第7話:寛太の通信高校講座の勉強

文字数 2,277文字

 寛太は、その後3月にはカセットを全部聞き終え、次に何したいと言うと小説を読んでみたいと言うので俺の本棚にあるものなら貸してやると言い次に投資の勉強を本格的にしたいので教えて欲しいと幸夫に言うので了解し、更に英語を話せる様になりたい、歴史、地理、化学、物理も好きだと話したので時間かけても構わないからカセットに録音してあげると伝えた。

 幸夫は安江の言った通り寛太は勉強すればできる子なんだと再確認した。株の方は、1977年3月にトヨタ株が上昇してきて600円で売り利益が1160万円で残金が1833万円となった。その後も寛太の空いてる日は必ずと言う程、熱心に高校講座を聴いていた。ノートもとっていて覚えも早い。8月になり寛太と2人で札幌へ行き北海道大学の中で入室可能な所を歩いて回り図書館にも入り、スゲー静かだなと言い何とも言えない良い感じだと語った。

 学校卒業した後でも一般教養講座をやっていて社会人や高齢者も授業を受けられるんだと聞くと俺も聞いてみてなーと言った。高校講座が終わったら調べてみるから一緒に来て見ようかというと是非、来たいと言い、そんな時は連れてきてくれと真剣なまなざしで語る素直な顔を見て、思わず熱いものがこみ上げてきて涙がこみ上げた。そして寛太が幸夫に向かって、あんたは偉い人だ、本当に優しい人だ、強い人だと、抱き付いて泣いた。

 俺は幸せもんだ、こんなに良くしてもらってと言い、幸夫は、そんな寛太を強く抱きしめた。お互いに、これからも勉強していこうなと言い、その後クラーク博士の像の前でボーイズ・ビー・アンビシャス、少年よ大志を抱けの意味を説明してやると、俺もこれからでも遅くねー、大志を抱くぞーと叫んだ。幸夫は、こう言う寛太の姿を見ていると立派な1人前の男にしてやらなければと強く思った。

 札幌駅近くで夕飯をして帰路につき9月から12月で高校講座は聞き終わり、次は何したいと聞くと英語と投資の勉強と言うので来年はそれで受けようと伝えた。その後1978年が明け、新年の挨拶に嵐山家を訪ねると好恵が苫前商業高校を卒業し苫小牧の洋品店に務めた。ゆくゆくはデパートの用品売り場で仕事がしたいと話した。続いて和子が高校の国語の先生の免状を得て苫小牧東高校の国語の教師に就任したという知らせを聞き競争率6倍の試験を突破した。

 和子に聞くと、まだ見習いだけどねと笑いながら言った。 幸夫が突然、ちょっと聞いてくれるかと言い寛太の高校通信講座の勉強を約2年間続けた事と今後、英語と投資の勉強をしたいと話した事。また北海道大学の一般人の教養講座に参加したいという話をすると、それを聞いた良三が兄ちゃん、すげえなと言い、それを聞いていた和子も、ぽろぽろ泣きながら兄ちゃんが俺は良いから、お前は大学へ行けと言った日の事を思い出して号泣してしまった。

 おもむろに母の安江が実は寛太には苦労をかけて私一人の稼ぎでは食っていけないところを助けてくれ一銭も無駄遣いせずに家に金を入れてくれたんだと言い、朝一番に漁港へ行き、みんなに挨拶して何かあったら言ってくれ手伝ってやるからと言い港のみんなの手伝いや下働きをして稼いだ金も、みんな家に入れてくれたんだよと言うと、弟たちも兄ちゃんありがとうと抱きついてきた。

 すると寛太がもう少ししたら、もっと良い暮らしができるから期待して待ってろ、詳しい事は金ができてから話すからと言った。そんな、うれしい新年会を終えて幸夫は帰っていった。その後、寛太は1978年1月にトヨタ株365円で1万株365万円で、ソニー株を615円2万株で1230万円で買い残金が238万円となった。

 また英語の勉強、特に話す英会話の勉強を中心に始めた。株の方は四季報の調べ方、連結貸借対照表、損益計算書、キャッシュフロー計算書、有価証券報告書の調べ方を教え、夏の日曜日、北海道大学の一般人向け教養講座1クール10回の最終日7月25日の「君はいかにして生きるべきか」を聴講にしに行った。その後、近くの喫茶店で、感想を聞くと賢い人は、すごいね。

 学問って本当に奥が深いと終始、感動しているようだった。また次の講座の予約が取れたら、また来たいと言い家に戻った。その後も8-11月も勉強を続け寛太は簡単な日常英会話をマスターし、投資の方もPER、PBR、ROE、キャッシュフロー、フリーキャッシュフローも理解していった。1978年が終わり1979年が明け1979年のイラン革命によりイランでの石油生産が中断したためイランから大量の原油を購入していた日本は需給が逼迫した。

 1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計14.5%値上げする」事を決定し原油価格が上昇。第1次石油危機並に原油価格が高騰し第一次オイルショックの
経験から省エネルギー政策の浸透、深夜のテレビ番組放送の自粛や第1次同様のガソリンスタンドの日曜祝日休業などが行われた、これにより原子力や風力、太陽光など非石油エネルギーの活用の模索、また省エネルギー技術の研究開発への促進の契機ともなった。

 寛太は、その後も、勉強を継続して、化学、物理、文学の勉強もしていった。そうして1979年が終わり1980年を迎えた。この年はモスクワオリンピックが開催されたが前年1979年12月に起きたソ連のアフガニスタン侵攻の影響を強く受け、集団ボイコットという事態に至った。日本、アメリカなど67ヶ国のIOC加盟国が不参加を表明した。
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