文字数 1,458文字

 大学に入ってからは、野球はしなかった。
 スポーツ推薦で入ったわけではないし、これ以上野球を続けるほどの才能がないことは自分が一番解っていたから。
 そのかわり、少しでも親の負担を少なくするためにアルバイトをした。
 始めにしたアルバイトが、中華料理店でのウェイター。
 サンマ―メンのことも知らなかった僕は、初めの内苦戦したものだ。
 その他にも、自家製パン屋の早朝配達や、ゴルフ場の除草剤散布の助手、工場でのパック詰の流れ作業等ありとあらゆるバイトをした。
 出席を確認する授業だけ出て、後はバイトをし、バイトの金が入ればパチンコをすることが唯一の娯楽だった。
 高校時代に頑張りすぎた反動からか、まじめに勉強する気が起きなくなったんだ。
 大学には勉強に行っているのかバイトに行っているのかわからないといった感じ。
 そんなある日の午後、バイトもなく、かといって出席をとる授業もない日だったため、大学には行かず、地元の公立図書館に何となく入ってみた。
 本当に、街を歩いていて、目の前に図書館があったから、
(暇つぶしに、入ってみようか)
 と思い立ち、ふらふらっと入ったんだ。
 それというのも、僕は案外文学青年なのだ。
 中学生の頃、ビートルズにもはまったが、志賀直哉を熱心に読んでいた。
 何で志賀直哉を読んだのかっていうと、国語の授業中教科書に載っていた短編(『城の崎にて』か『小僧の神様』だったと思う)を先生が読みながら、志賀直哉を小説の神様とか文章が素晴らしいとか言って讃嘆していたから、神様の小説は是非読むべきだと思い、しかもどうせ読むなら代表作を読んでやろうと思い、いきなり「暗夜行路」の文庫本を買って読んでみたら、これが面白くて長編ながら一気に読んだ。
 野球漫画しか読んでいなかった僕に、はじめて読んだ純文学で感動を与えてくれた「暗夜行路」は、今でも僕の好きな本のベスト三に入る。
 この日僕は、かねてから読みたいと思っていたサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を借りようと、書架内を探した。
「ライ麦畑でつかまえて」も正子が、
「この本いいから読んだら」
 と中学生の僕にわざわざくれたのであるが、そのまま読まずに実家に置いたままだった。
 僕は、カウンターにいき、利用者登録をしてもらうよう図書館員の男性に手続きをお願いした。
 男性職員は、すごく感じのいい人だった。僕は、この感じのいい職員の顔を見たとき、
(どこかで見覚えのある顔だ)
 と思ったが思い出せない。
 男のネームプレートには、「藤原」とある。
 僕は、しばらく、フジワラという姓を心の中で反芻してみた。
 職員が登録事務をする間、じっとその手つきや動作、俯き事務処理する男の顔を見ていると、ほろ苦い感情が蘇って来た。
「フ・ジ・ワ・ラ・タ・ク・ミ」
 僕は、思わず大声を出すところだった。
 髪を七三に分け、事務服をまとっている、いかにも公務員然としたこの青年は、昔正子と同じバンドでリードギターを弾いていた、ジョージ・ハリスン似のタクミ君に違いなかった。
 タクミ君は当然僕のことに気付かない。
 当時の僕は坊主頭であったし、今では、当時のタクミ君以上の長髪にしているのだから。
「タクミさんじゃないですか?」
 僕が事務処理をしているタクミ君に声をかけると、タクミ君は怪訝そうな顔をした。
「そうですが……」
 タクミ君は、まだ僕のことに気付かない。
「山田一郎です。山田正子のイトコの」
 タクミ君は、少なからず驚いた顔をした。
 そして、少しの沈黙の後、僕に言った。
「久しぶりですね」

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