第7話
文字数 4,236文字
身体のなかの獣は、喉の奥で威嚇するような唸り声をあげながらも、戸惑いをあらわに視線をさまよわせる。まさか、獲物のほうから接触してくるとは思ってもいなかったのだろう。か細い小さな手を食いちぎることはたやすいが、おっかなびっくり触れてくる手は、思いがけず気持ちがよかった。
孝太のてのひらを感じるたび、海里を苦しめた得体の知れない衝動が、熱が、治まっていく。
「あのね、ぼくがいたいときに、こうやって、カイくんが『だいじょうぶだよ』って、よしよししてくれると、いたいの、なくなるの」
まだ半分眠っているような舌足らずな調子で孝太がむにゃむにゃと説明する。いじらしい言葉がたまらない。寝汗でうっすらと汗ばんだ孝太の首筋に額を押しあてたまま、海里はしがみつくように強くその身体を抱きしめる。
欲しい。孝太が欲しい。
どうすれば、孝太のすべてを手に入れることができるのか。
背中をさする孝太の手をすっかり気に入っておとなしくなった獣が、長くしなやかな尻尾でびたびたと床を叩きながらぎらりと眼を光らせた。
*****
そうして、海里と孝太は小学生になった。
そのころには、孝太は髪の毛もきれいに手入れされて身ぎれいな格好をするようになっていた。
あの事件のあと、海里は孝太の母親とふたりきりで話をした。最初に会ったときに海里が感じたとおり、彼女は子どもみたいな性格をしていた。中身はそれでも、れっきとしたひとの親なのだから、たちが悪い。
孝太の母親――長谷川夏夜は、一度にひとつのことしか考えられない、そういう思考回路の持ち主だった。単純にいうと、自分のことをしているときには、孝太の存在をすっかり忘れている。
夏夜は夕方から深夜にかけて働いているので夜は不在だったし、朝は寝ている。仕事のあいだ、また寝ているときの彼女はどうやらほんとうに、孝太の存在自体を忘れているようだった。
だから、孝太は自分で自分の面倒を見るしかなかった。冷蔵庫のなかや戸棚を漁って食べるものを探し、身体が痒くなってきたら水で頭や身体を洗い、乾いたまま放置された洗濯物の山から服を引っ張りだして着替える。
よく今まで無事に生きてこられたものだ、と海里は思う。
そんな状態だったから、あのときまで夏夜は孝太の身体の痣に気付かなかったのだ。
あの男とはあれからすぐに別れたといっていた。
傍から見れば、夏夜の態度は孝太を邪険にしているとしか思えないが、それでも、彼女は彼女なりに孝太を気にしているらしい。男を連れ込み、年端もいかない子どものまえで痴態を繰り広げながらも、なにかの弾みで孝太の存在を思い出すと、男よりも孝太を優先させた。孝太のそばで煙草を吸うことは認めなかったし、暴力を振るうなどもってのほか。
どこかずれている気がするが、それが彼女なりの愛情表現、なのだろう。
だが、いたいけな身体に刻まれた痛々しい傷痕をまえに、いっとき反省したようだが、懲りずにまた違う男を引き込んでいるのを海里は知っている。
彼女を責めてもしかたない。わざとやっているのではないのだし、もちろん当人に悪気はない。悪意がなければなにをしても許されるわけではないが、夏夜の場合は、しかたないとしかいいようがない。
海里と話しているあいだ「あたしはバカだからさ」と彼女は口癖のように繰り返したが、夏夜はべつに馬鹿ではない、と海里は思う。彼女は自分のことをよくわかっていたし、自らの非を素直に認めた。自分を正当化するためのつまらない嘘やいつわりを口にしない。これまでの行為自体は決して誉められたことではないが、少なくとも、そういう人間を馬鹿とはいわない。
夏夜の場合、性格というより疾患なのだろう。
周りが見えない。意識できない。
そういう病気、なのだ。
どんなに部屋じゅうが汚れていても、片付けるという発想自体を思いつけない。それ以前に、おそらく夏夜には部屋の惨状が見えていない。
