第1話

文字数 4,477文字

 海里とは幼稚園に通うころからの付き合いで、もう、そばにいるのがあたりまえの存在だった。
 月並みないいかただけど、空気みたいに、そこにあるのが当然で。それがなくなるなんて考えたこともなかったし、空気と同じで、なくなったら生きていけない。
 いつのまにか、そんなかけがえのない存在になっていた。
 だから、この先もずっと一緒なのだと、なんの疑問も持たずに思い込んでいた。
 だけど。
 そう思っていたのはおれだけで。
 ずっとそばにいたのに。やさしい笑顔の下で海里がなにを思っていたのか、おれは少しも気付かなかった。

 *****

 七月に入ったばかりでまだ梅雨も明けていないというのに、すでにこの先の猛暑を予感させるような蒸し暑い日が続いていた。
「暑い」
 梅雨の晴れ間。雨雲ひとつ見当たらない真っ青な空から、容赦なく照りつける鬼畜な太陽に頭を押さえつけられるように、おれはぐったりとうつむいて歩いていた。
 くそ、夏なんか大嫌いだ。暑いだけで、いいことなんかなにもないし。
 いつものように、心のなかで呪詛の言葉をつぶやいていると、隣を歩いていた海里がいった。
「家に帰ったらアイスが待ってるから、もう少しがんばれ」
 アイス。その単語に、だらんとしていた背筋がしゃきんと伸びる。そんな単純なおれをくすっと笑いながら、海里がバッグを持ってくれる。
「あ、サンキュ」
「どういたしまして」
 顔をあげると、海里はこのくそ暑い炎天下をものともせず、涼しげな横顔を見せている。うっすらと汗をかいているけれど、おれみたいに見苦しい感じは全然なくて、同じ制服のはずなのに、白いシャツがやけに眩しい。
 小さいころから空手を習っていたせいか、姿勢もいいし、なんていうか、隙がない。
「そんな目で見つめられると、勘違いするよ」
 まえを向いたまま海里がつぶやく。
「は? 勘違いって、なにが?」
 聞き返すと、海里はちょっと笑って、静かに首を振った。
 なんだろう。
 おれは首を傾げた。
 海里の家は、おれが住んでるアパートの近くで、子どものころからしょっちゅうお邪魔しては、時間をつぶしていた。
「ただいま」
 いつものように、海里のあとについて玄関に足を踏み入れる。きれいに掃除された家のなかに、ところどころ、異様な爪痕が刻まれていて、もう毎日のように目にしているのに、それらを見るたびにぎょっとしてしまう。
 廊下の奥から海里の母親が現れた。
「お帰りなさい」
 おれの母親と違って、良家のお嬢様といった雰囲気の海里の母親――おばさんは、数年まえから急速にやつれはじめて、いつも身奇麗にしているのだけど、それがかえって痛々しく映る。
 今も、無理をして笑顔をつくっているのがありありとわかって、見ているおれのほうがなんだか心苦しくなる。
「お邪魔します」
 ぺこりと頭を下げると、おばさんはあきらかにほっとした表情になり、まるで縋りつくような目をして「ゆっくりしていってね」といった。
 おれは戸惑いながら「はあ」とうなずいて、二階へつづく階段をのぼる。
 その、壁にも。穴が開いていたり、ひびが入っていたりして。家じゅう、殺伐とした空気に支配されている。つきあたりの海里の部屋に入って、ベッドにもたれて座り込む。海里がすぐに冷房の電源を入れて「ちょっと待ってて」と出ていく。整理された机に、本棚とベッド。ぐちゃぐちゃのおれの家とは違ってすごく落ち着く、けど。
 この部屋はなんともないけれど、ドアの向こうでは、凄まじい暴力の痕が残っていて。しかも、それは今もどんどん増えている。
 おれがまだ小さかったころは、こんなことはなかったし、おばさんもあんなふうにやつれたりしていなかった。
 どうして。
 海里が戻ってきた。お茶をのせたトレイと、おれの好きな棒つきのアイスを手に持っている。
「ありがと」
 受け取ってさっそく袋を開けると、チョコでコーティングされたアイスにかじりつく。はー、生き返る。チョコと冷たいバニラアイスを口のなかで転がしながら、至福を味わった。隣に座った海里は、グラスに注いだ烏龍茶を飲んでいる。海里は甘いものが好きじゃないらしい。
 アイスと冷房のおかげで、ようやく汗がひっこんできた。食べきるまえに溶けはじめたアイスが手にこぼれてくる。
「わ、わ」
 ふいに伸びてきた手が、あわてるおれの腕を掴むと、指から手首へと伝い落ちるアイスを舐めとる。すぐ目のまえで、海里がおれの手を舐めている。びっくりして、おれはそのまま固まった。
 かろうじて棒にくっついていた残りのひとかけらが落ちかけて、間一髪で海里がそれを受け止める。口に咥えたそれを、おれの唇に運んでくる。
 え、と思ったとき。
 口移しでアイスを押し込まれた。
 おれの咥内で、海里が舌先でアイスをもてあそび、溶かしていく。舌のうえに広がるバニラをどうにか飲み込んで、口のなかが空になると、海里の舌がおれのそれに絡みついてきた。
「っん、んぅっ」
 頭を振って逃げようとしても、海里の手がおれの後頭部を掴んでいて身動きができない。
 なに。なんで。なんでこんな。
 パニックになりかけたおれを宥めるように、海里の手が頭を撫でる。
 ようやく唇が解放されて、おれははあはあと息をした。目の前に海里の顔がある。冗談だよ、と笑うのかと思った。いつもみたいに、おれをからかったのだと思った。
 けれど。
「好きだよ」
