十四
文字数 2,965文字
人であった異形は、心を失おうと人の言葉を話す。たとえばティーンエイジの女子の声を私の心へ飛ばしてくる。
「オイシイ……ママ、オイシ……」
好吃 って、まだ何も食べてないだろ。しかしワニは陸でも速いじゃないか。異形だからだろうけど、健常な私が走っても追いつかれそうだ。
ワニは私だけを見つめながら、芝生の上を四本の脚で交互に動かす。互いの距離はあっという間に10メートルほど。私の背後には気絶した虎人間。
ならば刹那に考えろ。
こいつは人でない。人の言葉を脈絡なく使うだけの異形のワニだ。気絶だけさせて立ち去っても、こいつはゴルフ場が再開したら人を襲う。……さすがに楊偉天でも支援者の店先で放し飼いを続けないだろう。つまり、あいつが処分に来る。残虐に殺される。生きたまま鬼達に喰われるかも。
四十八時間のあいだ絶望と恐怖を味あわされたうえにだ。
母親と仲良かった女の子だっただろうに。
でも人ではない!
「あなたは人だ」
思玲は両手に扇と小刀を持つ。
「私は人殺しだ」
胸のまえで交差させる。
2メートルの距離まで近づいたワニが光の螺旋に飲みこまれる。術の威力は魔道士の力に比例する。いまの私同様に弱い光。
「……ママ、イタイ…………ママ、アイタイ……」
「はやく楽になってくれ!」
再度の螺旋を浴びて、巨大な青色のワニが消滅する。
思玲は膝から崩れ、アスファルトへうつ伏せになる。気が遠くなる。……ママ、寒いよ。雪が降るかもね。
化け物が集まるのは、あなたが化け物だから。……あなたを道士が救ってくれる。さようなら
「ふざけんな、クソババア……」
眠るなよ。耐えろよ。宇翔がいるだろ。賭けてもいい。虎人間のが先に意識を取り戻す。でも私は立ち上がれない。そうだとしても土を噛むな。せめて仰向けになれ。
思玲は空を見る。大燕が飛んでいた。
「ずいぶんとくたびれてますね。一緒に寝ている虎のハイブリッドは何ですか?」
大燕が低く旋回しながら言う。
「……生け贄だ」
「見りゃわかりますよ。さすがにそいつは駄目でしょ」
「そいつと呼ぶな……箱は? 師傅は?」
「師傅が箱を手にしたから、俺が思玲様を探しているんじゃないっすか。あいつは早々に投げ捨てて逃げましたよ。師傅はそれを手にあの家に向かいました。そろそろ到着したんじゃないっすかね」
あの家族は、人間に戻れる最短記録所持一家になれたな。長男を抜かして。
「師傅に告げろ。資質ある者を成敗するなら来なくていい。見逃すならば助けにきてくれと」
「そりゃ俺は思玲様の式神だから、言われたとおりにしますけどね、回答はどちらでもないと思いますよ。それじゃまた」
「だったらここへ案内するな……」
大燕はすでに消えていた。ゴルフ場はまた静かになる。麓の花火の音。
楊偉天はあきらめない。嫌がらせで終わらせない。
だけど限界だ。三分だけ寝よう。
「寝るものか!」
気迫を込めて目を開ける。虎が覗きこんでいた。
「王思玲を殺す」
虚ろな目で見おろされる。
「お前は寝ていろ」
思玲は扇を三度振るう。「うっ」
白目になった虎にのしかかられる。こんなのを避けることもできない。でも虎は寝息を立てだす。ごわごわした毛並みの巨体から抜けだせない。空は見える。筋状の雲が北に流れるのが見える。
「重いからどいてくれ。……だが温かい。もう少しだけ布団になっていい」
思玲は笑みを作る。
「宇翔は十六歳だったな。色男か? スポーツマンか? 彼女はいるか? 私も温かいか?」
返事などあるはずない。
「シャイだな。私もその頃はウブだった。……異形を追い払うのはおのれの力のみ。その言葉を信じて鍛錬を続けた。その言葉は半分だけ事実で、もっとおぞましいものをたっぷり連れてきた。……私は、そこに嵌まった。抜けだせない」
人であった男の子は思玲の上ですやすや寝ている。
「だとしても、私は弱き人のために生きる。その方々を守る。この命が果てるまで」
また目がかすんできやがった。