見えないものを見ろといっても無理な話だ。子どもの姿が見えていないのに、その面倒を見ろというのも無茶だろう。
だが、親としては完全に失格だ。
本来ならば、彼女の手許に孝太を置いておくべきではない。然るべき機関に連絡をして、孝太を保護させるのがいちばん望ましいのだろう。
ほんとうなら、孝太が暴力を振るわれているとわかったあの時点でそうすべきだった。
それをしなかったのは海里のエゴだ。
そんなことになったら孝太と離ればなれになってしまう。そうならないために、海里は孝太を救うために手を打とうとはしなかった。
だが結果として、海里は孝太を暴力から救い出し、孝太と、そして夏夜からの絶対的な信頼を得た。
はじめのうち、夏夜は海里をもの珍しそうな目で見ていたが、それだけだった。ちょっと頭のいい子、程度に思ったらしく、海里の母親やほかのおとなたちのように、腫れものに触るような扱いや薄気味悪い異端者を見る眼差しを向けることはなかった。
「あんた賢いのねぇ」と無邪気に感心する彼女に、海里は罠ともいえないような単純な罠を仕掛けた。
「おばさん、今のままだと、こうちゃんと引き離されるよ」
考えたこともなかったのだろう。夏夜はぽかんとして、それからあわてだした。なんでなんで、と小さな子どもみたいに噛みついてくる彼女に、ふつう、孝太の置かれた環境で子どもを育てることは容認されないのだということを淡々と説明する。夏夜には理解できないようだった。
自分が生んだ子どもなのに、なんで他人に取りあげられなければいけないのか、と。
子どもは親の所有物ではない。それを説明することもできたが、海里はあえてそれをしなかった。代わりにこう提案した。
「こうちゃんと離ればなれになりたくないけど、おばさはこうちゃんの面倒を見られないでしょう? だから、うちでこうちゃんを預かるよ。今までみたいに、一緒にご飯を食べてお風呂に入って、一緒に寝るの。近所だから、いつでも会えるし安心でしょう?」
海里が磨きあげたおかげでこぎれいになって、栄養をとって色艶のよくなった孝太を見ている夏夜は、海里の言葉をたやすくはねつけることができない。彼女なりに、孝太に対する罪悪感を抱いているのだろう。
海里の母親にはすでに了承をとっている。彼女が海里の意思に逆らうことはない。
「こうちゃんも、うちを気に入ってるみたいだし」
駄目押しとばかりにつけ加えると、夏夜は諦めたように肩の力を抜いてため息をつく。
海里は子どもらしくにっこりと笑うと小首を傾げてみせた。
「ねえ、こうちゃんをちょうだい?」
*****
もともとかわいかった孝太だが、身ぎれいにするとますます人目をひくようになった。
これまでにも何度か変質者に狙われることがあったが、その比ではない。寄ってくる害虫を駆除するにも、さすがに、子どもというハンデを感じるようになり、海里は身体を鍛えはじめた。
力のある者が勝つ。知識も大きな力だが、今の海里にはもっと即物的な力が必要だった。
身体を動かすのは思いのほか楽しかった。無駄なものが削ぎ落とされて神経が研ぎ澄まされていくのがわかる。ふだん、自分がいかに煩わしいものに囲まれて生活しているのかがよくわかった。
生きていくのは面倒なことばかりだ。世のなかは雑音に満ちあふれている。きれいなものだけを見て、きれいな音だけを聴いて、そうやって生きていけたならどれだけ幸せだろう。
海里にとってきれいなもの、必要なものは孝太だけだ。孝太がいなければ生きている意味がない。
孝太のためならなんでもできる。
その気持ちをなんと呼ぶのか、今の海里にはもうわかっていた。
かわいい孝太。
そのつぶらできれいな瞳に映るのは海里ひとりだけでいい。つややかな頬をうっすらと染めてはにかんだ顔で笑いかけるのは、海里にだけでいい。家で、学校で、孝太が自分以外のだれかと目をあわせて言葉を交わすのを見ただけで、その相手を即刻排除したくなった。
それが弟の陸人であろうとも。
