文字数 657文字

「しばらく考えたあと、父親はこう答えました。

"あれは本当に大事なものじゃなかったのさ"

この少年は私自身です。
私の父はみなさんもご存じでしょう。わたしたちの最大の事業を取り仕切っていました。
彼が話してくれたことをここでみなさんにもお伝えしましょう。

"記憶は現実とは違う。
それは正確に"記録されている"と思いがちだけど、実際は細胞レベルの生命現象によって再生成されている。
もちろん基礎にあるのは現実に発生した過去には違いないが、その瞬間に感じた感情や、次の瞬間のための予測、つまり行動のイメージ、それにその予測のために思い出した別の記憶などに影響されて、少しずつ変わってしまうんだ。
そしてその変容してしまった記憶で、それ以前の記憶が上書きされていくんだよ。記憶は過去そのものじゃない。
変わらないものなどないんだ"

彼は事業の責任者でありながら、このようなことを常々語っていました。意外でしょう?
しかし現実を目の当たりにしていた彼の正直な想いだったのだと思います。

私が申し上げたいのはつまり、
いま私たちが懐かしんでいる思い出はかつてあった現実そのものではない、ということです。
あの悲しい出来事でさえも、です。失ったものを取り戻すことはできません。
もとには戻らないからこそ、失ったというのです。
再び手に入れることができたとしても、それはかつて大事にしていた何かではなく、別の何かなのです。

わたしたちは、このことをとらえなおす時期が来ているのではないでしょうか」
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