四
文字数 1,964文字
風雨は弱まっていく。思玲はショルダーから目覚まし時計をだす。五時三十分。アラームを八時にセットしておくかと思ったが、意味もないのでそのまましまう。
「そのかばんにはなんでも入るのですね」
「くちばしを入れるな。これにも罠は仕掛けてある」
「時計を持ち歩かなくてもスマホを」
「日本人は黙れ。台湾の魔道士は携帯電話もパソコンも持たない。テレビも観ない」
枝にジェーンを乗せ、日向とともに姿を隠す。思玲だけがなおもくすぶる車へと近寄る。オニハイエナが二体、黒い血を吐きながら横たわっていた。思玲は姿を現し、護刀からの金色の光でとどめを刺す。邪気が霞んでいく地面があった。もう一体はここで消滅したな。
覆っていた巨大な結界を消す。大型四駆車が現れると同時に、森から鬼が転がりでてきた。
「思玲……、なんてことしやがった」
切り裂かれた全身から黒い血を垂れ流しながら、紅宝が恨めしげに見る。「爆発の衝撃で、チャンプの首輪が外れちまったぞ」
鬼はチベットピットブルに背後から押し倒される。首を噛みくだかれ、貪り食われながら消滅していく。ピットブルが赤い目を思玲に向けた。彼女は運転席に飛びこむ。
側面から衝撃を受けて、四駆が横転する。術をコーティングしてある窓ガラスに、ピットブルが牙を押し当てる。私の指三本分はある牙だ。思玲は横たおしの運転席から護刀と扇を上へとかまえる。こいつが窓を割った瞬間に螺旋の光をぶつけてやる。
ピットブルがふいに顔を離す。
「俺は見ていたぜ」残忍な声。「お前が猫を隠すのをな」
ピットブルが車から飛び降りる。思玲は馬鹿正直に追いかけない。天井沿いに後部ドアまで這い、開けるなり両手を交差させる。待ちかまえていたピットブルが吹っ飛ぶ。四肢で着地して、思玲へと唸りをあげる。
思玲は車からでる。レインコートを脱ぎ捨てる。空には北へと急ぐ雲が視認できる。雨はさらに弱まっている。晴れた朝までまだ一時間以上……。
「木霊よ」
思玲は森へと呼びかける。返事が戻らず舌を打つ。内心安堵する。
「お前はうまそうな匂いだ。子供の頃から、俺らみたいのにまとわりつかれただろ」
ピットブルがよだれを垂らしながら彼女へと駆ける。思玲は背を向けて逃げる。つまずき転ぶ。
二、一、零!
振りかえるなり、螺旋の光を魔犬の顔面へ放つ。至近で喰らった犬が吹っ飛び樹木を揺らす。さらに二発追い撃ちする。ピットブルの体から黒い煙があがる。
「……俺はチャンプだぜ」
ピットブルは立ちあがる。ただれた顔で体を震わすと、焦げた毛並みが落ちていく。思玲は体を旋回するように舞う。飛びかかった異形の犬を跳ねかえす。
結界の中で膝に手を置く。呼吸を整える。
完璧に張れた跳ねかえしの結界だから、こいつの攻撃なら半日は耐えられる。だが、こいつはジェーンと日向のもとに向かうだろう。二人が姿隠しの結界ごと食われるのを見るわけにはいかない。
そんな心を読んだかのように、チャンプは思玲に背を向ける。隠された四神くずれのもとによろよろと歩む。……まともな螺旋の光を打てるのはあと一回ぐらいか。お互いに最終ラウンドって奴だ。
思玲は結界をぬぐう。背筋を伸ばし覚悟を決める。
「馬鹿犬! 私をさきに食え!」
チャンプが挑戦者へと振りかえる。ゆっくりと寄ってくる。光を避けるつもりか? そして至近で駆けだすのだろ。
思玲もチャンプへと歩む。この犬の間合いまであと三歩、二歩……。
ピットブルが跳躍した。流れる雲の下で思玲へと飛び乗る。彼女は片面だけの結界ごとアスファルトに叩きつけられる。チャンプは結界を噛み砕いていく。……腹も固そうだ。この太い首はちぎれない。狙うのは……。結界が崩壊し、雨に濡れたけだものの匂いがした。
生臭い口臭。チャンプが口をひろげ思玲の顔を丸ごと噛み砕こうとする。思玲は面前で扇を交差させる。金色と銀色のスパイラルを、チャンプは至近でかわす。前足に護刀を持つ手を押さえこまれる。彼女の顔へとよだれが垂れる。
「我、人を護るため――」
目前の暗渠へと扇を突っこむ。牙が手の甲をかすめ、跳ねかえしの結界が巨大な口に飛びこむ。
チャンプの体が離れる。巨大な犬が路上で悶絶しだす。痙攣しながら黒い血を吐く。
思玲は地面に手をつき立ちあがる。……もう私にはこいつにとどめを刺す力はない。術をコーティングしたタイヤで轢き殺したくても横転している。じきに小鬼が現れる……。
彼女はジェーン達のもとに行く。結界を消すと、恐れに満ちた鷲と猫が現れた。閉じこめられたまま死闘を見せつけられたら当然だ――。白猫のひげが立った。
邪を制す光を背中に感じた。
ピットブルの断末魔の叫び。思玲は一羽と一匹を抱えて振りかえる。
