第3話 アンダーテイカー

文字数 8,844文字

 あくる日の水曜日、野津はひとりで色川の事務所を訪問した。仕事で外出があるので15分だけという。それでも急いで確認したいことがあった。きょうの色川は微妙な朱色のセーターに黒のパンツ姿。やけに発達した臀部に野津はつい見とれてしまったが、気付かれないよう、背筋を伸ばした。真面目な性格ゆえ『妻がいる身なのに』と恥じる。
「きょうは何ですか?」
「ああ、いやちょっと。中野の加圧トレーニングのことで。あなたはあそこの」
「株主ですよ。まあ、いわゆる投資です。わたしも快適に通えるジムですし」野津の言うことを最後まで聞かずに答える。
「かなり鍛えておられるようで」
「ええ。歳に負けないよう、頑張ってますよ」と微笑み、
「株主だから希望は聞いて貰ってます。そのことでしょう?」
「そうです。会員をどう選ばれているわけですか?あとはこれ」
 そう言って野津はタブレットを取り出し、画面を見せた。
「このバイオレットピープルと対抗勢力のことはご存じですか?」
「ああ、噂には聞いてますけど、わたしはあまり気にしてませんわ。それに入会の基準はありますが、いくら警察でも守秘義務がありますのでお答えできません」
素っ気ない返事だが野津は不自然と感じた。
「そうですか。ではこのブログは?」陽晴のブログを見せる。
「彼はジムの会員ではありませんかね」
「だとしても、わたしの希望で入会させたわけではないので。品田さんの彼という認識はありますが、あの日だって何も知らずに、心細いだろうから来るのを許可しただけですよ」
「名簿にあることは調べがついています。ジムの会員はすべてがバイオレットピープルの対抗分子ではないのですか。それをキチンとお答えいただきたい」
「さあ、どうですかね。わたしだけが株主ではありませんし、経営は社長に一任していますから。あ、もう時間がありません」
「じゃあひとつだけ。同じような事件が他に二例あります。犯人らしき人物は捕まっていません。MEAの顧問弁護士が絡んでいます。そして今回も」
「わたしが、ですよね。疑われるのは当然か」と笑い「知りませんよ、そんなこと」と言って上着を羽織った。
 野津もきょうはここまでと思い、すっかり冷めたコーヒーを一気に飲み干して、ソファから立ち上がった。

 野津が色川を訪ねていたのとほぼ同時刻、加古は事件に無関係のフリをして、中野の加圧トレーニングジムに行き、入会したいと申し出た。「中野サンテラスジム」という名と場所は野津に聞いた。スポーツの経験等いくつかの質問をされ、お待ちください、と受付の女性が裏に入った。
 3分ほどして、
「ちょうどひとり分、空きがあるので、この約款に同意いただければご入会できますよ」と身分証明の提供を求める。加古は学生証を出し、コピーに同意した。
約款に目を通すと、ありきたりな文面で、痴漢の痴の字も記述されていない。表向きはとりあえず普通か、と加古は思う。
「きょうからでも早速どうぞ」と誘われ、ウェアを持って行かなかった加古に、100円で貸し出ししていると言うので、見学じつは探りのつもりでロッカーに行き、着替えてジムに入った。
 中は加圧ジムらしく熱気が籠っていたが、汗を流しているメンバーは、特に筋肉モリモリという感じではなく、必要な筋肉と体型の維持に集中しているようだった。一口で言えば、しなやかな中量級ボクサーと言ったところか。加古も剣道部の出身なので、身長も筋肉も人並みだが俊敏さはある。走っても陸上部はだしの速さだ。
ランニングマシーンがひとつ空いていたので、そこで走りながら周辺を伺う。できれば会話を聞きたいのだが、皆黙々とトレーニングしている。
チャンスは帰りのロッカールームか、と加古は思案した。いまは16時半、会社帰りに寄るメンバーは18時前には来るはずだ。不自然にならないよう、一通りの加圧トレーニングをしてみた。若い加古には、女性の姿が眩しく、目のやり場に困った瞬間もあった。
 女性経験ひとり、現在彼女なしの彼は、年齢的に相応の欲はある。勃起しそうなのを我慢するのに気力がいった。高校時代に付き合った敦子とは、彼女が地方の大学に行ったので、そこで縁が切れてしまった。大学生になってからは、女友達は多かったものの、思わせぶりな太腿を露出しているのに、キスさえ誰ともできていない。
