第5話 陽炎の奥

文字数 8,553文字

 加古は爆睡から目を覚まし、十文字の葬式も忘れて、明日の慶菜との楽しみに胸を膨らませていた。そして春分と気付いて窓の外を見やると、アパートの庭に桜が咲き始めていた。大学も来週の前半までで春休み。いよいよ3年生になる加古。一般教養ともおさらばだ。国文学を堪能したい。温故知新である。本当は古文にあまり興味がなかったが、敢えて国文科にした。
文学の道しか興味がない高校生で、武道は片手間。それでも剣道二段だから才能がある。文武両道と言ってもいい。バイトとデート、そして潜入捜査で忙しいなと思った。昼間限定のバイトをして、夜は空けておきたい。
 気の早い加古は、慶菜との同棲すら考えていた。そしてきょうはジムに顔を出そうと思った。慶菜とのことでしばらくジムに行けてない。きょう行かないと先の予定はわからない状態だ。加古は小雨の中、ビニールのカッパを着て自転車を漕いだ。
 サンテラスジムには13時ころに入った。祭日なので昼間でもひとが多いだろうという読みは当たった。器具が足りずに、ストレッチや狭いコースをランニングしているひともいた。ゲンキンなもので、彼女ができた加古は、女性の姿が気にならない。
 本当は2階にサウナとプール、3階にはレストランもあるのだが、サウナやプールは別料金なので、そこまで警察の金銭的バックアップを受けていない加古は、マシーンの空きを待つ間、入念にストレッチした。
 そう言えば、先日聞いた二十日はきょうだ。アンダーテイカーという単語と日付はしっかり記憶している。何かの集会のようなことが行われているのだろうか。それ以上の憶測はできない。
 とそのとき、女性の声で「アイグレーが」というやり取りが耳に入った。彼の背後のマシーンでトレーニングしている二人の女性だ。加古は振り向かずに耳を澄ませた。「怖いから・・・」「・・・てもいいわよね」断片的に聞こえる。不自然にならないよう注意して、立ち上がって横目で見ると30歳前後の女性二人である。客観的に見て、顔も身体も人並みよりはかなりいい。
 「やめれる?」と片方が言う。「穏便に・・・」後半が雑音で聞き取れない。そもそも、ひっきりなしに音楽がかかっているので、小声の話はかき消されやすい。「アイグレー」という単語は何だろう。ギリシャ神話で「明るい女」という意味を持ち、複数の女性名として登場するのではなかったか。はっきりとした記憶ではない。
 そういうまた新たな団体名か?と加古は思う。「怖い」「やめる」という単語からもそう推察できる。ここのメンバーには複数の極秘的集団構成員が在籍するのだろうか?その日のロッカールームでは、アンダーテイカーのひとはいないようで、やはりどこかに集結しているのか?と思われた。陽介もメンバーのはずだが、最近は来ていないのか、まだ出会っていない。
 きょうの収穫はここまでだったが、野津に報告することはある。アパートに帰り濡れた服を着替えると、スマホで直接掛けて見たが「ただいま電話に出ることができません」の状態だった。

 そのころ捜査本部では、事件があった立川南署と練馬西署も合同捜査に踏み切り、「痴漢加害者連続殺人」と断定して大きな捜査本部が構成された。総勢二百人規模。データ班もパソコンが一時不足するほどの四十人に達した。
 間もなく貴重なデータが挙がった。以前「羊監督」という黒猫にゃあこからの報告を聞き流していたが、それがじつは色川ではないかという。
「『羊監督』というのはギャグ漫画に登場する野球の監督で、誕生日の設定が10月10日、色川も10月10日生まれ。これは単なる偶然にしては確率が低い。色川を表から調べている連中に聴取させたほうがいいでしょう」と立川南署から出張の熟練スタッフが言う。
 早速二組四人が色川にアポを取り、自宅つまり荻窪の事務所の3階で会うことになった。万一色川がバイオレットピープル賛同者だとしたら事態はガラリと変化するわけだ。一方で、犯行に色川が参与してない証拠にもなり得る。
 三鷹北署と立川南署の二組のタッグが荻窪に向かった。車内で四人は
「色川がバイオレット賛同者としたら、中野のジムへの出資とMEAの顧問そして寄付は何を意味するんでしょうか」
「まだジムがアンダーテイカーの温床と決まったわけじゃないです。MEAとの関係はもっと裏から洗って欲しいですが」
「色川の考えがよくわからなくなってきた。彼女は何を意図して行動しているのか」
「彼女が、痴漢撲滅と合意痴漢サイトの両方に何らかの関係があるとしたら・・・」
などの会話が飛び交った。
 車を色川事務所の駐車場に停めると、階段を色川が降りてきた。
「あら四人も来られたのですか?」とクスクス笑っている。きょうの服装は休日とあってカジュアルだが、高級そうな白シャツを裾出しで纏い、ブルーのカーディガンを羽織って、紫紺のサルエルパンツだ。
「エレベーターはないので、階段をどうぞ」といざなう。2階の踊り場を除けば、3階まで直線である。いかにこの建物の奥行きがあるか察しが付く。
 色川のプライベート空間はシックな調度品やデスク、ソファなどで構成された、いかにも癒される雰囲気だ。天然の素材に拘っているのもそれを高めている。

