第9話

文字数 1,891文字

 自分は失敗したのだと海里は理解した。海里はまだ幼い。いくら頭がよくても身体がそれについていかない。今はまだ、母親の手を借りなくては生きていけない。
 だから、海里ははじめて猫をかぶった。これ以上母親を脅かさないように。
 効果はてきめんだった。人間というのは、信じたくないものは見なかったことにしてしまえる能力があるらしい。母親は、海里のあの失態をなかったこととして記憶を封印した。うっすらと違和感はあるのか、海里に対する態度はぎこちないが、それでじゅうぶんだった。
 そして、海里ははじめて野々宮と対面した。
 野々宮はすぐに海里の才能を見抜いた。知能指数を測るためのテストや身体的な検査を受けさせられたが、テストに関してはわざと解答に手を加えた。結果は散々だったはずだが、野々宮は満足げに笑みを浮かべて海里を見ていた。
 あの、眼で。
 この男は危険だと思った。海里がもっとも警戒すべき相手は母親でも周囲のだれでもなく、この男なのだと直感した。
「おまえは、おもしろいね」
 そう、野々宮がささやいた。
 ゲームの始まりだった。
 それ以来、野々宮はこうして、ふいをついては海里にゲームを仕掛けてくる。ふたりで食事をしながらたわいのない近況を話し、そのあいまにさりげなさを装って核心に切り込んでくる。野々宮の挑発を、海里はただ受け流すだけだ。完全に防御に徹する。尻尾を掴まれたら終わりだ。野々宮は舌なめずりしながら喰らいついてくるだろう。
 とても正気とは思えないが、野々宮は海里を後継にと望んでいるらしい。ありえない話だ。海里からすればいい迷惑なだけでまっぴら御免だし、だいたい野々宮の周囲がそんなことを認めるはずがない。
 頭が切れるくせに妙に子どもっぽい真似を好むこの男が、海里は苦手だった。だが、野々宮が飽きるまではこの茶番につきあわざるを得ない。偏執狂じみたこの男が、お気に入りの玩具を簡単に手放すはずがない。迂闊な真似をすれば孝太に害が及ぶ。
 野々宮は海里の身辺をすべて把握している。孝太を押さえれば海里が動くこともわかっている。それをしないのは、つまり、この馬鹿げたゲームを終わらせたくないからだろう。
 まったく、煩わしい。
 ほんとうに、この世のなかは煩わしいことばかりだ。生きているだけでしがらみにとらわれて自由を拘束される。
すべてを振りほどいて空を飛ぶためには、気が遠くなるような雑事をこなさなくてはならない。
 憧れたこともある。もっと広く、もっと高い場所を見てみたいと思ったこともある。
 だけど、今はもういい。
 孝太に出会えたから。
 どんなにきれいな数字よりも、どんなに美しい景色よりも、孝太を見ているほうがいい。
 見て、触れて、ひとつになれる。
 この喜びに勝るものはない。
 孝太がいちばんきれいで、なにより愛おしい。
 晴れて孝太と恋人同士になってからというもの、暴力的な衝動はぴたりと鳴りをひそめている。孝太に想いを告げるまでは、海里のなかに棲む獣がふいに暴れ出しては幾度も海里を苦しめた。幼いあの夜のように、孝太に抱きしめてもらえたら鎮まるのかもしれない、と思ったが、孝太のことを考えるとますます衝動が突きあげてきて、気がつくと家のなかで暴れていた。止めに入ったらしい陸人を殴り倒したことも少なくない。
 でも、今はとても穏やかだ。
 やはり、孝太はとくべつだった。
 海里の運命のひと。
 帰ったら、一緒に風呂に入ろう。孝太は風呂が好きだ。夏でも湯に浸かって汗を流すのが気持ちいいらしい。海里と一緒だと、はじめのうちは身体を強張らせてうつむいているけれど、温まってくるとくったりと背中をあずけてくる。それがかわいらしい。身体を洗って、それからベッドに戻っていっぱい抱いてあげよう。孝太は恥ずかしがりやだから泣いていやがるふりをするけど、途中から気持ちよくてたまらないというふうに乱れて海里にしがみついてくる。声が枯れるまで抱きあって、そのまま一緒に寝よう。
 孝太は夏が嫌いだから、今は笑わないだけだ。夏が終わって涼しくなれば、また以前のように笑ってくれる。泣き顔もかわいいけれど、はにかむように笑う笑顔もたまらなく愛おしい。
 もう少しの辛抱だ。
 夏が終われば。

 まったく表情を変えずに胸のうちで孝太のことを想う海里を、他人が見ればうっとりと見惚れるような笑みを浮かべて野々宮が眺めている。
 獲物をいたぶるような残虐なあの眼差しで。
 海里は気付かない。
 自分が、父親と同じ眼をして恋人を見つめていることを。


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