第6話

文字数 3,888文字

「幼児虐待は犯罪だよ」
 海里の言葉に、孝太の母親がぎょっとした顔をする。
「え? 虐待? なにいってんの……っえ、」
 海里にしがみついた孝太のパジャマの隙間から痣が見えたのだろう。彼女は信じられないものを目にしたかのようにその場に凍りついた。
「ちょ、ちょっと孝太、なにその痣はっ、ちょっと見せてごらん」
 ちょっと、というのが口癖なのだろう。孝太の母親はあわてふためいたようすでこちらへ向かってくる。怯えたように孝太が身を竦めた。彼女はなにしろ声が大きい。小鳥のように臆病な孝太にはたまらないだろう。海里は孝太を庇うように一歩進み出ると母親と対峙する。
 育児放棄も立派な犯罪行為だよ、といいたいところだったが時間がない。海里はべつの台詞を選んで彼女に告げた。
「子どもを殴る男は、女も殴るよ」
 彼女はこれ以上ないくらいに目を見開いて絶句する。
「こうちゃん、おいで」
 二の句が継げずに呆然とするおとなたちに背を向け、海里は腰を屈めて背中に乗るよう孝太をうながした。孝太は素直に海里におぶさる。
 孝太を背負ってふたたびサンダルを履く海里に、動揺しきった彼女の声が聞こえた。
「ど、どこに行くの?」
 ドアを開けて海里は振り返る。
「帰らないと。もうそろそろ30分経つころだし。警察呼ばれたら困るでしょう?」

 *****

 海里の家のまえで母親が待っていた。海里の姿を認めると駆け寄ってくる。
「カイくん! 無事で」
 いいかけた言葉がふいに途切れる。赤く腫れた海里の頬と、その背中におんぶされた孝太を見て息を呑む。
「大丈夫、もう終わったから。心配かけてごめん」
 素直に謝ってきた海里に虚をつかれてたじろいだ母親は、諦めたようにため息をついてふたりを玄関へとうながした。
 泣きやまない孝太にうんと甘くしたミルクを飲ませて、比較的痣の少ない背中を撫でていると、ようやく落ち着いたのか海里に頭をあずけたままうとうとしはじめた。
 母親が用意してくれた、氷をくるんだ冷たいタオルで顔を冷やしながら海里はことのしだいを簡潔に説明した。
 孝太の母親の交際相手がずっと孝太を虐待していて、海里が助けにいったのだと。
 なんとなく予想がついていたらしく、母親はあっさりと海里の言葉を信じた。ただひとつを除いては。
「どうして、こんな時間に孝太くんが、その、いじめられているとわかったの?」
 家を飛び出す直前まで、海里は眠っていた。それなのに、なぜあのときまさに孝太が窮地に陥っているのがわかったのか、それだけが腑に落ちないようだった。無理もない。
 孝太が呼んでいたから、と。
 正直に答えたところで、母親はますます海里を薄気味悪く思うだけだろう。非科学的なことだというのは海里にもわかっている。だけど今の海里には確信があった。
 孝太はとくべつなのだ。
 今回がはじめてではなかった。
 外で遊んでいたとき、陸人に気をとられて海里が目を離した隙に、孝太の姿が見えなくなったことがあった。孝太が勝手にひとりでいなくなるはずがない。あわてて捜していると、海里を呼ぶ孝太の声が聞こえた。考えるより先に身体が動いていた。
 海里たちが遊んでいたところから三百メートル近く離れたひとけのない廃墟に孝太は連れ込まれ、見知らぬ男に身体を触られていた。痴漢だ変質者だと、子ども特有の甲高い声で海里が騒ぐと男は焦って逃げ出した。
 後日、その男が捕まったと母親から聞かされた。同じような前科があったらしい。
 そのときも、孝太は恐怖で身が竦んで助けを求められるような状態ではなかった。声が出なかったといっていた。
 それなのに、海里には孝太の声が聞こえた。
 今夜のように。
「――――勘、だよ」
 長すぎるほどのまをおいて海里は答えた。母親はなにかいいかけたが、思い直したように目を伏せて小さく息を吐いた。
 ふいに、玄関のチャイムが鳴った。ひとが訪ねてくるにはあまりに非常識な時間だ。母親が不安そうに海里を窺う。海里は肩によりかかってすやすやと眠る孝太を見てから、母親に首を振ってみせた。
「たぶん、こうちゃんのお母さんだと思う。へんなことはしないだろうけど、いちおう、チェーンはかけたままで応対して。こうちゃんは寝ているし、今日はもう遅いから明日また来てくださいって伝えて。もしごねるようなら、かまわずに警察を呼びますって突っぱねていいから。もしなにかおかしなことをされたら叫んで。助けに行くから」
 四歳の子どもの口から、てきぱきとよどみない指示が示される。向かいに腰かけた母親は真剣な表情で聞き入ると、最後にこくりとうなずいて立ちあがった。不安なときには的確な指示を与えられると、進むべき方向性が見えて気持ちが落ち着くものだ。
 ふだんは幾重にも猫をかぶっている海里だが、こういうときには遠慮しない。
 この家には男手がない。
 いつもは海里を扱いかねている母親も、いざというときには海里を頼りにしてくる。海里は子どもでありながら、同時に家長の役目もになっている。
 野々宮家のヒエラルキーの頂点は海里なのだ。

