゆる「命の復活」である。
 その研究は人間の生死を左右する禁断の研究だと判断され、注目されながらも周囲からの批判は多かった。やがて逸見は大学を辞めてしまい、表舞台から姿を消して山奥に居を構え、たった一人で秘密裏に研究を始めたのだった。一度だけ招待されたことがあるのだが、そこは伯爵が住んでいるような庭付きの大きな洋館だった。こんなところで研究をしていると、マッドサイエンティストのようだな、と俺が弄うと逸見は困った顔で笑っていた。
 一年ほど前、突然興奮気味の逸見から電話が来た。
 なんと、一定の条件下であれば死を覆せる装置を作ったのだという。すでに実験体の犬の復活に成功したらしい。
 通常、心肺が停まると数分で人間は死ぬ。酸素の欠乏により細胞の活動に必要なアデノシン三リン酸(ATP)が作られなくなり、細胞が死滅していくからだ。逸見が作った装置では、死後数時間以内であれば、肉体に電流を流すことで細胞を呼び覚ます特殊な物質をATPとともに全身の細胞に行き渡らせ、死んだ細胞を次々に蘇らせることができるのだという。同時に電流によって脳神経も活性化し、患者は生前の記憶と共に目を覚ます。
 つまり、世界で初めて命を蘇らせることが可能になったというのだ。
 逸見はこの装置を、同じ蘇生を目的としていて形状が似ているAED(Automated External Defibrillator)を文字って、<AER(Automated External Reviver)>と名付けた。
 この技術が知られると世界は大混乱に陥る。また、必ずしも合法的な方法で研究を進めたわけではないのだろう。逸見は絶対に口外しないでくれ、と言った。ただ、目下の悩みは、公表しないがために人間の死体が手に入らず、人体実験ができないことなのだという。
 信じがたい話だが、逸見は俺に嘘は言わない。おそらく装置の存在は本当なのだろう。ただ、この倫理を超えた禁断の研究に取り憑かれた友人はどこか不気味に思えてしまい、それ以来俺は逸見と距離をとっていた。
 しかし今日、俺は逸見の研究に助けを求めている。逸見としても人間の死体で実験できる絶好の機会がやってきたのである。

 大きさがちょうどよかったので、昔よく使っていた一人用のテントを入れる大きな袋に死体を入れた。
 ファスナーを閉じる前に妻の顔をもう一度見た。先程と変わらず、青白い顔で目を閉じている。もしこの後生き返るのなら、今は眠っているのと変わらないと思った。夢でも見ているようだった。妻の耳元で「おやすみ」と小さな声で囁き、ファスナーを閉じた。
 死体を入れた袋を抱え込むように担いで、ガレージに向かう。死んだ人間は重かった。S U Vのトランクを開け、死体を投げ入れた。
 ガレージを開けると、冬の日差しが差し込んできた。そして運転席に座ると、座席が前にスライドされていることに気づいた。午前中に妻が乗っていたのだろう。妻が死んだことが遠いことのように思えた。座席を後ろにスライドさせて、日よけを下ろしてからエンジンをかけた。
 逸見の自宅は県を三つまたいだ先のとある山中にある。ナビに住所を入力すると、七時間ほどかかる計算になっていた。到着の頃には夜になっているはずだ。
 逸見は八時間以内に運んでくるようにと言っていた。<AER>の稼働がその時間を守ることにどれだけ意味があるのか詳しくはわからないが、あまり余裕はない。アクセルを踏んでガレージから出ると、いつもの閑寂な住宅街の景色が流れていく。どうも落ち着かないのは、死体を運んでいるからである。車体がいつもよりも重い気がした。
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