第16話 嫌いじゃない。(メロン)

文字数 2,479文字

 飛行機をハイジャックされるのではないかと、そんなことも考えて、それからのわたしは全くリラックスできなかった。ちょっとした物音にも飛び上がった。

 わたしは雇い主のボスを裏切った。ボスはまだわたしが裏切ったことに気づいていないようだ。だが、うちのボスが飼い犬に手を噛まれたことに気づくのは、時間の問題だろう。

 わたしは早く飛行機がロスの空港に着いて欲しいのか、欲しくないのかわからないぐらいに怯えまくった。

「どうしたの?どこか具合悪いの?」
「いえ、なんでもないです。」

 ブー子としし丸は、わたしを気遣ってかいろいろ話しかけてくれた。ミカナを先ほど助けたことで、二人の信用を少しは勝ち取ったようだ。

 でも、わたしの頭の中はボスに知られる恐怖で占められ、フライトの間中、どこかうわのそらだった。

 ◇◇◇

 弟の本名は伊賀・ミカエル。伊賀家の男子は子供の頃はなんとか丸という相性で呼ばれる決まりだった。

 動物に夢中になってしまうわたしは、しょっちゅう、弟の弁当を作るのを忘れた。

 うちは母がいない家庭だった。弟の弁当の世話をするのはわたしの担当だったのだ。

 そのうち弟が諦めて自分で準備するようになるまで、わたしはこの大事な任務をすっかり忘れることがしばしあった。喧嘩した時、弟のことをわたしはよく「デス丸」と呼んでいた。なぜそう呼んでいたのかは、きっかけはもう思い出せない。

 弟が虚無感に襲われるトラウマ的な言葉がなんであるか、わたしは知っている。原因はわたしだ。喧嘩をすると、わたしはこの言葉を幼い弟に投げ付けた。

「デス丸、弁当抜きな。」

 わたしはさっき、弟を黙らせるためにこの言葉を言ってしまった。人として最低であることも、姉としてもっとも最低であることもわかっている。

 ただ、ガールズバンド「ミッチェリアル」のメンバーに話を聞かせたくなかった。

 さて、弟のミカエル本人は、初めてのビジネスクラスですっかりご機嫌になった。まだ若いのだ。

 わたしの後を追ってばかりいた弟は、きっと私がNASAを辞めたのを知って、わたしと同じ職場に応募したのであろう。弟を巻き込んだのは、わたしの失敗だ。

 わたしはこの責任を必ず取らなければならない。


 ◇◇◇

 ロサンゼルス国際空港に着くと、わたしはブー子に借りた帽子をまかぶにかぶってキョロキョロ辺りを伺いながら、ガールズバンドのメンバーと一緒に歩いた。

 空港には、大勢のファンが押し寄せてきていた。

 知ってはいたが、こんなにも熱狂的なバンドのファンが多いことにわたしは驚いた。彼らのクレイジーさはわたし以上に見えたが、彼らはただバンドに夢中になっているだけだ。わたしのように生命科学的な意味合いで、夢中になっているわけではない。

「ブーちゃん、こっちこっち。」
「トオル、ほら、危ないからこっち。」
「ミケ、だめだ。ファンの方によって行ったらだめだ。」
「ミカナ!こっちだよ。」

 しし丸は優男風の雰囲気なのに、芯が強いマネージャーっぷりを遺憾無く発揮して、かいがいしくメンバーを誘導していた。

 レコード会社のできる営業、カマジリも先に到着していたらしく、SPの間を縫ってうれしそうにやってきた。

「さとこ社長!いよいよですねー。お疲れですよね。今日はみなさん、ゆっくりしましょう。明日は午後から会場でリハがありますが、それまではホテルでごゆっくりお過ごしくださいね。」

 カマジリは目尻を下げて、白い歯を見せて、わたしにも笑いかけてきた。

「あ、伊賀スイカさん!また会えましたね。」
 わたしはそれどころじゃなく、ボスの部下の誰かに見られてはならぬと必死で顔を下に向けていた。

 そのとき、カマジリが「あいつ!」と小さく叫んだ。

 しし丸とさとこ社長とわたしが振り向くと、パパラッチと思われるアジア人美男子風の男性がすすっとブー子に近づくのが見えた。

 パシャパシャ写真を撮りまくっている。

 わたしのきつねさまに何を!

 わたしは思わずぐいっと踏み出し、パパラッチとブー子の間に体を入れた。

「撮るなら、わたしのこの薄い顔をどうぞ。」

 わたしは顔面をカメラに近づけた。

「うわっ!こわっ!何すんのっ!」

 美男子風のパパラッチは驚いたように日本語で叫んで、後ろに下がった。

「ブー子さん、しし丸さんの方に行ってください!」

 わたしは後ろにいるブー子にそう早口で伝えると、カメラのレンズを右手のひらでおおった。


「だめです!」
「至近距離撮影NG!」
「NO!」

 最後のNOは完全に外国人の強いNO感を全面に出して言った。

 日本人なら、このNOには弱いはずだ。

「チェっ」

 美男子風パパラッチは小さく悪態をつくと、こちらに背を向けた。

 で、いきなりまたふりかえり、ダッシュしてブー子の方にカメラを持ち上げていこうとした。

 そうはさせるかっ!
 伊賀の血をなめんなよっ!

 わたしは美男子風パパラッチをはったおした。
 
「いたっ!え?何今の動き?」
 
 美男子風パパラッチは衝撃に驚きながらも、わたしを振り返ってみつめた。

「お姉さん、何か特別な武術でも習っていました?」

 あー、習っていたわ。

 (あなたの血じゃあ、ぜーったいに習えない類のやつを子どもの頃からね。)

「お引き取りを。」
 
 わたしは毅然とした態度で、美男子風パパラッチに言った。

「しょうがないなあ。今日は引き上げるか。お姉さん、手強いね。」
「じゃあ、これからもよろしくね。」

 そうなれなれしい態度でわたしに言うと、美男子風パパラッチは引き下がって離れて行った。

「すごい、すごい!」
 レコード会社営業のカマジリは、一部始終を、あっけにとられて眺めていたらしく、拍手してわたしを褒めてくれた。

「すごいじゃない、きゅうりさん!」

「きゅうりじゃないっ!」

 わたしはカマジリの調子よさそうな顔をにらみつけて言った。

「うん、嫌いじゃない。」
 カマジリはボソッとつぶやくように言った。

「は?何がでしょう。」
 わたしはぽかんとして、カマジリの浅黒いほんのり日に焼けた顔を見上げた。

「むしろ好き」
 カマジリは白い歯をチラッとみせて言った。
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