チャンプはすでに消滅していた。兄弟子でもある劉 師傅しかいなかった。
「そのかばんにはなんでも入るのですね」
「くちばしを入れるな。これにも罠は仕掛けてある」
「時計を持ち歩かなくてもスマホを」
「日本人は黙れ。台湾の魔道士は携帯電話もパソコンも持たない。テレビも観ない」
枝にジェーンを乗せ、日向とともに姿を隠す。思玲だけがなおもくすぶる車へと近寄る。オニハイエナが二体、黒い血を吐きながら横たわっていた。思玲は姿を現し、護刀からの金色の光でとどめを刺す。邪気が霞んでいく地面があった。もう一体はここで消滅したな。
覆っていた巨大な結界を消す。大型四駆車が現れると同時に、森から鬼が転がりでてきた。
「思玲……、なんてことしやがった」
切り裂かれた全身から黒い血を垂れ流しながら、紅宝が恨めしげに見る。「爆発の衝撃で、チャンプの首輪が外れちまったぞ」
鬼はチベットピットブルに背後から押し倒される。首を噛みくだかれ、貪り食われながら消滅していく。ピットブルが赤い目を思玲に向けた。彼女は運転席に飛びこむ。
側面から衝撃を受けて、四駆が横転する。術をコーティングしてある窓ガラスに、ピットブルが牙を押し当てる。私の指三本分はある牙だ。思玲は横たおしの運転席から護刀と扇を上へとかまえる。こいつが窓を割った瞬間に螺旋の光をぶつけてやる。
ピットブルがふいに顔を離す。
「俺は見ていたぜ」残忍な声。「お前が猫を隠すのをな」
ピットブルが車から飛び降りる。思玲は馬鹿正直に追いかけない。天井沿いに後部ドアまで這い、開けるなり両手を交差させる。待ちかまえていたピットブルが吹っ飛ぶ。四肢で着地して、思玲へと唸りをあげる。
思玲は車からでる。レインコートを脱ぎ捨てる。空には北へと急ぐ雲が視認できる。雨はさらに弱まっている。晴れた朝までまだ一時間以上……。
「木霊よ」
思玲は森へと呼びかける。返事が戻らず舌を打つ。内心安堵する。
「お前はうまそうな匂いだ。子供の頃から、俺らみたいのにまとわりつかれただろ」
ピットブルがよだれを垂らしながら彼女へと駆ける。思玲は背を向けて逃げる。つまずき転ぶ。
二、一、零!
振りかえるなり、螺旋の光を魔犬の顔面へ放つ。至近で喰らった犬が吹っ飛び樹木を揺らす。さらに二発追い撃ちする。ピットブルの体から黒い煙があがる。
「……俺はチャンプだぜ」
ピットブルは立ちあがる。ただれた顔で体を震わすと、焦げた毛並みが落ちていく。思玲は体を旋回するように舞う。飛びかかった異形の犬を跳ねかえす。
結界の中で膝に手を置く。呼吸を整える。
完璧に張れた跳ねかえしの結界だから、こいつの攻撃なら半日は耐えられる。だが、こいつはジェーンと日向のもとに向かうだろう。二人が姿隠しの結界ごと食われるのを見るわけにはいかない。
そんな心を読んだかのように、チャンプは思玲に背を向ける。隠された四神くずれのもとによろよろと歩む。……まともな螺旋の光を打てるのはあと一回ぐらいか。お互いに最終ラウンドって奴だ。
思玲は結界をぬぐう。背筋を伸ばし覚悟を決める。
「馬鹿犬! 私をさきに食え!」
チャンプが挑戦者へと振りかえる。ゆっくりと寄ってくる。光を避けるつもりか? そして至近で駆けだすのだろ。
思玲もチャンプへと歩む。この犬の間合いまであと三歩、二歩……。
ピットブルが跳躍した。流れる雲の下で思玲へと飛び乗る。彼女は片面だけの結界ごとアスファルトに叩きつけられる。チャンプは結界を噛み砕いていく。……腹も固そうだ。この太い首はちぎれない。狙うのは……。結界が崩壊し、雨に濡れたけだものの匂いがした。
生臭い口臭。チャンプが口をひろげ思玲の顔を丸ごと噛み砕こうとする。思玲は面前で扇を交差させる。金色と銀色のスパイラルを、チャンプは至近でかわす。前足に護刀を持つ手を押さえこまれる。彼女の顔へとよだれが垂れる。
「我、人を護るため――」
目前の暗渠へと扇を突っこむ。牙が手の甲をかすめ、跳ねかえしの結界が巨大な口に飛びこむ。
チャンプの体が離れる。巨大な犬が路上で悶絶しだす。痙攣しながら黒い血を吐く。
思玲は地面に手をつき立ちあがる。……もう私にはこいつにとどめを刺す力はない。術をコーティングしたタイヤで轢き殺したくても横転している。じきに小鬼が現れる……。
彼女はジェーン達のもとに行く。結界を消すと、恐れに満ちた鷲と猫が現れた。閉じこめられたまま死闘を見せつけられたら当然だ――。白猫のひげが立った。
邪を制す光を背中に感じた。
ピットブルの断末魔の叫び。思玲は一羽と一匹を抱えて振りかえる。
チャンプはすでに消滅していた。兄弟子でもある