 孝太の母親はあっさりと引き下がったようだった。海里の予想どおりだ。母親にはああいったものの、孝太の母親がしつこくごねるとは思っていなかった。
 そのあと、孝太を起こしてしまわないように、海里は居間に布団を敷いて孝太と一緒に寝た。触れそうなほど近くであどけない孝太の寝顔を見つめながら、海里はさっきのできごとを思い返していた。
 孝太をおんぶしてアパートを出たあと、孝太は海里の首に縋りつきながらひたすら謝りつづけていた。
「カイくんごめん」と。
 もう何発かは殴られる覚悟をしていたので、あの一撃だけですんだのは幸いだった。それに、ずっと痛い思いをしてきたのは孝太のほうだ。海里に謝る必要はない。
 それなのに。
 孝太は、自分さえ我慢すればいいと思ってきたのだろう。そうやって、母親のいない隙を見計らって振るわれる暴力にじっと耐えてきたのだろう。悲鳴を押し殺して。
 だけど、目のまえで海里が殴られるのを見て、あのおとなしい孝太が声を張りあげて叫んだ。恐ろしくてしかたないはずのあの男に掴みかかっていった。海里のために。
 胸がざわつく。
 身体のなかでなにかが暴れまわっているみたいに激しい嵐が吹き荒れる。海里は心臓のあたりをぎゅっと押さえた。どくどくと昂ぶる鼓動がうるさい。すぐそばで眠っている孝太が起きてしまうのではないかと思うほど、鼓動が大きく響く。
 そして衝動のまま。
 孝太の唇に噛みついた。
 それが愛情表現だという自覚はなかった。
 突きあげてくる衝動のまま、獲物に喰らいつく獣のようにふにふにした柔らかな肉を食む。このまま全身の肉を食いちぎって口のなかで咀嚼して飲み込んでしまいたい。そうして孝太のすべてを身体のなかに取り込んでしまいたい。
 狂気のようなその激情をなんと呼ぶのか海里は知らない。
 幼いながらにおとなのような頭脳を持ち、つねに理性的であることがあたりまえだった海里だが、そんな彼のうちには制御しきれないほどの激しい感情が眠っていた。
 身体の内側に獰猛な獣が棲んでいて、なにかの弾みでそれが目を覚まして暴れまわっている。その獣はひどく飢えており、研ぎ澄ました鋭い爪を光らせて牙を剥き、ぎらぎらした眼で獲物を見据えている。雑魚には見向きもしない。
 彼が狙っているのは、孝太ただひとり。
 その柔らかな皮膚に爪を立て、組み敷き、喉笛に喰らいついて肉を裂き、あふれ出すあたたかな血をあますところなく啜れ、と。
 海里にけしかけてくる。
 その獣は海里の分身であり、海里自身でもあった。
 おとな顔負けのいっぱしの口をきいても、所詮はまだ幼い子ども。思考だけが先行して、身体がそれにともなっていない。
 体内で暴れまわる獣が、その衝動が、性的な意味を持つものだと理解するには、海里の身体はあまりに幼すぎた。
「…………っん、」
 噛みつかれ、口を塞がれた孝太が身じろぎをしてうっすらと瞼を開く。まだ完全に覚醒してはいないのだろう、なにが起きているのかわからないというふうに、小刻みに瞬きを繰り返している。その唇をがつがつと貪りながらも、海里のなかの冷静な一部が警鐘を鳴らす。このままでは孝太を怯えさせてしまう、やめろ、と。
 だが、止められなかった。
 身体が熱くてたまらない。
 身のうちに孕んだ熱が行き場を求めて全身を駆けめぐる。その熱に煽られたように、獣が激しく咆哮する。
「――――っ、」
 孝太の華奢な身体を荒々しく掻き抱き、唇よりも薄く柔らかな首筋に顔を埋め、はあはあと掠れた息を吐く。
「カイ、くん?」
 不安げな孝太の声が海里の名を呼ぶ。海里に乱暴に抱きつかれて強張った身体が拒絶を表している。孝太を泣かせてしまう。
 そう思った、のに。
「いたいの?」
 微かに震えながら、それでも気遣わしげな声で孝太がささやく。
「カイくん、くるしい?」
 苦しい。
 返事の代わりに孝太を抱く腕に力を込めると、少し逡巡するような気配のあと、海里の背中にそろりと触れるものがあった。それはこわごわと海里のパジャマをさする。
 孝太が、海里の背中に腕をまわしているのだ。
 そう理解した瞬間、あれほど荒れ狂ったように吹きすさんでいた嵐がぴたりとやんだ。
 孝太はなにもいわず、ぎこちない仕草で海里の背中を撫でつづける。
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