 「さあお座りになって。ちょっとお待ちくださいね」とビジネスのときとは別人のような柔和な表情を見せてキッチンに立った。ほどなく5個の欧州ブランドのカップにお茶を淹れて皆の前と自分の前に置く。
「マテ茶です。お口に合いますかどうか。健康にはいいのですよ」と笑顔だ。
「きょう来たのはですね」とひとりが口火を切ると、色川はしなやかに手で制して、
「わかっています。『羊監督』の件でしょう。捜査が進めばいずれわかると思っていました。わたしですよ、確かに」と四人の向かいに座る。
「話せることは全部話しましょう。それで犯人逮捕が早くなるのでしたら・・・わたしはね、合意の痴漢ならいいと思っています。そういう趣味はありませんけどね。フランスのあるファッションデザイナーがこういう発言をしています。『本当は裸体が一番美しいのだが、着なければいけないなら、という発想で服を作ります』と」ここで四人を見渡して反応を確かめ、更に言葉を続ける。マテ茶を一口飲むと、やや、早口の癖が出始めた。
「何が言いたいかと言いますと、服を着ていれば『ない』ように感じる大多数に対して、着ていてもその中の裸体を容易に想像できる、また想像されたいマイノリティがいるということです。特に露出面積が多い服はそうですよね。究極、女性は個々の差は激しくても、露出したい触られたい性だという、学術的な研究も分野を跨いでされています。一例を挙げれば、乳児でも男児は触られてはしゃぐだけなのに、女児は『もっと』という動作をすることが判明しています。根本的、本能的に、女性は男性に体を見せて、触らせて、そそられた男性の中から相手を選択する、というのが原理であり現実です。話を戻せば、男性は同意さえあれば触りたいのが当たり前。そして、不特定多数の男性に『触られたい』女性がいる。そのマイノリティは尊重したい。だからバイオレットピープルの会員になっています。本名は晒せませんけれどね。父がご存じの死に方をしたのでMEAの顧問で、メディアにも何回か出ていますが、明らかに犯罪性のあるものを根絶したいだけです」すらすらと言葉を紡いだ。
「あなたも痴漢に遭ったことはあるでしょう?」とひとりが小声で言った。
 色川はしばし絶句した後、
「ええまあ、大学生時代はミニスカートも着ましたし、下着の上から触られたことは一度ありますよ」と言いにくそうに下を向いて呟いた。
「で、嫌だったんでしょう?」
「嫌、だったけれど、あのう、生理現象というか、年頃でしたし、身体は反応しました」
 色川にしては、少女のような恥じらいを見せた。
「すみません。男性には言いにくいことまでお聞きしてしまいましたね」と年長がフォローした。
「あなたの収入にしては預貯金が少ないのはなぜなんでしょう。MEAへの寄付はともかく、それ以外にも遣っていますよね?」と最初に口を開いた刑事。
「ああ、それでしたら、口座を通さずバイオレットピープルに活動資金を渡していたのです。通算すればかなりの金額になるかしらね」
「代表の矢野さんに渡していた?」
「そうです。矢野さんも預金せずに、サイトの運営維持や会員の管理などの費用に充てていました。なにしろ闇サイトですから、資金の動きは隠しておきたいわけです。もちろん妻子にも内緒で。万が一のことを考えて矢野さんの手許にも現金が残るように多めに渡していました。その万が一、が起きてしまって、彼の離婚調停をわたしが無料で引き受けています。別に矢野さんとわたしに男女の関係があるわけではないですけどね」
最後は笑いながら言う。
「しかしね、色川さん。武蔵関の件で、あなたに依頼されたエキストラが一役買っていますよ」と黙っていたひとりが口を挟んだ。
「ええっ!」と色川は驚き、「それはわたしではありません。誰かがわたしの名前を利用しましたね、きっと」と息を荒げた。
 一同は顔を見合わせた。本当だとしたらそれは誰だ?
色川は深刻な表情で考え込む。『わたしが騙された?』という思いが廻る。
「中野のジムはどうなんです?」と年配のひとりが尋ねる。
「じつは、あそこの社長、本職は不動産業ですよね。で、わたしが企画してあのジムを作って貰ったんです。当初は自分個人の要望を叶えてくれるジムが欲しかっただけでした。でも、会員にジ・アンダーテイカーがいることを知ってから、積極的に彼らを会員にしました」
さらりと言ったが、四人の刑事は「え?」という顔になる。
「驚かれました?あのひと達の中に極めて危険な、というのはバイオレットにとってですが、対抗分子がいます。それを監視するために、監視カメラだけでなく、隠しマイクも付けました。何か企んでいたら把握できるように、です。梶谷さんのときは驚きました。篠崎陽晴は危険分子と知っていたからです。梶谷さんが逃げたのを見て、まずいと思ったのですが・・・で、差し出がましいのですが、品田さんを監視している方はいらっしゃいますか?」
「あ、いや、いない、よな」と年配が言う。他の三人は頷く。
「ぜひ彼女に見張りをつけてください。梶谷さんが殺されたと仮定すれば彼女が絡んでいる可能性が高いです」
「と言いますと?」
「わたしも知らずに梶谷さんを捕まえたのですが、品田さんは偽被害者というか、梶谷さんにわざと痴漢させたのではと。陽晴の彼女というのも疑惑の元です」
「仰りたいのは、例えばこういうことですか?」と年配刑事が言う。
「梶谷さんをバイオレットピープルと知って、色川さんに見えるように痴漢させて嫌がるフリをして捕まえさせ、すぐに篠崎を呼び犯行に及んだと」
「そうです。でもひとつ詰められない部分が。梶谷さんは篠崎の犯行と仮定して、雨はたまたま降っていたわけで、指紋が出ないのはそのせいだとしても、篠崎陽晴にあの殺し方は無理です」
「えっ?」
「どこにも痕跡を残さずに頭部を打って死ぬようにはできないはずです。報道通りなら不思議な死に方で、あくまでも仮説ですが、複数犯等でないと三件とも成立しないでしょ?」と引き締まった顔になる。
 色川の言うことは確かに的を得ている。動機が痴漢者抹殺としても、単独犯では困難な殺し方である。仮に複数犯として、下手人は誰なのか。
「色川さん。中野のジムの隠しマイクの場所はどこに?」若手が言う。
「男子のロッカールームとジム内全体に10数本。あとはサウナに確か4本」
「女子のロッカールームには?」
「あえて付けていません。意味がないというか、わたしも使う場所ですしね」
「だったら、女性なら、ロッカールームではどういう会話もできますね」
「確かに。でも女性に危険分子がいるようには思えませんね、少なくともあのジムには」
「今夜にでも、こちらのほうで、女子ロッカールームにマイクを付けてみたいですね。女性でも複数犯なら、あの死に方は可能ではないですか」
と年配が言葉を選びながら言った。
「ああ、気が付かなかった」と悔しそうな顔をして色川が言う。
「0時から朝6時まではメンテナンスのために閉店しますので、さっそくお願いします。裏口の合鍵を貸しましょう」とチェストの引出しから鍵を取ってテーブルに置いた。