今まで、どんなにじゃれつかれても弟をぞんざいに扱うことなどなかった海里が、はじめて陸人の手を振り払った。
それは食後のことで、海里たちは居間で寛ぎながらテレビアニメを観ていた。孝太が好きなアニメだったので、海里も付き合って隣で眺めていたのだが、よほど眠たかったのか、途中で孝太がうとうとしはじめた。それに気付いた陸人が孝太の手を握って揺さぶった瞬間。
海里は素早く陸人の手を払いのけた。ぱしっと鋭い音がして、陸人は呆然と海里の顔を見あげてくる。
「孝太に触るな」
いつもの海里とは違う、ぞっとするような冷ややかな声だった。陸人の顔が強張り、驚きに見開かれた大きな目からはみるみるうちに涙があふれ出す。
「ふえ……っううぅ……」
陸人の泣き声が聞こえたのか母親が飛んできた。泣きじゃくる陸人を抱き寄せ、困惑した顔で海里を窺う。
「どうしたの?」
海里は、こてんと肩に寄りかかってきた孝太を支えながら冷たくいった。
「こうちゃんが起きるから、陸人をつれていって」
顔をくしゃくしゃにしてしゃくりあげる弟をまえに、眉ひとつ動かさずそっけない言葉をいい放つ海里を見つめて、母親が息を呑む。その目に非難の色はなく、ただただ驚愕だけがあった。
これまでの海里は「いい子」だった。
海里の特性にうすうす感づいていた母親と、まだなにもわからない幼い弟を怯えさせないように、ふたりから望まれる「やさしいお兄ちゃん」としてふるまってきた。
ふたりのため、ではない。自分のために。
異質であることは、周囲との関係に必要以上の摩擦を生む。集団生活のなかで海里はそれを理解していた。くだらない、と無視するには先が長すぎる。生きている限りそれはつきまとうのだ。
無駄な消耗はしたくない。
ならば、周囲に溶け込むのがもっとも手っ取り早く、無難だった。周りの環境と同化して敵から身を守る動物の保護色と同じで。
目につくから攻撃される。だったら周囲の目をくらますのがいちばんだ。
もっとも、海里の場合、狼が猫の皮をかぶっているようなもので。海里がおとなしく周囲に同化することで守られるのは、海里自身ではなく周りの人間のほうだった。
孝太のてのひらを感じるたび、海里を苦しめた得体の知れない衝動が、熱が、治まっていく。
「あのね、ぼくがいたいときに、こうやって、カイくんが『だいじょうぶだよ』って、よしよししてくれると、いたいの、なくなるの」
まだ半分眠っているような舌足らずな調子で孝太がむにゃむにゃと説明する。いじらしい言葉がたまらない。寝汗でうっすらと汗ばんだ孝太の首筋に額を押しあてたまま、海里はしがみつくように強くその身体を抱きしめる。
欲しい。孝太が欲しい。
どうすれば、孝太のすべてを手に入れることができるのか。
背中をさする孝太の手をすっかり気に入っておとなしくなった獣が、長くしなやかな尻尾でびたびたと床を叩きながらぎらりと眼を光らせた。
*****
そうして、海里と孝太は小学生になった。
そのころには、孝太は髪の毛もきれいに手入れされて身ぎれいな格好をするようになっていた。
あの事件のあと、海里は孝太の母親とふたりきりで話をした。最初に会ったときに海里が感じたとおり、彼女は子どもみたいな性格をしていた。中身はそれでも、れっきとしたひとの親なのだから、たちが悪い。
孝太の母親――長谷川夏夜は、一度にひとつのことしか考えられない、そういう思考回路の持ち主だった。単純にいうと、自分のことをしているときには、孝太の存在をすっかり忘れている。
夏夜は夕方から深夜にかけて働いているので夜は不在だったし、朝は寝ている。仕事のあいだ、また寝ているときの彼女はどうやらほんとうに、孝太の存在自体を忘れているようだった。
だから、孝太は自分で自分の面倒を見るしかなかった。冷蔵庫のなかや戸棚を漁って食べるものを探し、身体が痒くなってきたら水で頭や身体を洗い、乾いたまま放置された洗濯物の山から服を引っ張りだして着替える。