 「鬼太郎くんは安全牌」と言われたのは最近のことだ。別に草食系でもないのに、外見が柔和ゆえに女子は気を許して寄って来るが、まったく交際目当てではない。気になる子はいるのだが、サークルも違うし、クラスが同じと言っても大学ではそれほど会わないのが普通だ。
 加古は17時半にロッカーに行き、内心わざとゆっくり着替えた。ロッカールームは思惑通りひとが多かった。ぼそぼそと言葉を掛け合うひともいる。加古は耳を澄ませて聞き逃すまいと考えた。
「きょうはちょっと頑張らないと、五日振りなんで」
「わたしも今月まだ2回ですよ」
「これの後のビールが美味いんですよね」などという普通の会話ばかりだ。
が、そのとき、
「アンダーテイカー」という言葉が遠くで聞こえた。
そういうリングネームのプロレスラーの話かと思ったがそれとも違うようだ。
「20日、行きますよね」
「ええ、参加しますよ」
というやり取りが聞こえ、何やら集会の話の様子だ。
 何気ないフリをして会話のほうを見やると、ごく普通の30代とおぼしき男たちである。しかしきな臭い匂いがする言葉だ。ひとつまた、ヒントが増えたなと加古は思う。

 水曜の午後と木曜日、野津は岩田と共同して、反バイオレットピープルの集団を探していた。個々ではなく、何かの団体のようなものがあるかと話し合ってやっている。
パソコンやネットがやや不得手な岩田も、必死にキーワードを打ち込んでいる。
「あっ!」と岩田が声を上げる。
「ノリベン、これはもしかして」
 野津勉、ノツベン、ノリベン。私的なニックネームである。
野津は右にいる岩田のパソコンを覗き、
「ガンさん、ジ・アンダーテイカーって、それは聞き捨てならない」
「これどういう意味だ」
「英語で『墓掘り人』ですよ。プロレスラーにもいましたが、いま画面に出ているのは、闇サイトの入り口に違いありません」
野津は岩田のパソコンを操り、サイト内に侵入した。「Sign」というところで、パスワードに苦労した。これは明日、科捜研の出番か。後ろ髪を引かれる思いで二人は帰宅の途についた。
 翌日、朝から科捜研の若手水野に頼んでパスワード解析を依頼した。1時間後、水野は、
「ちょっと苦労しましたが、会員の情報を手に入れたので」とパスワードをメモに書いてきた。
中の書き込みを新しい順に追う。死ねという単語が目立つが、何かに腹を立てて言っているものの、バイオレットピープル関連の書き込みがない。
 3月だというのに汗だくになって記事を追ううちに、「クソ紫」というワードが。篠崎陽晴のブログにもあった単語だ。
「クソ紫死ね。見つけたらやる。まだ三人か、みんな頑張れ」
これは大ヒントか。二人は顔を見合わせる。
「まだ三人。みんな頑張れ、か。これは只事ではないな。このサイトの主宰者は」
「データ班に行ってきます」と野津は席を立った。
岩田は慎重に考えた。「バイオレットピープル」とは記述されていない。が、陽晴のブログとの一致。この記述も陽晴か。
「見つけたらやる」ということは書き込んだ人間はまだ犯人ではない。「みんな」という単語はメンバーに対しての呼びかけであろう。ただし、だ、「痴漢」という単語が登場していない。これではまだまったく材料として不足である。
 そこへ野津が小走りで戻ってきた。
「主の素性は割れました。が、一般人のようでMEAとの関係性は不明です」
「出頭させるか、任意か」
「いや、応じない可能性が高いですね。発信場所は特定できましたが、そこが住まいではないでしょうし、東京で隠れ場所はあり過ぎますから」
「痴漢という単語がまったく出てないしな」
「いやもう少し見ましょう」
 もう夜だというのに、二人は帰る素振りがない。
「もっと古いのに飛びます」野津は事件当夜のところまで一気にスクロールした。
「ええと、この辺りが事件当夜の時間帯ですが」
「『Sign成功』って関係あるか?」
「サインという英語は意味が豊富なので、いろいろな読み方ができますね」
「署名、象徴、印、合図とか」
「他にもまだたくさんあります。記号、標識、看板という意味も」
「看板?おい、三件の殺しの共通項!」
「え?壁か壁状の物、あ、殺しの手口、死体を看板に見立てて」
「いや待て。それはちょっと飛躍し過ぎで、こじ付け気味だな。だが一応記憶してはおく」
と岩田は手帳に走り書きのメモをした。
