麗しき夜の君について
文字数 2,355文字
ウェルテは魔素生物に牛耳られた国であるが、そうなったのは必然と言えた。そもそも、かの英雄王が盟友とした者たちがそうであったし、当時の魔素生物への酷い弾圧へ抵抗した末に建国されたという経緯がある。
とはいえ、国家の柱たる王家やその周辺は人間たちで固められており、彼らは「決して魔素生物と血を交わらせてはならぬ」との英雄王の厳命を守って存続していた。これは一つの共同体として、各々が種族の誇りを忘れぬようにという、英雄王の理念が元となっているらしい。
そして同時に、彼らはお互いに監視しているのだ。
長命な者が首長となる利点は、長期展望による統治が可能となる点だろう。優れた者が采配を振り、恙無く国家を運営していく。そんな彼らを柱たる人間たちは監視し、監視者足り得る優れた人間を、彼らは代々拝してきたのだった。
そんなウェルテに於いて、宰相は国内に住まう魔素生物の頂点と言えよう。しかし彼女は国内全てへ目を配る調停役として、ひっそりと玉座の下に控えている。
その艶姿は至宝、と。
囁かれていることなぞ奇麗に聞き流し、麗しき夜の君と他国に名高い才媛は、黙して語ることはない。平和な世に於いて、彼女はその天女の如き美貌ばかりが取り沙汰されるのだ。
しかし、その夢想が現実に近付くことは、残念ながらありそうもない。
◇◆◇
シャフツベリ卿、と声を掛けられて立ち止まったフィデルは、振り向いた先に泣き黒子の女性を認めて黙礼をした。
やってきたのは、祖国の衣服をきっちりと纏った涼やかなヒトだ。いつものように長い艶やかな黒髪を背に垂らし、顔にかかるぶんを纏めて後ろへ結い上げた髷に、装飾の少ない銀の簪を挿してある。
聞いた話では、この衣服は男物に近いらしい。彼女の故郷で、やはり文官が身に着けるものと、よく似ているそうだ。
日々忙しく働いている彼女は、数日前から王都を離れていたらしい。今度の滞在中に顔を見ることはないかと思っていただけに、その仕事の早さに驚かされるばかりだ。
「やぁ、グレアム宰相。戻ったのか」
「こたびの騒動、無事に終息したそうだな」
陛下から伺った、と快活に笑う。そうして彼女は、にんまりと唇の端を吊り上げた。
「マロリー殿は息災か?」
「相変わらず」
「それは良かった。吾 が気にしていたと、伝えてくれ」
毎回、顔をあわせる度に行われる恒例のやり取りだが、ラッセルが彼女を訪ねることはないし、彼女も訪ねはしないだろう。当人たちは多くを語らないが、彼らの故郷で旧知の間柄だったらしいと、プリジェン卿から聞いたことがある。当人たちに語る気がない以上、殊更に聞く気もないけれど、何とも不思議な取り合わせだ。
彼女が竜族 を差し置いて宰相の地位にあるのは、その聡明さや知識も然ることながら、竜化していないとはいえ、武人として名高い南方守護のアッシュベリ卿が勝てない相手でもあるからだ。おそらく純粋に力比べをしたとして、竜化しなければフィデルも勝てないことだろう。
彼女は、西では滅んだ鬼族 と似て非なるモノ。夜叉と、東で呼ばれる種族らしい。
時間があるなら顛末を聞かせてくれ、と誘われて、彼女のために誂えられた東屋へ足を向ける。そこに控える女官たちは、彼女が祖国から連れてきた者たちだ。
プリジェン卿の居城で供される茶とは、また違った香ばしい茶を戴きながら、請われるままに顛末を語っていると、彼女はふと目を丸くした。
「形代? 珍しいな、そんなものを扱える者が、この時代にまだいるのか」
そいつは東方の、随分古い術なのだと言う彼女に、フィデルも頷く。
「そうらしいね。なかなか精度が高いのだと、世界図書館 の管理者が感心しておられたよ。彼女がご存知だというから、私も習ってみようかと思っていて」
「ほう。覚えてしまえば、便利がいいのは確かだな。シャフツベリ卿ならば、優れた使い手となろう。しかし、それならマロリー殿から習われたが宜しかろうに。あれの術式は素晴らしいぞ」
鳶色の目を煌めかせ、愉快そうに目を細める彼女に瞬いて、フィデルは訝しく眉根を寄せた。
「ラスが?」
「あれは、あなたに何も話していないのだな」
呆れ顔で嘆息して、あれらしいと言えるか、とぽつりと零す。そうして、気を取り直した様子で微笑んだ。
「あれは、吾が唯一敗北した男だ。巧く使うといい、暗躍させてこそ光るだろう」
建国当時、爵位を辞退したラッセルについて、英雄王へ無理強いを諌めたのが彼女だったのだと、唐突に思い出す。その当時も確か、自ら表に立つような男ではないと言っていたはずだ。思えば、彼らが顔を合わせたのは、それが最後ではなかっただろうか。
それはさておき。
「ラスに、あなたが? それは意外なことを聞いたな」
「なに、吾も若かったのさ。あれも大概若造だったはずだが、なかなか見事な手腕だった。だというのに、今度は遅れを取ったとは。腑甲斐無いことだな、元主人 殿は」
ため息混じりに吐き出された一言に耳を疑い、唖然と見遣るフィデルを愉快そうに見遣って、彼女は声を立てて笑う。そうして、にんまりと笑みを紅唇へ乗せたのだ。
