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 彼らが出会ったのは、早春の頃だったという。
 貧民街には似つかわしくないほど理知的な眼差しをした彼女には、フィデル自身も一度だけ会ったことがある。蓮っ葉な物言いは、いっそ小気味良く、彼女がそのように装っているのだということは容易に知れた。
 どうして彼女がそこへ落ちたのか、聞いたことはなかった。彼女を前にすれば、そんなことは小さなことのように思えたし、言うまでもなく野暮なことだろう。自由な女は何処までも自由であり、飾り気もなく共に飲み笑うことは久し振りで、フィデル自身も楽しかったのだ。
 だから、己に自信がなく引っ込み思案の友人が、そんな彼女に恋したことは、フィデルにとっては好ましく愉快なことだった。そのうち御目出度い話が聞けるのだろう、とのんびり構えていた彼は、だから彼女が亡くなったのだと伝え聞いて驚いたのだ。
 取る物も取り敢えず駆け付けた古城で見たのは、予想通りに悲嘆に暮れる友人ではなく、幸せそうに赤子を抱える姿。
 それには流石に驚かされたが、察して「違うのだ」と静かにかぶりを振ったのは、かの家の家令(スチュワード)だった。結局、彼は秘めた想いを何も伝えぬまま、身重の彼女を手許に保護したのだという。だからあれは、血混(ダンピール)ではありえないと。
 それでも彼らは最後まで気高かった彼女を女主人(ミストレス)と認めていたし、その娘は仕えるべき愛らしい御子であったのだ。彼女の忘れ形見だという赤子は、古城のヒトビトに望まれて、そのまま彼の養女となった。
 彼らにとって、ヒトの成長は早い。
 かの古城のヒトビトに愛されて、赤子は麗しい淑女へと成長した。彼女の物言いは養父に影響されてかおっとりとしていたが、視点の鋭さは母譲りらしく、語り合えば有意義な時間を過ごせるほどの才媛でもあった。
 年頃となれば、上流階級の間で引く手数多となるだろう。そう笑うフィデルに、友人が静かにかぶりを振って言ったのを憶えている。
 あの子には、望むように生きてほしいのだ、と。
 この国の爵位保持者は、殆どが長命種だ。友人のように、当面は跡取りを必要としない者もいる。フィデルにしても、代替わりは当分先のことになるだろう。
 だから縛りたくはないというのは、わからないでもない。
 けれど、それに異を唱えたのは、姫自身だったのだ。実際に聞かされたのは、フィデルだけであったけど。
 アルントったら、わたくしがフィデルを好きだと思ってるのよ。
 ある日、ぷりぷりと怒りながら零した彼女は、すっかり母に似た麗しい面を曇らせて、切な気にため息を落としたのだ。
 彼女の切ない胸の内を知らされたのは、おそらくフィデルだけだろう。友人の性格を熟知している彼女は、結局は口を噤んで、娘盛りの頃を古城で過ごしたのだ。そうしてある日、養父へ切り出した。
 自由に、と仰るお言葉の通り、家を出て一人で暮らしていこうと思います。
 供を、と慌てる養父にあっさりと背を向けて、彼女はさっさと出奔した。今から、およそ五十年程前のことだ。どうやらこんな所も、彼女は母に似ていたらしい。
 フィデルが初めて見たくらいに取り乱した友人は、彼に取りすがって懇願したのである。君の言うことならきっと聞くから、と言った友人は、やはり誤解したままだったのだろう。
 とはいえ、友人として純粋に彼女の身を案じたフィデルは、一つだけ手助けすることにしたのだ。自分の膝元であるシャフツベリの城下町、色々な種族が一緒くたに混じりあうあの土地に、彼女が落ち着ける家を用意したのである。
 後は自分の才覚でやっていきなさい、と告げた彼に、彼女は楽し気に笑って頷いた。
 そうして暮らし始めた彼女は、予想外に才能を発揮して悠々自適に暮らしている。時折、ふらりと顔を出すフィデルを午後のお茶に招いて、つらつらと世間話をするのも、いつしか習慣となった。彼にとって、重要な息抜きの時間でもある。
 この語らいが養父へ筒抜けとなっていることなど、疾うに承知していたのだろう。一度だけ、そんなに心配なら訪ねていらしたらいいのに、とむくれたことがある。
 そんな彼女が近頃育てている使用人(メイド)は、なかなか面白い娘だ。あれは将来、王室へ召し抱えられるようになるだろう。順当に行けば、この国は女王を擁するようになるはずだから。
 下宿人も新しくなったと伝え聞いていたが、それがまさか、歴史学者兼魔女だとは思わなかった。地域の評判も上々で、自然とオルグレンの魔女との二つ名を冠していたらしい。
 今、彼の手許には面白いことが揃っている。
 そう笑うと、古い友人であり、共にこの国の成り立ちから支えてきた同士でもある、ウェルテ国アルクィン伯アルノルト・シュテファン・エッカートは、不服そうにため息を落としたのだった。彼は未だに、フィデルが愛娘であるオードリー・アンネ・エッカート嬢を娶らなかったことが不満なのだ。
 けれどフィデルに言わせれば、そんなこと、天地がひっくり返ってもあり得るはずがないではないか。流石に彼だって、馬に蹴られたくはないのだから。
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