よく今まで無事に生きてこられたものだ、と海里は思う。
そんな状態だったから、あのときまで夏夜は孝太の身体の痣に気付かなかったのだ。
あの男とはあれからすぐに別れたといっていた。
傍から見れば、夏夜の態度は孝太を邪険にしているとしか思えないが、それでも、彼女は彼女なりに孝太を気にしているらしい。男を連れ込み、年端もいかない子どものまえで痴態を繰り広げながらも、なにかの弾みで孝太の存在を思い出すと、男よりも孝太を優先させた。孝太のそばで煙草を吸うことは認めなかったし、暴力を振るうなどもってのほか。
どこかずれている気がするが、それが彼女なりの愛情表現、なのだろう。
だが、いたいけな身体に刻まれた痛々しい傷痕をまえに、いっとき反省したようだが、懲りずにまた違う男を引き込んでいるのを海里は知っている。
彼女を責めてもしかたない。わざとやっているのではないのだし、もちろん当人に悪気はない。悪意がなければなにをしても許されるわけではないが、夏夜の場合は、しかたないとしかいいようがない。
海里と話しているあいだ「あたしはバカだからさ」と彼女は口癖のように繰り返したが、夏夜はべつに馬鹿ではない、と海里は思う。彼女は自分のことをよくわかっていたし、自らの非を素直に認めた。自分を正当化するためのつまらない嘘やいつわりを口にしない。これまでの行為自体は決して誉められたことではないが、少なくとも、そういう人間を馬鹿とはいわない。
夏夜の場合、性格というより疾患なのだろう。
周りが見えない。意識できない。
そういう病気、なのだ。
どんなに部屋じゅうが汚れていても、片付けるという発想自体を思いつけない。それ以前に、おそらく夏夜には部屋の惨状が見えていない。
見えないものを見ろといっても無理な話だ。子どもの姿が見えていないのに、その面倒を見ろというのも無茶だろう。
だが、親としては完全に失格だ。
本来ならば、彼女の手許に孝太を置いておくべきではない。然るべき機関に連絡をして、孝太を保護させるのがいちばん望ましいのだろう。
ほんとうなら、孝太が暴力を振るわれているとわかったあの時点でそうすべきだった。
それをしなかったのは海里のエゴだ。
そんなことになったら孝太と離ればなれになってしまう。そうならないために、海里は孝太を救うために手を打とうとはしなかった。
だが結果として、海里は孝太を暴力から救い出し、孝太と、そして夏夜からの絶対的な信頼を得た。
はじめのうち、夏夜は海里をもの珍しそうな目で見ていたが、それだけだった。ちょっと頭のいい子、程度に思ったらしく、海里の母親やほかのおとなたちのように、腫れものに触るような扱いや薄気味悪い異端者を見る眼差しを向けることはなかった。
「あんた賢いのねぇ」と無邪気に感心する彼女に、海里は罠ともいえないような単純な罠を仕掛けた。
「おばさん、今のままだと、こうちゃんと引き離されるよ」
考えたこともなかったのだろう。夏夜はぽかんとして、それからあわてだした。なんでなんで、と小さな子どもみたいに噛みついてくる彼女に、ふつう、孝太の置かれた環境で子どもを育てることは容認されないのだということを淡々と説明する。夏夜には理解できないようだった。
自分が生んだ子どもなのに、なんで他人に取りあげられなければいけないのか、と。
子どもは親の所有物ではない。それを説明することもできたが、海里はあえてそれをしなかった。代わりにこう提案した。
「こうちゃんと離ればなれになりたくないけど、おばさはこうちゃんの面倒を見られないでしょう? だから、うちでこうちゃんを預かるよ。今までみたいに、一緒にご飯を食べてお風呂に入って、一緒に寝るの。近所だから、いつでも会えるし安心でしょう?」
海里が磨きあげたおかげでこぎれいになって、栄養をとって色艶のよくなった孝太を見ている夏夜は、海里の言葉をたやすくはねつけることができない。彼女なりに、孝太に対する罪悪感を抱いているのだろう。