「国中から佳人が集められた主上のための花園に於いて、長らく隠れ棲み暗躍する吾を見い出した。大した男には違いないさ」
後に、英雄王から名の意味を問われた彼女は、月のない夜のことだと答えたという。それを聞いた英雄王はリーラと新たな名を授け、傍らへ侍るよう命じたのだった。後にそれを聞いたラッセルが、解ってるなぁ、と唇の端を引き上げたことを憶えている。
以来、彼女の二つ名は、夜の君なのだ。
〈了〉
とはいえ、国家の柱たる王家やその周辺は人間たちで固められており、彼らは「決して魔素生物と血を交わらせてはならぬ」との英雄王の厳命を守って存続していた。これは一つの共同体として、各々が種族の誇りを忘れぬようにという、英雄王の理念が元となっているらしい。
そして同時に、彼らはお互いに監視しているのだ。
長命な者が首長となる利点は、長期展望による統治が可能となる点だろう。優れた者が采配を振り、恙無く国家を運営していく。そんな彼らを柱たる人間たちは監視し、監視者足り得る優れた人間を、彼らは代々拝してきたのだった。
そんなウェルテに於いて、宰相は国内に住まう魔素生物の頂点と言えよう。しかし彼女は国内全てへ目を配る調停役として、ひっそりと玉座の下に控えている。
その艶姿は至宝、と。
囁かれていることなぞ奇麗に聞き流し、麗しき夜の君と他国に名高い才媛は、黙して語ることはない。平和な世に於いて、彼女はその天女の如き美貌ばかりが取り沙汰されるのだ。
しかし、その夢想が現実に近付くことは、残念ながらありそうもない。
◇◆◇
シャフツベリ卿、と声を掛けられて立ち止まったフィデルは、振り向いた先に泣き黒子の女性を認めて黙礼をした。
やってきたのは、祖国の衣服をきっちりと纏った涼やかなヒトだ。いつものように長い艶やかな黒髪を背に垂らし、顔にかかるぶんを纏めて後ろへ結い上げた髷に、装飾の少ない銀の簪を挿してある。
聞いた話では、この衣服は男物に近いらしい。彼女の故郷で、やはり文官が身に着けるものと、よく似ているそうだ。
日々忙しく働いている彼女は、数日前から王都を離れていたらしい。今度の滞在中に顔を見ることはないかと思っていただけに、その仕事の早さに驚かされるばかりだ。
「やぁ、グレアム宰相。戻ったのか」
「こたびの騒動、無事に終息したそうだな」
陛下から伺った、と快活に笑う。そうして彼女は、にんまりと唇の端を吊り上げた。
「マロリー殿は息災か?」
「相変わらず」
「それは良かった。
毎回、顔をあわせる度に行われる恒例のやり取りだが、ラッセルが彼女を訪ねることはないし、彼女も訪ねはしないだろう。当人たちは多くを語らないが、彼らの故郷で旧知の間柄だったらしいと、プリジェン卿から聞いたことがある。当人たちに語る気がない以上、殊更に聞く気もないけれど、何とも不思議な取り合わせだ。
彼女が
彼女は、西では滅んだ
時間があるなら顛末を聞かせてくれ、と誘われて、彼女のために誂えられた東屋へ足を向ける。そこに控える女官たちは、彼女が祖国から連れてきた者たちだ。
プリジェン卿の居城で供される茶とは、また違った香ばしい茶を戴きながら、請われるままに顛末を語っていると、彼女はふと目を丸くした。
「形代? 珍しいな、そんなものを扱える者が、この時代にまだいるのか」
そいつは東方の、随分古い術なのだと言う彼女に、フィデルも頷く。
「そうらしいね。なかなか精度が高いのだと、
「ほう。覚えてしまえば、便利がいいのは確かだな。シャフツベリ卿ならば、優れた使い手となろう。しかし、それならマロリー殿から習われたが宜しかろうに。あれの術式は素晴らしいぞ」
鳶色の目を煌めかせ、愉快そうに目を細める彼女に瞬いて、フィデルは訝しく眉根を寄せた。
「ラスが?」
「あれは、あなたに何も話していないのだな」
呆れ顔で嘆息して、あれらしいと言えるか、とぽつりと零す。そうして、気を取り直した様子で微笑んだ。
「あれは、吾が唯一敗北した男だ。巧く使うといい、暗躍させてこそ光るだろう」
建国当時、爵位を辞退したラッセルについて、英雄王へ無理強いを諌めたのが彼女だったのだと、唐突に思い出す。その当時も確か、自ら表に立つような男ではないと言っていたはずだ。思えば、彼らが顔を合わせたのは、それが最後ではなかっただろうか。
それはさておき。
「ラスに、あなたが? それは意外なことを聞いたな」
「なに、吾も若かったのさ。あれも大概若造だったはずだが、なかなか見事な手腕だった。だというのに、今度は遅れを取ったとは。腑甲斐無いことだな、元
ため息混じりに吐き出された一言に耳を疑い、唖然と見遣るフィデルを愉快そうに見遣って、彼女は声を立てて笑う。そうして、にんまりと笑みを紅唇へ乗せたのだ。
「国中から佳人が集められた主上のための花園に於いて、長らく隠れ棲み暗躍する吾を見い出した。大した男には違いないさ」
後に、英雄王から名の意味を問われた彼女は、月のない夜のことだと答えたという。それを聞いた英雄王はリーラと新たな名を授け、傍らへ侍るよう命じたのだった。後にそれを聞いたラッセルが、解ってるなぁ、と唇の端を引き上げたことを憶えている。
以来、彼女の二つ名は、夜の君なのだ。
〈了〉