第4話

文字数 3,758文字

 ひとつ年下の弟のことを、海里は決して嫌いではなかった。少なくとも、小学生になって、孝太に対する自分の気持ちを自覚するまでは。
 弟の陸人は人見知りが激しくおとなしい性格で、いつも母親にくっついてはものいいたげに海里を窺っていた。きっと遊んでほしかったのだろう。海里がひと足先に幼稚園に入園してからは、海里がますます遠くなっていくように感じられて焦ったのか、おずおずと近寄ってきてはお気に入りの絵本を差し出して「よんで?」とねだってくるようになった。
 海里は言葉を覚えるのが早くて、その年ごろの子どもにしては、よどみない流暢な話しかたをした。子どもらしからぬ妙に落ち着き払った態度といい、なにもかもを見透かしたような眼差しといい、それらがあいまって、母親は海里にどのように接していいのか戸惑っているふうだった。
 だから、年相応に子どもらしい陸人に安心するらしく、母親は陸人をとてもかわいがった。
 ふつうならば、弟に母親を奪われたと拗ねたり癇癪を起こしてもしかたない状況なのに、海里はまったくそんなこともなく、ねだられれば応じて陸人に絵本を読んでやった。
 毎回、弟を邪険にするでもなく律儀に相手をする海里のようすにほっとしたのか、ふたり並んで絵本を覗き込む兄弟を見て、母親はほほえましいものを眺めるように目を細めて我が子たちを見守っていた。
 そんな、どこにでもあるような家族の団欒のひととき。
 その陰で、不穏な火種はすでに生まれはじめていた。
 幼い海里の小さな身体のなかで。

 *****

 海里にとって、同年代の幼児ばかりが集まる幼稚園はとくにおもしろくもない場所だったが、ただひとつだけ、海里の興味をひくものがあった。
 こうちゃん、だ。
 幼稚園の送迎バスではじめて乗りあわせるまで、海里は孝太の存在を知らなかった。近所に住んでいるものの、海里はあまり外出をしなかったし、あとで知ったことだが、孝太もアパートから出ること自体がほとんどなかったらしい。お互いに顔をあわせる機会がなかったのだ。
 孝太は小さな子どもだった。
 痩せているのはもちろんのこと、骨格そのものがひとまわり小さく、陸人よりも小柄なほどで。
 そして、親から手をかけられていないのがひと目でわかるほど荒んだ格好をしていた。肩に届くおかっぱ頭はたんに伸び放題なのがありありとわかるありさまで、着ている服も薄汚れていて、新品の斜めかけ鞄だけが異様に浮いていた。
 そんな孝太は、やんちゃ盛りの幼児たちにとって格好のいじめの的だった。とはいえ、まだ知恵のない子どものやること。悪口をいって囃し立てたり小突いたり、保育士が見かけても「そんなことしちゃダメよ」と注意する程度のもので。
 海里もあえて止めるつもりはなかった。幼稚で馬鹿なやつらに関わる気はない。もし、孝太が泣いて助けを求めていたら動いたかもしれない。だが孝太は抵抗すらせず、じっと耐えつづけていた。

 そんなある日。
 保育士の目が届かない隙を狙って、例によって孝太はやんちゃ坊主たちにいじめられていた。またか、と呆れて通りすぎようとしたとき。
「おまえ、ほんとおんなみたいなかおしてんな。ほんとにおとこなんかよ?」
 なにやら妙な空気を感じて海里は足を止めた。
「ぬがしてみよーぜ」
 三人組はよってたかって孝太をとり囲み、ふたりがかりで孝太を羽交い締めにすると、リーダー格の子どもが勢いよく孝太のズボンと下着をまとめて引きおろした。すかさず騒ぎ立てるはずの三人に奇妙な沈黙がおりる。
「やあっ!!」
 最初に沈黙を破ったのは孝太だった。いつもの耐え忍ぶ彼からは考えられないほどの大声をあげて必死に暴れ出す。抵抗されるとは思ってもいなかったのだろう。三人はあっさりと振りほどかれて尻もちをついた。
 邪魔なものが消えたので海里にも孝太の身体が見えた。
 ズボンで隠れていた太腿には、思わず目を背けたくなるような痣が広がっていた。ひとつふたつではない。
 ズボンを脱がされたままその場にしゃがみ込み、悲痛な声で泣きわめく孝太に三人組は呆気にとられている。なにかとんでもないことをしでかしてしまったのだと、ようやく気付きはじめたのだろう。彼らに近付いていくと、海里は孝太を庇うように身体の陰に隠し、三人に命じた。いや、脅した。
「いま見たことはだれにも話すなよ。孝太があんまりかわいいからって、興奮してよってたかってパンツを脱がしたことをみんなにばらされたくなかったらね」
 突然の闖入者に唖然としていた三人は、それでも、皮肉たっぷりの海里の言葉が、自分たちにとって不名誉なレッテルを貼られるたぐいのものであることはうっすらと理解したらしい。なかでも、リーダー格の子どもは身に覚えがあったのだろう。みるみるうちに真っ赤になり、おもしろいほどうろたえた。
 ざんばら頭で隠れてすぐにはわからないが、孝太はとてもかわいらしい顔立ちをしている。それこそ、ほんとうに女の子のように。やんちゃ坊主たちが孝太をいじめるのは、彼の気をひきたいがための稚拙なアピールでもあるのだろう。むしろそちらの比重が大きいに違いない。
「二度と孝太に近付くな」
 声を荒げるでもなく淡々と告げた海里が三人を端から順に見遣ると、彼らは弾かれたように一目散に逃げ出した。恐ろしいものから逃れるように。
 しゃがみ込んだまま泣きじゃくる孝太に向き直り、海里は手を伸ばした。
「こうちゃん?」
「やっ……いやっ、ごめんなさい、ごめんなさい」
 孝太はうずくまったまま頭を庇うように両腕をかざして、ひたすらごめんなさいを繰り返す。海里は黙ってその小さな身体を抱きしめた。孝太はぶるぶると震えている。
 しばらくすると震えも治まってきて、孝太は鼻を啜りながらおそるおそるといったようすで顔をあげた。海里を見て、びっくりしたように目を見開く。
「カイ、くん?」
 前髪の隙間から覗く、大きな目。透明な雫を湛えて揺れる、きれいな瞳。孝太はいつもうつむいているので、まっすぐに目を見つめるのははじめてだった。
 どくん、と心臓が騒いだ。