海里の母親にはすでに了承をとっている。彼女が海里の意思に逆らうことはない。
「こうちゃんも、うちを気に入ってるみたいだし」
駄目押しとばかりにつけ加えると、夏夜は諦めたように肩の力を抜いてため息をつく。
海里は子どもらしくにっこりと笑うと小首を傾げてみせた。
「ねえ、こうちゃんをちょうだい?」
*****
もともとかわいかった孝太だが、身ぎれいにするとますます人目をひくようになった。
これまでにも何度か変質者に狙われることがあったが、その比ではない。寄ってくる害虫を駆除するにも、さすがに、子どもというハンデを感じるようになり、海里は身体を鍛えはじめた。
力のある者が勝つ。知識も大きな力だが、今の海里にはもっと即物的な力が必要だった。
身体を動かすのは思いのほか楽しかった。無駄なものが削ぎ落とされて神経が研ぎ澄まされていくのがわかる。ふだん、自分がいかに煩わしいものに囲まれて生活しているのかがよくわかった。
生きていくのは面倒なことばかりだ。世のなかは雑音に満ちあふれている。きれいなものだけを見て、きれいな音だけを聴いて、そうやって生きていけたならどれだけ幸せだろう。
海里にとってきれいなもの、必要なものは孝太だけだ。孝太がいなければ生きている意味がない。
孝太のためならなんでもできる。
その気持ちをなんと呼ぶのか、今の海里にはもうわかっていた。
かわいい孝太。
そのつぶらできれいな瞳に映るのは海里ひとりだけでいい。つややかな頬をうっすらと染めてはにかんだ顔で笑いかけるのは、海里にだけでいい。家で、学校で、孝太が自分以外のだれかと目をあわせて言葉を交わすのを見ただけで、その相手を即刻排除したくなった。
それが弟の陸人であろうとも。
今まで、どんなにじゃれつかれても弟をぞんざいに扱うことなどなかった海里が、はじめて陸人の手を振り払った。
それは食後のことで、海里たちは居間で寛ぎながらテレビアニメを観ていた。孝太が好きなアニメだったので、海里も付き合って隣で眺めていたのだが、よほど眠たかったのか、途中で孝太がうとうとしはじめた。それに気付いた陸人が孝太の手を握って揺さぶった瞬間。
海里は素早く陸人の手を払いのけた。ぱしっと鋭い音がして、陸人は呆然と海里の顔を見あげてくる。
「孝太に触るな」
いつもの海里とは違う、ぞっとするような冷ややかな声だった。陸人の顔が強張り、驚きに見開かれた大きな目からはみるみるうちに涙があふれ出す。
「ふえ……っううぅ……」
陸人の泣き声が聞こえたのか母親が飛んできた。泣きじゃくる陸人を抱き寄せ、困惑した顔で海里を窺う。
「どうしたの?」
海里は、こてんと肩に寄りかかってきた孝太を支えながら冷たくいった。
「こうちゃんが起きるから、陸人をつれていって」
顔をくしゃくしゃにしてしゃくりあげる弟をまえに、眉ひとつ動かさずそっけない言葉をいい放つ海里を見つめて、母親が息を呑む。その目に非難の色はなく、ただただ驚愕だけがあった。
これまでの海里は「いい子」だった。
海里の特性にうすうす感づいていた母親と、まだなにもわからない幼い弟を怯えさせないように、ふたりから望まれる「やさしいお兄ちゃん」としてふるまってきた。
ふたりのため、ではない。自分のために。
異質であることは、周囲との関係に必要以上の摩擦を生む。集団生活のなかで海里はそれを理解していた。くだらない、と無視するには先が長すぎる。生きている限りそれはつきまとうのだ。
無駄な消耗はしたくない。
ならば、周囲に溶け込むのがもっとも手っ取り早く、無難だった。周りの環境と同化して敵から身を守る動物の保護色と同じで。
目につくから攻撃される。だったら周囲の目をくらますのがいちばんだ。
もっとも、海里の場合、狼が猫の皮をかぶっているようなもので。海里がおとなしく周囲に同化することで守られるのは、海里自身ではなく周りの人間のほうだった。