 渋滞を抜け切れない野津はなんとか裏道に入り、たまたま自分のマンションが近いので着替えに寄った。史代は
「あらきょうはもう・・・」
「いや、甲州街道が渋滞でさ。丁度いいから着替えに来た。この黒スーツ最近ウエストがきつい」
「ねえ、来月でわたしも30よ。言いにくいけど、そろそろ子供が欲しいのよ。あなたも、もう35じゃないの」とお茶を淹れながら、史代は暫くぶりに夫に要望を出した。
「わかってる。オレだって子供のひとりや二人は欲しい。ただ、それをいまみたいに忙しいときに言うか?」
「疲れているときこそ『して』から眠ったほうが疲労はとれるそうよ」
「なんの都市伝説か。いやごめん、わかった。なるべく夜と日曜日は家にいられるようにするよ」と史代のか細い手を取った。
 そのとき岩田から着信があった。
「いまから梶谷邸に入るぞ。早く来い。あったんだよ鍵が」
「わかりました。いまちょっと家に寄ったんですがすぐ行きます」
急いで普段のスーツに着替えてエントランスに降りた。マンションの敷地の桜は蕾が開きそうになっている。春か、と思いながら車に乗ろうと玄関を出た瞬間、黒い影が目前を横切った。
 あっと思う間もなく腹部に激痛を感じ、シャツの右腹部を見ると、破けたところから大量に出血している。うめき声さえ出せない。ただうずくまって気が遠くなりそうになりながらも、かろうじて野津は119に掛け、出た相手の問いかけにはまったく応答できなかった。
見送ろうと出てきた史代は「あっ」と声を上げ、野津に駆け寄り、「どうしたの、ねえどうしたの!」と叫んだ。血の付いたスマホを手に取り、「怪我人です!切られたみたいで、血がたくさん」と言って、マンションの地番を伝えると、腰が抜けたように夫の傍らに崩れ落ちた。降りしきる小雨が、野津の出血を赤い小川のように流してゆく。