「この書き込みの人物特定ができないかな」
データ班はさすがにもう帰った。
「特定できても、殺人の証拠にはならんよ」と岩田。
 二人の憶測が的を得ていても、それだけでは手掛かりとは言えない。揃って肩を落とし、岩田と野津は家路についた。史代は内心怒ってるかもなあ、と野津は溜息をついた。

 事件から1週間後の火曜日、やっと捜査本部が三鷹北警察にできた。
「おせえんだよ、今更。散々調べさせておいて」
岩田がぼやく。
「殺人かどうか、いまだに断定できないんですから、本部ができただけでもいいほうですよ」と野津。
 本部長になる署長の警視、高柳が壇上に立った。
「まだ殺人とは断定できない。が、似たような事例がほかに二件発生しており、殺しだとすればだが、いずれも犯人逮捕に至っていない。今回を含めて三例とも、指紋は残されていないと報告された。武蔵関公園は下足痕があったが、ありふれたスニーカーの26センチ。井の頭公園は多数の下足痕があり、どれが犯人のものかわかっていない。三例に共通するのは防犯カメラの死角で殺されていることと夜間であること、そして、痴漢の加害者でMEA、痴漢撲滅同盟の顧問弁護士が取り押さえ、駅から逃げたところ、死亡している。詳細は岩田警部どうぞ」
岩田が壇上に上がった。
「まずバイオレットピープルという、まあ痴漢プレイ好きのサイトがありまして、紫色が目印で痴漢OKという同人みたいなものです。そしてそれに反対する勢力らしきものも伺われます。バイオレットピープルと同様の闇サイトで、ジ・アンダーテイカーというのがあり、その一部に犯行を匂わせる書き込みがありました。MEA・バイオレットピープルの対抗勢力・アンダーテイカー、三者の接点はわかっておりません。うまくいけば、ですが、三例の犯人が全部逮捕できるかも知れないという重要な案件です」
一礼をして下がる。
再び警視が立ち、
「まだ大規模な捜査はできないし、たかだか60人だ。二人一組に分かれて入念な聞き込みやネット検索、疑わしい人物の聴取をして欲しい。三鷹北署以外の刑事もご苦労だがよろしく頼む」
そのあと、30組のペアリングがなされた。岩田と野津は当然ペアだ。
岩田達二人に他の捜査員の質問が殺到した。どこまで進展しているのか聞いておくべきだからだ。それに応答するだけで1時間を要した。

 加古は何事もなく加圧ジムに通っていた。中野駅の南方面だから、自転車でなんとか行ける距離だったのもあって、『週2、3回は行こう』と考えていた。アンダーテイカーのことは野津に連絡したが、すでに同じキーワードを掴んでおり、闇サイトだと判明していた。
その後、新たな情報はジムで得られず、もうすぐ春休みだったが、加古はさぼっていた大学キャンパスに顔を出した。サークル仲間にも会いたかったし、気になっている女子同級生にも会えたらなと思っていたからだ。
 ミステリー研究会では、加古が関係している梶谷の事件の話で持ち切りだったが、加古は野津に秘密と言われたことは絶対に喋らなかった。報道ではバイオレットピープルの存在が大きな記事となって波紋を呼んでいたが、一般的にはさほどの騒ぎではない。
 十文字はミステリー小説の新人賞を獲った人物なのに、世間はとっくに忘れている。ただ、「痴漢されて喜ぶなんてねえ」という話が雑談のタネにはなっていた。
 心理学の授業に出ると、前から気になっている高島慶菜の姿があった。
すぐ後ろが空いていたので座り、
「久し振りだね」と声を掛けると、高島は、
「あ、加古くん、ずっと大学来なかったでしょ」と頬を緩めた。鬼太郎ではなく加古と呼ぶ。
「いろいろあってさ、最近何かあった?」
「いいえ、特には。国文科の教授ひとり辞めたくらいかな」小首を傾げて見せる。
「加古くん、なんか大人っぽくなった感じ。わたしなんか妹みたいな気がするわ」
「いやあ、そんなことはないよ。高島さんだって十分大人じゃない」と囁く。
「きょう、あとでお茶して話しできる?」と高島。
加古は面食らって、
「い、いいよ。これ終わったらすぐにでも」と答えたが、
「そこ、うるさい」と准教授が叫ぶ。
 教室には、冷やかしともなんとも言えないざわめきが起こった。二人は、肩をすくめて授業を受け続けた。
