第2話

文字数 4,236文字

 背後で玄関のドアが開いた。鍵をかけるのを忘れていたらしい。母親は仕事に出かけていて深夜まで戻らない。振り向くと、見知らぬ男が立っていた。考えるまでもない。母親の相手だろう。
「母さんならいない」
「そうだろうな」
 がっしりとした体格の、おそらく四十代なかばくらいだろう男は、母親の不在を知っていたかのような返事をして勝手にあがり込んできた。
「なんだよ、帰れよ」
 後ずさりながら睨みつけるおれに、下卑た笑いを浮かべて近付いてくる。
「かわいい顔してつれないこというなよ」
 いやな予感がして全身が総毛立つ。まさかこいつ。足元の布団につまずいて仰向けに倒れたおれに、すかさず男がのしかかってくる。
「へへ、母親よりよっぽどかわいい顔してんじゃねえか」
顔のことをいわれるのは好きじゃない。ましてやこんな男にはいわれたくない。
「離せよっ」
 叫んだとたん、ものすごい力で頬を張られた。衝撃で目のまえが真っ赤に染まる。
「おまえはただ泣いてりゃいいんだよ」
 そう怒鳴って男はおれのシャツを引き裂く。あらわにされた肌をごつごつした手が這いまわる。気持ちが悪い。
 おれは母親とは違う。
 こんなやつに。
 抵抗するたびに容赦なく殴られて意識が霞んできた。やばい。このまま、こんなやつの思いどおりになるのか。いやだ。絶対にいやだ。
 心が折れそうになる。
 泣くもんかと食いしばっていた力がゆるむ。いやだ。いやだ。
「海里っ!」
 叫んだ瞬間。
 おれの身体に覆いかぶさっていた男が吹っ飛んだ。壁に叩きつけられる鈍い音がして、呻き声が聞こえた。それから、耳を塞ぎたくなるような生々しいいやな音がして、男の悲鳴が聞こえなくなった。
 蛍光灯を背にして、だれかがおれを覗き込む。
「遅くなってごめん。ひとりでよくがんばったね、孝太」
 その声を聞いたとたん、ぶわっと涙があふれ出した。視界が歪む。恐怖のあまり、感情を繋ぐ回路がおかしくなったのか、安心して、急に笑いたくなった。
 呼んだらほんとうに助けに来るとか、おまえ、ヒーローかよ。
 海里は、泣きながら笑うへんなおれを抱きあげて部屋から連れ出すと、さっきあとにしたばかりの海里の家に戻った。
 そのままバスルームへ連れていかれ、引き裂かれてぼろぼろになったシャツと一緒に、身につけていたものを全部脱がされる。
「ちょっと染みるだろうけど我慢して」
 頭からシャワーのお湯をかけられ、うがいをするよううながされる。殴られたときに、唇の端と咥内を切ったみたいで、ものすごく染みた。我慢してうがいをすると、吐き出したお湯が真っ赤に染まっていた。でも、幸いなことに歯は折れていない。
 発作的な笑いの波が治まるとどっと疲労感が押し寄せてきて、丁寧に全身を洗ってくれる海里におとなしく身をゆだねることにした。
 いい匂いがする清潔なパジャマを着せられて、二階の海里の部屋に運ばれる。冷房が効いた快適な部屋のベッドに寝かされ、肌触りのいいタオルケットをかけられる。
「もう大丈夫だから。安心しておやすみ」
 そうやさしくささやかれて、また涙があふれてきた。おれは我慢するのをやめておおっぴらに泣きじゃくった。
「あ、あんな、やつに、さ、触られ……気持ち悪い、やだ」
「きれいに洗ったから、もう大丈夫だよ」
 おれはふるふるとかぶりを振る。
「か、感触が、まだ、残ってる」
 肌を這いまわる手。生温い舌で舐めまわされた感触が離れない。
 タオルケットがめくられ、海里がベッドにあがってきた。隣に身を横たえて、おれの身体を抱き寄せる。反射的にびくっと震えたおれを、きつく抱きしめる。
「かい、り?」
「こわい思いをさせてごめん」
 頭のうえで海里が謝る。
「やっぱり孝太を帰すんじゃなかった。そばにいればよかった。もっと早く助けに行けばよかった」
 海里の声が震えている。おれはまた小刻みに首を振った。
「ち、違う、海里は、助けてくれた」
 今日だけじゃない。
 思い出したくもないけれど、子どものころからおれはへんなやつに狙われることが少なくなくて。歳のわりに小柄でおとなしそうに見えるらしくて、そういう、歪んだ欲望の対象としてとらえられてしまう。そんな変質者たちに襲われるたび、いつも海里が助けてくれた。
 そう、たとえ、たまたま離れていたときでも、海里はかならず助けにきてくれた。ほんとうに、ヒーローみたいに。
「海里、むかしっから、おれがピンチのときには、絶対に助けにきてくれたよな。なんで? おれが危ない目にあってるって、わかるはずないのに」
「わかるよ」
「へ?」
「なんでかな。孝太がぼくを呼んでるのがわかるんだ。どこにいるのかも、全部」
 いやいや、ありえないだろ、そんなの。
 泣くのを忘れてぽかんとしていると、海里がおれの顔を覗き込んできた。
「孝太は、ぼくの運命のひとだから」
 …………は?
「って、ぼくは信じている」
 なんか、さりげなくものすごいことをいわなかったか、今。
「孝太を守るために強くなったつもりだったけど、こんな怪我までさせて。ごめん」
 強くなったって……、え、まさか。
「まさかとは思うけど、おまえ、小学生のとき、急に空手習いはじめたのって」
「もちろん、孝太を守るためだよ」
 海里はなんでもないことのようにあっさりと答える。
 ありえないだろ。馬鹿だこいつ。
「な、なんでそんな、おれなんかのために」
「いっただろう。孝太が好きだから、ぼくの運命のひとだから。孝太のためなら、ぼくはどんなことでもするよ」
 なんつーこっぱずかしい台詞を真顔で淡々というんだこいつは。
 頭に血がのぼって顔が火照る。
 海里がおれの髪を撫でながら耳許でささやいた。
「だから、孝太、ぼくを選んでよ。そうしたら、ぼくはずっとそばにいて孝太を守れる。ぼく以外の人間に触らせたりしない、絶対に」
 うん、とうなずきそうになる。けれど。
「で、でも」
 おれのためらいを察したように、海里がいう。
「孝太は、キスより先の行為がこわいんだろう?」
 図星をつかれておれは息を呑む。強張った身体を、海里の手が安心させるように撫でさする。
「知っているよ。そうだろうと思っていた。だから、孝太に好きだといえなかった」
「…………え、」
「小さなころからへんなやつらに付け狙われて散々こわい目にあって。それだけでもじゅうぶんに恐ろしいのに、母親の情事まで見せられて。そのせいで、孝太にとって、性行為は汚らしい、恐ろしいものになってしまったんだろう?」
 おれは驚愕して海里を凝視した。
 なんで、そんなことまでわかるんだ。
「かわいそうに。こわい思いをしてきたね。でも、ほんとうは違うんだよ。性行為は、ほんとうに好きなひととだけするものなんだ。よく知りもしない相手とするようなものじゃない」
「え」
「キスもなにもかも全部、好きなひとだからしたくなるんだ。好きだから触りたいし、相手のすべてが欲しくなる。ぼくは孝太が欲しい。やさしくする。ひどいことはしない。ほんとうの愛情表現を、ぼくが教えてあげる」
 だから、と海里がささやきかける。
「ぼくを受け入れて。ぼくを愛して」
 強張っていた身体から力が抜けていく。海里がおれを抱きしめる。
 この腕がなかったら、おれはたぶん生きていけない。おれは海里にしがみついて、こくりとうなずいた。
「……ん。おれ、海里と離れたくない」
「孝太」
「く、苦しい」
「ごめん……、ありがとう。大事にするから」
「……うん」
 そわそわと落ち着きなく足を動かすおれに、ふっと笑って海里がいう。
「心配しなくていい。今すぐに孝太を抱こうなんて考えてないよ、さすがに」
 見透かされている。ほんとうに、海里に頭のなかを読まれているんじゃないかと疑いたくなる。
「ゆっくりおやすみ。そばにいるから」
「ん」
 あれほど、あの男に撫でまわされた感触が気持ち悪くてしかたなかったのに、海里の胸に抱かれていると、恐怖が薄らいでいく。
 おれはそのまま眠りに落ちた。