 笑わないまま、真剣な表情をして海里はささやいた。
「え?」
 おれは目を見開いて聞き返した。
 今、なんていった?
「孝太が好きだ」
 海里ははっきりと繰り返す。
「ずっと好きだった。でも、そんなことをいったら孝太はびっくりして、ぼくを嫌いになるかもしれないと思うと、いえなかった」
 しっかりとアイスの棒を握りしめたままだったおれの手からそれを取りあげると、海里はその指先に唇を寄せて言葉を続けた。
「だけどもう限界だ。我慢できない。今までみたいに、友達のふりをして孝太のそばにいるのは苦しい。だから孝太に選んでほしい。ぼくの恋人として、これからもずっと一緒にいるか、それとも、今後いっさい関わらないで、きっぱりとさよならをするか、どちらかを」
 突然のできごとに、おれはただ呆然とするしかない。
 海里が、おれを、好き?
 そのあとにつづくありえない選択肢も、冗談としか思えない、けれど。
 やっぱり、海里は真剣な眼差しでおれを見つめていて。
「ちょっ……え? す、好きって、あの、おれ、男だし」
 ごにょごにょとつぶやくおれに、海里がふっと目を伏せる。
「やっぱり、気持ち悪いよな」
 いつも揺るがない海里が力なくうなだれるのを目のあたりにして、おれは狼狽した。はっきりいって、告白されたことより、今の海里の反応のほうが遥かに衝撃的だった。
「や、ちがっ、べつに、気持ち悪いとかじゃなくて」
 しどろもどろに説明するおれを、海里が不安そうに見ている。なんだこれ。
 海里は性格的に押しが強いとかでしゃばりとかじゃないけれど、自分の意思をしっかり持っていて、なにがあっても揺るがないし絶対になびくこともない。物静かだけど、頑固。そう思っていた。なのに。
 おれのせいで、海里が揺らいでいる。冗談ではありえない。海里は、本当に、おれを?
「こ、恋人って、えっと、どんなの?」
 おれは今までそういう相手がいなかったから、恋人というのがどんなものなのか、よくわからない。
「基本的には今までと同じだよ。一緒に通学したり遊んだり。あとは、キスをしたり、それ以上のこともしたり」
「そ、それ以上って」
 一瞬で顔が赤くなるのがわかった。
 おれが、海里と?
 むっ、むりむり!
「ちょ、や、え、それ無理だろっ!」
 思わず叫ぶおれに、海里がにじり寄る。
「どうして? 無理じゃないよ。ちゃんとやさしくする。なるべく痛くないように、孝太が気持ちよくなれるようにしてあげる」
「――――っ、」
 あからさまなものいいに身体じゅうが熱くなる。
 いや、待てまて!
「こっ、恋人じゃなかったら?」
「恋人になれないなら、ぼくは孝太から離れる。行きたい大学がふたつあって、ひとつは地元だけど、もうひとつは県外だから、ちょうどいい。孝太がぼくのものにならないなら、県外に絞って、もうここには帰ってこないようにする」
「そんな」
「ほんとうは、友だちのままずっとそばにいられたらよかったけど。ごめん。耐えられない。このままそばにいたら、無理やり力ずくで孝太を襲ってしまう。孝太に触れられないなら、距離を置くしか、自分を抑える方法がないんだ」
 海里が、いなくなる。
「いやだ」
 首を振って海里のシャツにしがみつく。
「なんで、そんな、ずっと一緒だって思ってたのに」
 駄々っ子のようになじるおれを抱き寄せて海里がささやく。
「じゃあ、ぼくを選んでよ」
 耳朶をくすぐるように息を吹きかけられてぞくりする。いやだ。こわい。
「やっ」
 思わず海里を突きとばしたけれど、膝が震えて立ちあがれない。わけがわからなくて頭が混乱してこわくて。じわっと涙があふれてくる。歯を食いしばってごしごしと顔を擦っていると、ぎゅっと抱きしめられた。
「泣かないで。ごめん、孝太」
 普段と同じやさしい声でささやかれて、抵抗しかけた手から力が抜ける。そのまま海里の背中に腕をまわして抱きつく。
「な、泣いてないからなっ」
「うん」
 汗で冷たくなったおれのシャツを、海里の手があやすように撫でる。今まであたりまえに触れていた、馴染んだ感触。ずっとそばにあるのだと疑いもしなかった。けれど。
「すぐに、答えを出さなくていい。でも、考えて、選んで」
おれは黙ってうなずくしかなかった。

 *****

 すすめられるまま晩ご飯をご馳走になって、おれはアパートに帰った。泊まっていけばいいといわれたけれど、そういうわけにもいかない。今までならともかく、海里の気持ちを知って、それでも平気でそばで寝られるはずがない。
 だれもいない真っ暗な部屋。すえたような臭いに顔をしかめて、真っ先にベランダの窓を開け放つ。白々しい蛍光灯の明かりに照らし出された狭い室内は、足の踏み場もないほどものが散らばっていて、とにかく汚い。敷きっぱなしの布団はシーツが乱れたままで、情事のあとがくっきりと残っている。乱暴にシーツを剥いで、ベランダの洗濯機に放り込む。
 これが、おれの日常。
 母親とふたり暮らしで、その母親は息子のおれから見てもかなりのあばずれで。気に入った男を部屋に連れ込んでは見境なく情交を繰り返す。おれがまだ幼いころからそうだった。その行為の意味も知らないうちから、おれは毎日のように母親の痴態を見せられてきた。
 そんな汚れた生活のなかで。
 海里だけが、あの家の人たちだけが、おれを救ってくれた。

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