第8話

文字数 4,170文字

 だが、海里は孝太と出会ってしまった。
 生まれてからはじめて、なにかを欲しいと強く望んだ。眠っていた獣が目覚めてしまった。
 孝太さえ手に入るならどんなことでもする。ほかのことなどどうでもいい。そう思うくらい、強く惹かれる存在に出会ってしまった。
 もう戻れない。
 抑圧されてきた本能が孝太だけを求めて暴走しはじめる。
 だれにも渡さない。
 孝太は海里だけのもの。
 相手が血の繋がった弟であろうと関係ない。孝太に近付くなら排除するまで。
 その日から、陸人は海里にとって敵となった。そして陸人にとっても、海里はひどく横暴で理不尽な暴君となり、幼い兄弟は訣別した。

 *****

「こうしておまえと会うのはずいぶんひさしぶりだな」
 女性のみならず、男でも痺れてしまいそうな深いバリトンが座敷に響く。
 人払いをした料亭の一角。
 今朝、自宅に届けられたばかりのオーダーメイドのスーツを身にまとった海里は、向かいに座った男を無表情で見遣る。その視線の先、見るからに仕立てのいい三つ揃いを着こなした男は、役者さながらの風格ある端整な面差しで海里を見つめ返した。形のいい薄い唇に笑みをのせている。
「そうですね」
 あからさまに気のない返事をする海里に、男の笑みが深くなる。気を悪くしたふうもなく、おかしそうに目を細めてさばさばとした口調でつづけた。
「相変わらずつれないな。たまには相手をしてくれてもいいだろう?」
「ご多忙でしょう。貴重なお時間をぼくなんかに費やすのは無駄だと思いますが」
「忙しいからこそ、たまにはこうして息子の顔を見たくなるんじゃないか」
「失礼いたします」
 ふいに、柔らかな女性の声がして襖障子が開けられる。先ほど海里をこの座敷まで案内した女将が三つ指をついて丁寧に挨拶をする。
「料理をお持ちいたしました」
「ありがとう」
 男が軽くうなずくと、女将につづいて仲居の女性がふたり、恭しく膳を運んでくる。てきぱきと配膳をする女将に男が声をかけた。
「女将、これ、私の息子なんだ」
 あっさりと告げた男の言葉に海里と女将はぎょっとして目を見開く。だが、さすがは女将。すぐに表情を切り換えて控えめな視線を海里に送ってきた。
「まあ、そうですか。先生にこんなご立派なご子息がいらっしゃるなんて存じませんでしたわ」
「うん、秘密なんだ」
 先生と呼ばれた男は、笑みを浮かべたままなんでもないことのようにうなずく。だが目は笑っていない。女将はすっと表情をひきしめて深々と頭を下げた。見ざるいわざる聞かざる。瞬時に暗黙の了解がなされた。
 今度こそ完全に人払いをした座敷には、微妙な空気が流れた。海里は小さくため息をついて男を睨む。
「いいんですか、あんなふうにばらして」
 男は動じない。
「かまわない。へんに隠すから詮索したくなるんだ。それなら最初から事実を告げたほうがいい」
「スキャンダルは命取りでは?」
 海里の言葉に男は面白そうに笑った。
「私の心配をしてくれるのか」
 ばかばかしくなって海里は口を噤んだ。海里は幼いころから、この掴みどころのない男が苦手だった。
 男――野々宮は、海里と陸人の父親だが、そのことは世間には伏せられている。野々宮には妻子がある。海里たちは庶子、つまり妾の子どもだった。しかし、認知はされているので野々宮の姓を名乗っている。
「とりあえず腹ごしらえをしよう。食べなさい」
 野々宮が箸を取るのを見てから、海里もそれに倣う。ひと抱えもある膳には、趣向をこらした料理の数々が上品に盛りつけられている。
 部屋にひとり残してきた孝太のことを思う。
 あんなに食べることが好きだった孝太が、最近はほとんど食べものを口にしなくなった。好物の甘いものでさえ、ひとくちふたくちかじっただけで残してしまう。
 そうして終始、怯えた顔をして海里を窺う。
 孝太の笑顔が見たい。
 嬉しそうに笑うあの笑顔が。
 孝太に逢いたい。
 一時間ほどまえに離れたばかりなのに、もう、孝太に逢いたくてたまらなくなった。
 箸を使いながら海里は向かいの男をちらりと見遣る。野々宮はなにがおかしいのか、ひとり笑みを浮かべたまま機嫌良さそうに刺身をつまんでいる。
 今朝、突然、老舗のテーラーで仕立てたらしいこのスーツを届けに、野々宮の秘書が訪ねてきた。
「今夜、19時にお迎えにあがります」
 という一方的な伝言とともに。
 野々宮という男はときどきこういう真似をする。海里にかまっている暇などないだろうに、わざわざ時間の隙間を縫っては海里に接近してくる。海里がいやがることをわかってやっているに違いないのだから、たちが悪い。
 ほんとうなら今ごろは孝太とふたりきりで過ごしていたはずなのに。
 無表情で機械的に料理を口に運ぶ海里を、野々宮はおもしろそうに観察している。

