第5話

文字数 3,929文字

 孝太の身体は痣だらけだった。
 服を着ているぶんにはわからない場所にばかり残された傷痕から、その狡猾さと悪意が透けて見える。肋骨が浮くほど痩せた身体は痛々しく、海里は知らず知らずのうちに顔をしかめていた。
 裸を晒した孝太がびくびくと身を縮めるのに気付いてはっとする。
「こわがらなくていいよ。おいで」
 安心させるようにそっと手を引いて浴室に入る。ぎゅっと握り返してくる小さな手を愛しいと思った。
 たっぷり時間をかけて孝太の頭から足の爪先までを磨きあげて、母親が用意してくれたらしい陸人の服を着せると、孝太はずいぶんこざっぱりした印象になった。居間につれていくと、陸人をあやしていた母親が「まあ」と感嘆の声をあげたほどだ。
「孝太くん、ますますかわいくなったわね。カイくんお疲れさま」
 冷たい林檎ジュースと、手作りのドーナツが待っていた。
「どうぞ、お風呂に入ってお腹空いたでしょう」
 母親にうながされても、孝太は戸惑ったようにうつむいて手をつけない。隣に座った海里がドーナツを掴んで孝太に差し出すと、こわごわとしたようすで受けとって海里を見あげる。
「遠慮しないで食べていいよ」
 そういって海里が自分のドーナツを食べると、孝太はようやく意を決したように、はむ、とかじりついた。それからは速かった。ぱくぱくもぐもぐとあっというまにドーナツを平らげ、海里に差し出された林檎ジュースを飲む。ふたつめのドーナツを手渡すと、これも海里の顔を窺ってから、気持ちいいくらいの食べっぷりで完食した。 
 そのあまりの勢いに、寝起きでぐずりながら、見知らぬ人間に怯えて遠巻きにこちらを窺っていた陸人がよたよたと近寄ってきたかと思うと、孝太のそばに立って顔を覗き込みながら「おいし?」と尋ねた。孝太は顔を赤らめてうつむくと、小さくこくんとうなずいた。陸人は手に持っていた食べかけのドーナツを孝太に差し出す。
「りっくんの、たべる?」
「こら、陸人!」
 母親があわてたようにたしなめると陸人を抱き寄せる。
「ごめんなさいね、孝太くん」
 孝太はふるふるとかぶりを振る。海里はみっつめのドーナツを孝太の口許に運んだ。
「こうちゃん、あーんして」
 孝太は赤い顔のまま目を見開くと、しばしの逡巡のあと、海里の手からドーナツを食べた。

 *****

 その日を境に、孝太は海里の家に遊びにくるようになった。というか、海里がつれてきた。そうしないと孝太は自分からは絶対にこない。
 海里にはじめて友だちらしい相手ができたのを母親はいたく喜んで、孝太を歓迎した。おそらく、孝太が置かれた環境にうすうす気付いていたのだろう。母親はあまり近所付き合いをしないので、近隣の家庭事情には詳しくないが、孝太のようすを見ればいやでもわかる。必死に我慢しているようだったが、孝太はいつもお腹を空かせていた。孝太はどんなものでも残さずに食べた。子どもが苦手な野菜や魚もきちんと平らげる。そんな孝太に影響を受けて、偏食がちだった陸人もつられて野菜を食べるようになった。
 自分よりも小さな孝太に、陸人は陸人なりに庇護欲のようなものを感じたのか。人見知りの彼には意外なほど、自分から積極的に孝太にはたらきかけた。孝太がおとなしい子どもだったせいもあるのだろう。珍しく、陸人が家族以外の人間に懐いていた。
 海里に絵本を読んでくれとせがんでくるとき、今までなら陸人は海里にぴったりくっついて甘えてきたのに、孝太がくるようになってからは一丁前に兄貴ぶって、海里の隣を孝太に譲り、その横にちょこんとひっついて座った。最初のうち、孝太は居心地悪そうにもじもじしていたが、しばらくしてこの家に慣れてくると、くすぐったそうにはにかみながら、そこが自分の居場所だと受け入れたようだった。
 孝太は、なにをするにもまず海里に伺いを立てた。おやつを食べるときでさえ、あきらかに孝太のために用意されているにもかかわらず、そっと海里の顔色を窺い、海里が「食べていいよ」とうながすと、安心したようにうなずいて手を伸ばす。毎回そうだ。めったにないが、海里が「ダメ」といったことには絶対に逆らわない。
 最初にあのいじめっ子たちをあっさりと追い払ったことが効いたのか――あれ以来、三人組は孝太にちょっかいを出さなくなった――、孝太は海里に対して全幅の信頼を寄せているようだった。
 悪い気はしない。
 今までずっとうつむきがちに足許ばかりを見ていた孝太が、少しずつ顔をあげて、おずおずと海里を見あげてくる。
 海里の心臓を鷲掴みにした、あの濁りのない澄んだ瞳で。
 そうして、安心したように口許をほころばせる。かたくなに閉じていた蕾がするりとほどけるように、孝太は笑顔を見せるようになった。
 孝太の笑った顔はとてもかわいい。ずっと見ていたいと思うほどかわいらしい。
 それなのに、どうしてだろう。
 自分以外の、ほかのだれかのまえで笑う孝太を見るたび、胸のあたりがひどくざわついた。