 岩田たち一行は、梶谷邸に着くと両親に深く一礼し、
「お待たせしました。一緒に中を捜索しましょう。ただし、鑑識と同様の装備をしていただきますが」
岩田は、本来身内でも入れないところを百歩譲って提案した。
止まない小雨の中、皆、コンビニで買ったビニール傘をさしている。
「だったら、あたし、ここで待ってる」と従妹は言った。
「弓絵ちゃん、ごめんね」と母親が言う。
 梶谷光の20代の従妹は、都心で暮らすOLだそうだ。梶谷亡きいま、東京での頼りはこのお嬢さんだけだろう。そう岩田は思った。少しイントネーションに関西訛りがあるのは愛嬌の内だ。
「ノリベンが来ないなあ」と岩田はボソリと言い、そんなに酷い渋滞なのかと案じたところへ、野津の妻から電話。マンション入り口前で腹部を何者かに切られ、救急搬送されたとのこと。命に別状はないが、現場に謎のメモがあったという。
「奥さん、内容は?」
「真相は知らないほうがいい、それだけです」
 岩田は搬送された病院を聞き、用が済み次第向かうと言った。野津が襲われたとなると穏やかではない。しかも一瞬で腸に達するほどの傷を負わされているという。殺意はなかったとしても見せしめにしては酷い。ここは冷静に梶谷邸を捜索して何か掴みたいところだ。
 鑑識を先頭に梶谷邸に入る。広い玄関に脱がれた靴はない。下足痕もすべて梶谷と加古のものだろうと推測された。まあ、後で詳しく調べないとわからない。廊下には梶谷のスリッパ痕のみが採取できた。応接室の奥、左に梶谷の仕事場兼寝場所がある。元々、仕事で疲れたとき用にシングルベッドがあるという。本当の寝室は2階だ。
 梶谷の10畳ほどの仕事場に入ると、ドアの奥真ん前に横向きにパソコンデスクがあった。ここで作品を産み出していたわけだ。鑑識が調べる間に、岩田はパソコンの右に活字で大きく印字された貼り紙を見つけた。