 心理学が終わったのがちょうど15時。加古が行きつけの喫茶店で、高島慶菜が向かいに座る。生粋の東京人と聞いていたが、いわゆる色白の小柄な美形で、和風な顔立ちが加古の好みに合致している。戸田菜緒という女優を若くした系統だと思っていた。白いシャツワンピースから伸びた美脚の太腿が目映い。
 お互いに20歳である。恋するには最もいい季節であろう。加古は直り切っていない寝癖をいつもより気にしていた。
「あのね、辞めた教授のことなんだけど」とガムシロップを半分入れたアイスティーを一口飲んで慶菜が話し出す。加古は気取ってコーヒーをブラックで飲んでいる。微かにハスキーな声も慶菜の魅力だ。
「矢野教授が何かしたの?」
「電車で痴漢したらしいのよ。で、被害者はおとなしくしていたんだけど、見ていた男性が捕まえて警察に行ったって」また痴漢の話題か、と加古は思う。
 最後に十文字の家を訪ねてから、少しずつ春めいてきている。早咲きの桜の花びらが店の窓外にふわりと舞った。それを横目に見て、『彼女と桜、似合うな』と素朴で何の変哲もない感想を抱く。まだ都会人の洗練さが少ないのも彼の魅力ではあったが。
「女の子が逃げようとしていなかったら、合意じゃあないの?」
「逃げようとしたのに、しつこく触ったそうよ」慶菜は吐き捨てるような言い方をした。
「合意の痴漢って何?加古くんもそういうひと?」
「いやその、ちょっと十文字光の事件でね。詳しくは話せないんだけど」
「ああ、バイオレットなんとかのことね。あんなの変態じゃない」
「それもそうだけど。いまはLGBTを変態とは呼ばないよね。それとは違う?」
「違うでしょ。痴漢されたくないひとにまで迷惑かけたらダメよ」と口を尖らす。
「うんうん、それはそうだよね。ただ、文字や表情では伝えられないからサインを決めたんじゃないのかな」
「うーん、言語による伝達は二割で、後は目とかボディランゲージなど、っていう研究もあるわよね。でも色でって、誤解の元じゃないの」
「じゃあ形ならできる?」
「形でもたまたまのことがあるから誤解されそう」
「完全に打ち合わせ済みだったら、合意の意味がなくなりそうだと思うんだけどなあ」
 加古は男女の中立のつもりで話している。
「矢野教授はバイオレットピープルだったの?」
「いいえ、それは知らないけど、逃げようとしたのに触るって変でしょ?」
「矢野教授はクビに?」
「形式上は依願退職だけど、そうさせたのはおそらく大学よね」
と、慶菜は長い前髪を掻き上げつつ、アイスティーの氷をカラカラと混ぜて一口飲む。外は若干雨もよいになってきたが、春にはよくあることで、降っても小雨であろう。
「加古くん、なんか前より逞しい感じだけど何か始めたの?」
「うん。加圧トレーニングしてるんだ。でもまだちょっとだよ。違うかなあ」
内心凄く喜んでいるのを必死で堪えた。
「男らしくなったわよ、学校休んでる間に。ほら腕の筋肉とか」
慶菜が好意的に言うので加古は脳内で万歳状態だ。
「僕のこと、よく見てるね。僕も高島さんのこといつも見ていたよ」思い切って一気に言った。
「ええ?そうなの?加古くんモテるから、わたしは仲間に入れなくて」
「あれは異性でも友達。『安全牌』だってさ。本当は肉食なのにね」と照れ笑いをした。
「肉食なの?」慶菜は声を上げて笑った。
笑い転げる姿も、加古には可愛いとしか思えない。
「自慢するほどじゃないけどさ、草食系ではないと思う」と加古も破顔した。
 慶菜は一呼吸おいて、真面目な顔つきになり、ゆっくりと言った。
「今度ね。観たいお芝居があるんだけど、加古くんと、行きたいな」
ストローをくわえて顔を近づけ上目遣い。慶菜は演劇部に籍を置いている。この仕草が演技なのか地なのか、加古には判別がつかない。
「え?マジ?いいよ、うん、僕でいいなら行くよ」
本当は小躍りしたいくらいだが、若いがゆえに平静を装う加古。
 財布が少し寂しいが、加古は「いいから」と言ってお茶代を奢った。最近バイトしてないからな、と反省した。次の仕送りは二十五日だ。家賃と生活費と学費を除くと、余裕はほとんどない。アルバイトありきの仕送り額だ。父親の年収も低いのだ。せめて漁師だったら違うのだが、加古の父は小学校の教師だった。母も元教師で、二人で働いていたころは多少の余裕はあったが、加古が高校生のときに母は子宮筋腫で手術して、それを潮に退職した。