「だから宇翔は心配するな。なにがあっても守りきり、かっこよくてモテモテの十六歳に戻してやるからな。黙っていようがわかる。宇翔は将来いい男になる。そうに決まっている……」
空が広がっている。寒さで目覚める。太陽は西に向かい遠い。ずいぶん寝てしまったな。そのくせ力は戻っていない。
思玲は地面に手をつき体を起こす。記憶をたどる。毛布になっていた虎人間はいなかった。
「宇翔?」人の声をかける。
「おはようございます」
空から返事が戻る。クラブハウスの屋根付近に、大燕が浮かんでいた。
「そろそろ動けますか?」
「宇翔は?」思玲は人の声のまま尋ねる。「師傅は?」
「師傅は住みかに帰りました。あなた様も戻りましょう」
「宇翔はどこだ? 私はあの子をあの家に連れていく」
実の姿を見てもいない王宇翔。かっこよい宇翔。バスケットボールの選手。女子にやさしいけど嫌味にならない宇翔。その姿に戻るのを確認して、私は彼の記憶から消える。ハイスクールのヒーローだった彼は、みんなの記憶に戻る。
「師傅はハイブリッドを起こしました。ハイブリッドは師傅に飛びかかりました。傀儡になっていることに気づかれて、師傅は老祖師の術を消しました。ハイブリッドはまた気を失いました」
思玲は扇も小刀も握ったままだった。収納するカバンはなくなった。扇をくわえ小刀を手に、思玲は立ちあがる。同時に腰から落ちる。
「二度とハイブリッドと呼ぶな。宇翔はどこだ? 教えてくれ」
そのままの姿勢で大燕をにらむ。
「……男の子は人に戻り、異形になった記憶もなく、思玲様の記憶もなく、家族と仲良く暮らしていきます」
大燕が真ん前に降りてくる。二つの足で垂直に立つ。
「俺の頭を支えにしていいっすよ。そんで帰りましょう。宇翔君の物語から、思玲様は退場しました」
「あの家族を確認しにいく」
思玲はしゃがみこんでいるから、目の高さが同じの式神へと言う。
「やめましょうよ。もう物語は終わっています。そんでトヨタが駐車場に停めてあります。俺が運転しますよ」
「盗んだスクーターがある」
「師傅が近くの警察署に乗り捨てるそうです」
「虎と二人乗りしてか?」
「……ええ。春節ですからね」
思玲は、ペンギンみたいな大燕の頭に手を乗せて体を起こす。池が見えた。ワニはいない。破壊された厨房が見えた。老いた双子の鬼はいない。宇翔もどこにもいない。
私は師傅を憎む。楊偉天を呪う。
思玲は言葉にしない。代わりに僕 へ告げる。
「財布に今月の生活費が30000元ある。なので今日は帰らない。お前と二人で豪遊しよう」
「いいっすけど俺は蒸留酒しか飲めませんよ」
「高いウイスキーを十本買ってやる。ホテルの部屋で春を祝うぞ」
「安い白酒一本にしましょう。小鬼も呼べたら呼びます」
思玲は歩きだす。大燕はよちよちと隣を歩いて付き従う。
「賑やかもいいな。宿がとれたら、お前は師傅のもとにいけ」
私にあわせる顔がない弱い男を呼びに。
「そして伝えろ。宴に参加しないなら、私は一人で楊偉天を倒しに向かう。うっとうしいからお前は空を飛んでいろ」
駐車場で大燕がくちばしから鍵を落とす。思玲は片手で受け取り運転席に乗り込む。座席を前にずらしエンジンを起動させ、浮かれたままの町へ下っていく。冬は終わったらしい。
終
「オイシイ……ママ、オイシ……」
ワニは私だけを見つめながら、芝生の上を四本の脚で交互に動かす。互いの距離はあっという間に10メートルほど。私の背後には気絶した虎人間。
ならば刹那に考えろ。
こいつは人でない。人の言葉を脈絡なく使うだけの異形のワニだ。気絶だけさせて立ち去っても、こいつはゴルフ場が再開したら人を襲う。……さすがに楊偉天でも支援者の店先で放し飼いを続けないだろう。つまり、あいつが処分に来る。残虐に殺される。生きたまま鬼達に喰われるかも。
四十八時間のあいだ絶望と恐怖を味あわされたうえにだ。
母親と仲良かった女の子だっただろうに。
でも人ではない!