需要があるものは供給されるべきだ  十文字光

 これを励みに執筆していたのか、と考える。あ、と岩田は気付く。これはバイオレットピープルのことも表していないか。なんとも含みがある言葉だ。だが、これはご両親には秘密にしてある事項。鑑識の課長に話すと、
「いろいろな意味に取れますよね」と言って、貼り紙と留めた画鋲の指紋を採取したが、どちらも梶谷のものだった。出版社の者が原稿取りに訪問する時代でもないので、梶谷と加古の痕跡しか見当たらない。部屋の反対側の大判カレンダーには原稿の締め切りや子供と会う日、通院日など、予定がびっしり書き込まれていた。西東京医大高尾というのは通院日だろう。本来なら先週の月曜日が通院日だった模様。その辺は病院にも確認して、死亡も報告してある。前回の診察では病状は安定していたという。ここの先生は日本の線維筋痛症の権威で、だから梶谷も多摩総合医療センターからの紹介で行ったらしい。
「床から家具から壁も全部確かめましたが異状はないようですね」と鑑識課長。
 ご両親は手袋の手で、息子の著書などを懐かしむように手に取っていた。もちろん、鑑識が調べた後で。
 「刑事さん」と父親が言う「殺されたとして、何かわかりましたか」
岩田は残念そうに首を左右に振って、
「なにしろ、ここが現場ではありませんしね。投薬の種類と量も見ましたが、かかられている病院の指示通りに服用していた模様です」
「この貼り紙の意味は」
岩田は一瞬とまどったが「息子さんのスローガンでしょう」と言った。
「ご自分が社会に求められていることが生き甲斐だったようですね」
「なるほど」
 母親は「痛みと闘いながら頑張っていたんですね」と涙ぐんだ。
そのときキッチン横のパントリー(収納庫)の奥から出てきた鑑識が、
「これは、投薬されてない薬だ」と木の小箱を持ってきた。
中に多数の小さなカプセルがポリの薬袋に密閉されていた。
 鑑識課長が両親に背を向けて、野津を部屋の隅に誘う。
「おそらくですが、人工ではない本物のモルヒネかも」
「だとしたらちょっと問題か」
「微量ならましですが、依存性がありますからね」と課長は囁いた。
「これ、ちょっと押収して調べさせて貰う」
 梶谷は「あの日」もモルヒネを服用していたのか?岩田の心になぜか引っ掛かりができた。痴漢事件との関連性はないのか等々である。ただ、梶谷の遺体からはモルヒネの反応は出ていない、というか、人工と天然の区別がつかない。トラマドールという成分は検出されているが投薬量から言って正常値ということだった。
 それ以外、梶谷邸に異変はなく、目ぼしい遺品は両親に了解を得て預からせて貰い、梶谷宅
の鑑識捜査は一応終わった。

 岩田は野津のことが心配で、公用とみなして1台のパトカーで病院に向かった。
野津の意識は回復しており、付き添いの妻も一安心したようだ。
「油断しましたよ」と野津。
「いや、狙われていたんだろうな。仕方ない」岩田は慰めた。
「例のメモはここには?」
「ありますよ。史代」と野津が妻に言う。
ベッド脇の引き出しから、濡れて皺の寄った白いB5版の紙が。
大きな活字で『真相は知らないほうがいい』とだけ記されている。パソコンで打ってプリントしたものだろう。警告文と取れなくはない。
「犯人の姿は?」
「左から、黒い影が来たと思ったら、激痛で、見ていません」
傷が痛むらしく、言葉を切りながら言う。
「奥様は?」
「わたし、誰も見ていませんし、音も聞いてません」
「犯人、自転車だったのかも、ですね」
「ガンさん、なるほど。ちょうど雨で車輪痕も消えてしまうし」
と痛みで顔をしかめた。
「チャンスを伺っていたんだろう、だがなぜきみが標的に?」
「もしかして、加古くんと個人的にやり取りしていたことも知っていたとか」
「うーん」と岩田は黙考に入った。だとしたら、次に狙われるのは加古かも知れない。嫌な予測が広がってしまう。
 梶谷光事件以外の2件の裏取りをしている刑事たちからは、遺族は痴漢をしたときに死んだとは聞かされていない、また変死ではあるが事件性はないと言われているという報告が入った。それで遺族が納得しているかといえば、聞き込みでは「殺されたような気がする」と言っているそうだ。
 『解決してあげたい』と岩田は思う。だが、その糸口が事件の連続で皆目わからなくなっている。彼はその意味も含めて内心苛立ちを覚えていた。
「ガンさん」野津が口を開いた。小声しか出せていない。
「うん?」
「LGBTQって知ってます?」
「LGBTじゃなくか」
「Qというのは自分のセクシャリティが分からない人です。合意痴漢などいわゆる変態はQには当てはまらないかも知れません。でも、性的マイノリティなことは、共通項です」切れ切れの囁き声になっている。痛むのか、野津はまた顔を歪めた。
「なるほどなあ」岩田はまた考え込んだ。
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