 ――――これが、欲しい。

 そう、思った。

 *****

 その日の帰り道。
 幼稚園のバスで家の近くまで送られた海里と孝太は、いつものように一緒にバスから降りた。迎えにきていたのは海里の母親だけで、孝太に迎えはいない。これもいつものことだ。海里は孝太の母親を見たことがない。
 孝太が住むアパートは、海里の家よりも手前にある。だからいつもはアパートのまえまで三人で歩いて「じゃあまた明日ね」という海里の母親の挨拶で別れる。
 でも今日は違った。
 とぼとぼと歩いていた孝太がアパートのまえで足を止めたとき、海里は孝太の手を掴んだ。孝太がびっくりした顔で海里を見あげる。
「うちで、こうちゃんと遊んでもいい?」
 海里の言葉に、母親は驚いたように目を見開いて海里を見つめる。海里がそんなことをいうのははじめてだった。単独行動を好む海里は、陸人にねだられたとき以外、自ら進んで他人と時間を共有することはなかった。
 めったに聞くことのない子どもらしい海里の言葉に、母親は頬を紅潮させて嬉しそうにうなずいた。
「もちろんいいわよ」
 孝太はぽかんとした表情のまま、それでも素直に海里についてきた。
 玄関のドアを開けると、いつもなら昼寝をしているはずの陸人が起き出してきて、母親の姿を探してぐずっていた。
「あら、りっくん、起きてたの。ごめんね、ひとりにして」
 母親があわてたように陸人を抱きあげてあやす。そのようすを、孝太がぼんやりと眺めていた。
「孝太くん、どうぞあがって。ドーナツは好きかしら?」
 母親の問いにこくんとうなずく孝太の手を引っ張ってバスルームに向かう。
「こうちゃんとお風呂に入る」
 海里の宣言に母親があわてふためく。
「え、お風呂? ちょっと待ってカイくん、すぐに用意するから」
「大丈夫。陸人の相手してていいよ」
 ふだんから海里は自分ひとりで風呂に入る。子どもだから危ない、と母親は思うのだろうが、海里は良くも悪くも一般的な子どもの範疇にはあてはまらない。それは母親自身がいちばんよくわかっているはずだ。
 お風呂と聞いて、孝太は顔を強張らせた。足を踏ん張って抵抗する。海里は振り向いて孝太にささやいた。
「心配しないで。だれにもいわないし、ぼくはこうちゃんを殴ったりしない」
 孝太はいっぱいに目を見開いたあと、うつむいてぎゅっと唇を引き結ぶ。泣くかと思ったが、孝太は泣かなかった。おとなしく海里についてきた。しかし、脱衣所で服を脱ぐのをかたくなに拒んだ。海里はため息をついて孝太に尋ねた。
「最後にお風呂に入ったのはいつ?」
 孝太はうろうろと視線をさまよわせた。海里と違って、ふつうの幼稚園児はおとなの手助けなしに風呂には入れない。孝太が、本来なら必要なはずの保護を受けていないのは、彼のようすから見て取ることができた。
「きれいにしてあげる」
 そういって孝太の服に手をかけると、孝太は観念したようにうなだれて海里に身をゆだねた。
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