「あなたは人だ」
思玲は両手に扇と小刀を持つ。
「私は人殺しだ」
胸のまえで交差させる。
2メートルの距離まで近づいたワニが光の螺旋に飲みこまれる。術の威力は魔道士の力に比例する。いまの私同様に弱い光。
「……ママ、イタイ…………ママ、アイタイ……」
「はやく楽になってくれ!」
再度の螺旋を浴びて、巨大な青色のワニが消滅する。
思玲は膝から崩れ、アスファルトへうつ伏せになる。気が遠くなる。……ママ、寒いよ。雪が降るかもね。
化け物が集まるのは、あなたが化け物だから。……あなたを道士が救ってくれる。さようなら
「ふざけんな、クソババア……」
眠るなよ。耐えろよ。宇翔がいるだろ。賭けてもいい。虎人間のが先に意識を取り戻す。でも私は立ち上がれない。そうだとしても土を噛むな。せめて仰向けになれ。
思玲は空を見る。大燕が飛んでいた。
「ずいぶんとくたびれてますね。一緒に寝ている虎のハイブリッドは何ですか?」
大燕が低く旋回しながら言う。
「……生け贄だ」
「見りゃわかりますよ。さすがにそいつは駄目でしょ」
「そいつと呼ぶな……箱は? 師傅は?」
「師傅が箱を手にしたから、俺が思玲様を探しているんじゃないっすか。あいつは早々に投げ捨てて逃げましたよ。師傅はそれを手にあの家に向かいました。そろそろ到着したんじゃないっすかね」
あの家族は、人間に戻れる最短記録所持一家になれたな。長男を抜かして。
「師傅に告げろ。資質ある者を成敗するなら来なくていい。見逃すならば助けにきてくれと」
「そりゃ俺は思玲様の式神だから、言われたとおりにしますけどね、回答はどちらでもないと思いますよ。それじゃまた」
「だったらここへ案内するな……」
大燕はすでに消えていた。ゴルフ場はまた静かになる。麓の花火の音。
楊偉天はあきらめない。嫌がらせで終わらせない。
だけど限界だ。三分だけ寝よう。
「寝るものか!」
気迫を込めて目を開ける。虎が覗きこんでいた。
「王思玲を殺す」
虚ろな目で見おろされる。
「お前は寝ていろ」
思玲は扇を三度振るう。「うっ」
白目になった虎にのしかかられる。こんなのを避けることもできない。でも虎は寝息を立てだす。ごわごわした毛並みの巨体から抜けだせない。空は見える。筋状の雲が北に流れるのが見える。
「重いからどいてくれ。……だが温かい。もう少しだけ布団になっていい」
思玲は笑みを作る。
「宇翔は十六歳だったな。色男か? スポーツマンか? 彼女はいるか? 私も温かいか?」
返事などあるはずない。
「シャイだな。私もその頃はウブだった。……異形を追い払うのはおのれの力のみ。その言葉を信じて鍛錬を続けた。その言葉は半分だけ事実で、もっとおぞましいものをたっぷり連れてきた。……私は、そこに嵌まった。抜けだせない」
人であった男の子は思玲の上ですやすや寝ている。
「だとしても、私は弱き人のために生きる。その方々を守る。この命が果てるまで」
また目がかすんできやがった。
「だから宇翔は心配するな。なにがあっても守りきり、かっこよくてモテモテの十六歳に戻してやるからな。黙っていようがわかる。宇翔は将来いい男になる。そうに決まっている……」