 *****

 翌朝。想像はしていたけれど、おれの顔は人前に出られないほど腫れていて。
 海里は笑ったりしなかったけど、目がすごくこわかった。今まで見たことがないような不穏な目つきをして、物騒なことをつぶやいた。
「あの男、絶対に許さない」
 おれは学校を休むことにした。
 一緒に休んでそばにいるといい張る海里をどうにか説得して学校に送り出すと、海里の部屋に閉じこもって、ぼうっとして過ごした。
 うとうとしていると、廊下を歩く足音が聞こえてぎくりとした。おばさんは二階にはあがってこない。海里もいない。ということは。
 起きあがると同時にドアが開く。
 海里によく似た面差しの少年が立っていた。完全に脱色した金髪に、見ているだけで痛そうな数のピアス。
 海里の弟だ。
「りっくん」
 子どものころの呼び名を口にしたとたん、彼――陸人の眉がひそめられる。不良の巣窟で知られている高校のグレーのシャツをだらしなく着崩した陸人は、ずかずかとベッドに近付いてくる。
「あいつに殴られたのか」
「え?」
 陸人は眉間に皺を刻んだ恐ろしい顔つきでおれを見下ろしている。
 あいつ、というのがだれのことなのかわからずにぽかんとしていると、陸人がいった。
「海里に殴られたのか」
 思いがけない言葉にびっくりして声が裏返る。
「は? 海里に? なんで?」
 聞き返したけれど、それには答えずに、陸人は小さく息を吐く。無言で睨まれて身が竦む。
 中学生になったころから、陸人は急に素行が悪くなった。それまでは、わりとおとなしい子で、小さいころには一緒に遊んだりもしたのに。
 そして。
 そのあたりから、この家のなかが荒れはじめた。壁に穴が開いたりガラスが割れていたり。おばさんがやつれだしたのも、このころからだ。
 そのことについて、海里はなにもいわないから、おれもはっきりとは聞けなくて。それに触れるのは禁忌だという、妙に張り詰めた空気に満ちていて。
 よくないとは思いながらも、見て見ぬふりをしてきた。
 こうして陸人と口をきくのはずいぶんひさしぶりのことだ。
「りっくん?」
「この家から出ていけ」
 低く、押し殺した声で彼はいった。
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