「陸人は全寮制の学校に無事編入したよ」
 唐突に切り出された言葉に海里の手が止まる。
「かなり抵抗されたがね。このままおまえの近くにいたらさすがに危険だからな。兄弟、仲良くしてくれるのがいちばんなんだが」
 そう厭味たらしくつぶやく声すら無駄にいい声で。海里はむっつりしたまま端的に応える。
「お手数をかけました」
「……ふ、なに、かまわんよ。かわいい息子たちのためだ」
 しらじらしい台詞に、海里は唇だけで笑う。この男が子どものためという理由だけで動くはずがない。油断ならない相手だというのは海里自身がよくわかっている。
「ああ、そういえば、孝太くんは元気かい」
 油断も隙もないとはこのことだ。野々宮は素知らぬ顔をしてとっておきのカードを切ってきた。
「――――、ええ」
「今年の夏はまたいつにも増して暑いから、孝太くんもつらいだろう。なにか精のつくものを見繕って送らせよう」
「いえ、お気遣いなく」
「いったいいつになったら私に紹介してくれるんだろうな」
 海里は黙って蓮根の天ぷらを咀嚼した。歯ごたえがあるので飲み込むまでに時間がかかる。いつもより丁寧に噛み砕きながら視線をあげる。
 野々宮はじっと海里を見つめている。捕らえた獲物にとどめを刺さず、苦しむさまを眺めながらじわじわといたぶる獣のような残虐な目つきをしている。
 だが、恐怖はない。海里にあるのは嫌悪感だけだ。海里はその目を知っている。幼いころからその視線に晒されてきた。
「おまえはほんとうにかたくなだな。そろそろ飽きてきたんじゃないか」
「なにが、です?」
 口のなかのものを嚥下してから海里は聞き返す。
「そうやって、猫をかぶりつづけることに」
 野々宮はリラックスした姿勢で隙なく海里を見据えながら蓮根の天ぷらにかじりつく。この男の仕草は無造作なように見えて品がある。獣のような荒々しさを柔らかな物腰でうまく包み込んでいるのだ。海里のように。
「ああ、これはうまいな」
 さくさくと小気味よい音を立てて蓮の根を味わいながら野々宮は感嘆の声を洩らす。海里にとっては味などどうでもいい。一刻でも早くこの場から立ち去りたかったが、野々宮より先に箸を置いたら負けだ。喰われる。
 そういうゲーム、なのだ。
 少なくとも野々宮にとっては。
「おまえは頭がいい。良すぎるほどだ。そしてそのリスクをよくわかっている。だが、いかんせん、慎重すぎる。宝の持ち腐れもいいところだ」
「――――買いかぶりです」
 野々宮は笑う。
「つまらん謙遜などするな。おまえには翼がある。凡人には一生かかっても見ることのできない景色を目にするだけの力がある。それなのに、なぜ飛ばない? いつまでそうして地に這いつくばっているつもりだ」
 翼などいらない。そういってしまえたらどんなにいいか。
 だが、そうはいかない。野々宮はそうやって海里が尻尾を出すのを今かいまかと待ちかまえている。力ずくで海里を従わせることをしないのは、たんに野々宮の趣味だろう。真綿で首を絞めるようにじわじわと相手を追い詰めていくのがこの男の好みだ。端整な見た目にそぐわず、やることがえげつない。
 そういう意味でも、海里はたしかにこの男の血を受け継いでいる。認めたくはないが。
 翼、というのはもちろん比喩だ。
「その他大勢の取るに足らない者たちにあわせて手を抜いてレベルを下げて、そうまでしてなにが手に入る? つまらん妬みや嫉み、欲に群がる者どもなど気にせず捨て置けばいい。そんなものが届かない高みまでのぼりつめる力がおまえにはあるはずだ」
 ひとをたぶらかす悪魔のささやきというのはこういう声をしているのかもしれない、と海里は思う。恐ろしくいい声で恐ろしく傲慢な台詞をいい放つ。あからさまな選民意識の露呈に、さすがに海里は眉をひそめた。
 野々宮は自身がたった今、取るに足らないと容赦なく切り捨てた存在を含む民のために尽力すべき立場にある。身のうちに残虐さを好む獣を飼いながらも、見目好い姿と巧みな言葉で人びとの目を欺き、手のうえで権力を転がす。魑魅魍魎がひしめきあうこの国の中枢では、そのくらい強力な面の皮がなければ生き残ることは難しいのかもしれないが。
 ただの俗物ならまだいい。地位や権力に固執するだけの政治家など掃いて捨てるほどいるし、そういう輩は保身に走るあまり互いの足をひっぱりあい、やがては自滅する。
 だが、野々宮は違う。
 それなりに執着はあるのだろうが、この男にとってもっとも大事なのは、おもしろいかどうか、それだけだ。今の地位に就いているのも、そのほうがよりおもしろいものに出会えるからに違いない。
 まともなおとなのすることではない。

 海里は頭のいい子どもだった。
 驚くほどの速さで言葉の扱いかたを覚えると、頭のなかにあったものたちに形を与えて整理して相手に伝えることを、だれに教わるでもなく自ら行った。それが一般的ではないと理解したのは、母親の反応からだった。
 まだろくに歩けもしない幼児がおとなのような流暢な言葉を操り、小さな手でペンを握りしめて真っ白な紙にびっしりと数字の羅列を書き殴るのだ。
 悪魔を見たような、恐怖に見開かれた母親の目を海里は今もはっきりと覚えている。
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