空が広がっている。寒さで目覚める。太陽は西に向かい遠い。ずいぶん寝てしまったな。そのくせ力は戻っていない。
思玲は地面に手をつき体を起こす。記憶をたどる。毛布になっていた虎人間はいなかった。
「宇翔?」人の声をかける。
「おはようございます」
空から返事が戻る。クラブハウスの屋根付近に、大燕が浮かんでいた。
「そろそろ動けますか?」
「宇翔は?」思玲は人の声のまま尋ねる。「師傅は?」
「師傅は住みかに帰りました。あなた様も戻りましょう」
「宇翔はどこだ? 私はあの子をあの家に連れていく」
実の姿を見てもいない王宇翔。かっこよい宇翔。バスケットボールの選手。女子にやさしいけど嫌味にならない宇翔。その姿に戻るのを確認して、私は彼の記憶から消える。ハイスクールのヒーローだった彼は、みんなの記憶に戻る。
「師傅はハイブリッドを起こしました。ハイブリッドは師傅に飛びかかりました。傀儡になっていることに気づかれて、師傅は老祖師の術を消しました。ハイブリッドはまた気を失いました」
思玲は扇も小刀も握ったままだった。収納するカバンはなくなった。扇をくわえ小刀を手に、思玲は立ちあがる。同時に腰から落ちる。
「二度とハイブリッドと呼ぶな。宇翔はどこだ? 教えてくれ」
そのままの姿勢で大燕をにらむ。
「……男の子は人に戻り、異形になった記憶もなく、思玲様の記憶もなく、家族と仲良く暮らしていきます」
大燕が真ん前に降りてくる。二つの足で垂直に立つ。
「俺の頭を支えにしていいっすよ。そんで帰りましょう。宇翔君の物語から、思玲様は退場しました」
「あの家族を確認しにいく」
思玲はしゃがみこんでいるから、目の高さが同じの式神へと言う。
「やめましょうよ。もう物語は終わっています。そんでトヨタが駐車場に停めてあります。俺が運転しますよ」
「盗んだスクーターがある」
「師傅が近くの警察署に乗り捨てるそうです」
「虎と二人乗りしてか?」
「……ええ。春節ですからね」
思玲は、ペンギンみたいな大燕の頭に手を乗せて体を起こす。池が見えた。ワニはいない。破壊された厨房が見えた。老いた双子の鬼はいない。宇翔もどこにもいない。
私は師傅を憎む。楊偉天を呪う。
思玲は言葉にしない。代わりに
「財布に今月の生活費が30000元ある。なので今日は帰らない。お前と二人で豪遊しよう」
「いいっすけど俺は蒸留酒しか飲めませんよ」
「高いウイスキーを十本買ってやる。ホテルの部屋で春を祝うぞ」
「安い白酒一本にしましょう。小鬼も呼べたら呼びます」
思玲は歩きだす。大燕はよちよちと隣を歩いて付き従う。
「賑やかもいいな。宿がとれたら、お前は師傅のもとにいけ」
私にあわせる顔がない弱い男を呼びに。
「そして伝えろ。宴に参加しないなら、私は一人で楊偉天を倒しに向かう。うっとうしいからお前は空を飛んでいろ」
駐車場で大燕がくちばしから鍵を落とす。思玲は片手で受け取り運転席に乗り込む。座席を前にずらしエンジンを起動させ、浮かれたままの町へ下っていく。冬は終わったらしい。
終