どちらかと言えば裕福な育ちが多い明京大の学生の中では、彼は金銭的に恵まれてはいない。でもそれを苦とも思わなかった。好きな授業を受けて、ミステリーの研究ができて、もう死んでしまったが、十文字に会えればもう、いわゆるリア充なのだ。恋愛は別として。

 折角の捜査本部が足踏みして事件から10日経った。どうしてもMEA・アンダーテイカー・反バイオレットピープル三者の接点が何も見つからない。ようやく進展があったのは金曜日。バイオレットピープルの代表と名乗る男が三鷹北署に予告も無く訪れた。いささか論点がずれた報道に嫌気がさしたと言う。すぐに野津が応対した。
「嫌々プレイというのもありますので、嫌がるフリをして興奮度を高めるわけで、逃げようとしたのに、っていうのはちょっと違うんですよ。これ見よがしに紫色の物を持っていたからなんですけどね」
「嫌々プレイというのは具体的にどういう?」野津が訊く。
「逃げるフリだけで本当に逃げようとしていない、つまり、本当に嫌な人は下半身から挙動を起こして離れようとしますが、上半身が逃げているだけで、むしろ下半身を突き出すような格好で、これはすぐ分かります」
「ただね、矢野さん。紫色はたまたまもあるじゃないですか」じつは明京大を辞した矢野が代表なのである。下の名前は和親(かずちか)。住所は目白。実年齢よりは若く見えるが52歳だ。妻子あり。主にラッシュ時の、朝の山手線に乗るので、そこで同意者を探して痴漢していたという。
「でも、完全に打ち合わせたら、面識がある同士ではプレイになりません。心理学的にも、文学的にも、飽くまでも他人の関係で初めて痴漢プレイが成立します」
「もっともらしいことを言っても、同意でないひとに迷惑かけてるでしょ」と野津は言った。反対勢力の論法拝借だが。
「でも他にやりようがない。一番珍しい色に決めたのはわたしが研究した末にですから」
「紫色は珍しい、か。そう言われると確かにそうだ。だが不完全なサインではある」
「それはいまでも課題です。形と色の両方にすると、小物が限定され過ぎて入手できない可能性もあるし、障害者タグみたいにしたらそれも意味ないし。極秘のサインだったので、もうバレたからもっと高度なものにするしかないんですが。吊革の捕まり方を特殊にするとか、更に服装も限定するとか・・・」
 矢野は苦渋の表情になる。合意と思った痴漢で辞職だから無理もない。離婚の危機でもあるという。
「合意かどうかの見極めは色だけですか?」
「いや、明らかに触って欲しいという意志の判断は他にもあります。女性の肩越しに男は前が見えますが、自分に尻が密着しているとき、女性の前に完全に隙間がある場合や、電車の揺れを利用して不自然に強く押し付けてくる場合など、紫、そうバイオレットピープル確認ができなくても、触って欲しいの判断方法はありますね」
「ところで矢野さん。反バイオレットピープルとジ・アンダ―テイカーは知っていますか?」
「ええ。その二つの集団は別なのですが、部分的に合同つまり重なっている人間がいます。十文字さんの殺人はその合同部分の仕業ではと考えていました。MEAとの繋がりはわたしにはわかりませんが、疑ってはいます」仲間が三人死んでいる悔しさを露わにして見せた。
「中野の加圧ジム、サンテラスジムというのはご存じで?」と野津。
「一応は。色川さんの息がかかっているのはわかっています。あそこの会員に犯人がいる可能性は十分あると思いますよ。ただし、目くらましの意味で普通のひとも受け入れているでしょうけど」
「ここだけの話、もし犯人がいたとすると、犯行の後、ジムを辞めていると思うんですよね」
野津は小声で囁いた。
「あり得ますね。万一捕まっても、もう色川とは縁が切れているわけで」さすがに大学教授は頭脳明晰だ。
 ただ、色川もジムの社長も、個人情報保護だと言って、メンバーの入れ替わりの開示を拒否している。令状でもないと無理だろう。ジムに関しては加古の情報が頼りになっている。民間人の潜入捜査をあてにするのは警察として歯噛みしたい気分だが。
 ここ数日加古からの連絡はなく、野津が電話しても、春休みまではあまり行けないという。彼女でもできたか?と野津は自分の青春時代を重ね合わせた。恋をしたいピークの年齢だもんな、と思う。その想像はほぼ正解だった。
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