 真夜中だった。海里はふと目を覚ました。
 母親も陸人も眠っているのだろう、家のなかはとても静かだった。
 海里は注意深く耳を澄ました。そして次の瞬間、がばっと起きあがってベッドからおりると部屋を飛び出し階段を駆けおりる。パジャマ姿のまま玄関に向かいサンダルをひっかけてドアを開けたところで、物音に気付いた母親があわてたように追いかけてきた。
「カイくん!?」
 海里は振り向くと「こないで」と制して母親に伝言を残す。
「もし30分経ってもぼくが帰ってこなかったら警察に通報して。それまでは絶対になにもしないで」
 どういうことなの、とおろおろする母親を残して真っ暗な夜道を駆け出す。見慣れたアパートには、ひとつだけ明かりが灯っていた。その部屋を目指してドアのまえにたどりつくと、ためらうことなくノブを掴む。鍵はかかっておらず、ノブはするりとまわってドアが開いた。
 玄関から部屋のようすが見えた。
 乱れた布団のうえに上半身裸の男がのしかかり、その下で小さな孝太が泣きながら震えていた。孝太のパジャマは乱雑にはだけられ、あらわになった肌の一部が赤黒く変色しはじめていた。
 海里に気付いた男がぎょっとしたように顔をあげたが、海里を認めるとあからさまに力を抜き、嘲るように口許を歪めた。
「どこのガキだ? なんか用か」
 浴室から水音が聞こえてくる。
 海里はサンダルを脱ぎ捨て部屋にあがり込むと無表情のままずかずかと布団に近付いていく。その無言の迫力に気圧されるように男の顔がひくりと引き攣る。目のまえに迫るのは、非力なただの幼児のはずなのに。その目、が。ただの子どもではありえない不穏な光を宿していた。
「なんだ、おまえ」
「孝太を離して」
 布団の横に立つと、大のおとな相手に少しも臆することなく海里はいった。男は呆気にとられた顔でこの不気味な闖入者を見ていたが、やがて目を吊りあげて海里の胸倉を掴んだ。
「くそ生意気な目ぇしやがって……っ、おまえも殴られたいのか?」
 海里は抵抗しない。おとなしく掴みあげられたまま、ただじっと男を見つめる。その眼差しに挑発されたように男が手を振りあげる。
「孝太を殴っていたのはおじさん?」
「あぁ?」
「おじさんが、孝太の身体をあんなふうに傷付けたの?」
「だったらなんだ? おまえも同じようにされたいのか」
 その答えを聞いて、海里はすっと目を細めた。唇が孤を描く。海里は笑っていた。だが、目は少しも笑っていない。
「くそガキがっ」
 男が手を振りおろす。拳ではなく平手だった。鋭い音が響いて海里の頭が激しく揺らぐ。
 その瞬間。
「いやああああぁっ」
 今まで力なく泣きじゃくっていた孝太が驚くほどの声で叫んだ。
「ダメっ! カイくんはダメぇぇっ」
 ぐったりしていたのが嘘のように孝太は必死の形相で男の腕にしがみつく。予想外のできごとに、二発目を繰り出そうとしていた男の手が止まる。
「ちょっと、なんなの今の声はっ」
 いつのまにか、浴室から聞こえていた水音が止まり、身体にバスタオルを巻きつけた女が飛び出してきた。髪からぱたぱたと雫を落としながら、その女――孝太の母親は目を剥いて叫んだ。
「なにやってんのあんたっ」
 男が舌打ちして海里を放り出し、腕にしがみついている孝太を邪険に振り払う。布団のうえに倒れた孝太はよろよろと起きあがると、畳を這いずりながら海里のもとにやってきた。涙でぐしゃぐしゃになった顔に殴られたあとはない。そのことに少しほっとして、海里は孝太を抱き寄せる。孝太は泣きじゃくりながら縋りついてきた。
 海里は顔をあげて孝太の母親を見た。
 小柄で華奢なところは孝太と似ている。気の強そうな大きな瞳が海里をとらえる。
 子どもみたいな目をしているな、と自身がまだ子どものはずの海里は思った。
「あんた、たしか野々宮さんのところの……なんでここに、っていうかなにその顔! ちょっとまさか、あんたがやったんじゃないでしょうね?」
 バスタオル一枚という格好で仁王立ちしたまま、彼女は男を睨みつける。男はふて腐れたようにそっぽを向いて煙草をくわえる。
 とたんにすさまじい一喝が飛んできた。
「ちょっと! 子どものまえで吸わないでっていってるでしょう!」
「ちっ、うるせえな」
 男は火をつけていない煙草をくわえたままがしがしと髪を掻きまわす。深夜とは思えない賑やかさだ。案の定、隣の部屋からだろう、やかましさに抗議するようにドンッと壁が叩かれた。沈黙がおりる。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み