ボサ男と寝癖マンと絞殺死体(三)
文字数 2,423文字
「中で人が……」
ボサ男が落ち着いた声で寝癖マンに問い掛けた。
「あの、他に人は居ましたか?」
「他に……?」
「はい。死んでいる人以外に誰か居ました?」
ボサ男の発言は不謹慎だったが、諌める余裕が私には無かった。寝癖マンはしばし考え込んで、やがて答えた。
「居な……かったと思う。そんな気配は感じなかった」
聞いたボサ男は室内に向かって歩き出した。私は慌てた。
「ちょっとあなた、中に入る気!?」
「ええ。死体だけなら危険は有りませんから。警察に通報するにしても、ある程度は情報を知っておかないと」
か弱そうな外見だけれど、予想に反して彼には勇気が有った。それでも行くべきとは思えなかった。
「死体が有るってだけでも充分に通報案件でしょうよ!」
「まだ蘇生可能かもしれない。それも含めて見ておかないと」
ボサ男はハキハキと意見を述べた。堂々とした彼の態度は頼もしさを演出した。次の言葉さえ無ければ。
「さ、行きましょう」
「へ?」
最初、ボサ男に何を言われているのか解らなかった。
「ほら、早く」
急かされて理解した。奴は私が一緒に行くと信じて疑っていなかった。死体が有るというあの部屋に。
……あのさぁ、許可無く戦力に組み込まないでもらえるかな? 寝癖マンもそうだけど。あなた達は初対面の相手に対する距離の詰め方がおかしいよ?
「いやいやいや、私達が行かなくても、目撃したこの人に通報してもらえばいいじゃない」
私は平穏無事に過ごしたい一般主婦だ。誰が魔窟なんぞに行くか。
「その人にできると思いますか?」
ボサ男は顎で寝癖マンを指し示した。寝癖マンは荒い息でハフハフ苦しそうにもがいていた。ショックで軽い過呼吸を引き起こしているようだ。
「あの、息苦しいからって吸うだけじゃなくて、一度深く息を吐き出した方がいいですよ。それから数秒間息を止めて、また軽く吸うという手順を繰り返してみて下さい。上手く吐けないと新しく吸えないものなんです」
ボサ男は寝癖マンに、過呼吸の対処法らしきものをアドバイスした。蘇生がどうとか言っていたし、勇気の他に医学知識も持ち合わせているのかもしれない。それなら大丈夫……なのかな?
「……分かった、一緒に行くよ」
私は入室に同意した。やれやれだ。マスク越しだけどボサ男が笑った気がした。
ま、親子ほども歳の離れた若い子を独りで行かせて、何か遭ったら目覚めが悪いどころの騒ぎじゃなくなるもんね。
私とボサ男は連れ立って、知らない誰かの住居へ入った。
支える者が居なくなったので、玄関ドアが背後で大きな音を立てて閉まった。まるでホラー映画のワンシーンだ。怯える私にボサ男が提案した。
「靴は脱いでおきましょう。汚しちゃうと現場検証の邪魔になるだろうし」
現場検証か……。警察には私も証言しなくちゃならないのかな? どれくらい拘束されるんだろう。子供の下校時間までには帰りたいな。
ツン、と異臭が鼻を突いた。靴を脱いだボサ男の足の臭いかと一瞬疑ったが、違う、部屋の奥からだ。
そうだ死体が有るんでしたよ。いったいいつから? 死因は?
私は怖くなった。今が寒い時期だとしても、亡くなられてから日数が経っていれば肉体は傷む。冷静でいられるだろうか、腐乱死体とご対面してしまっても。
「暗いなぁ」
ボサ男の不満は私とは別のところに有った。室内をじっくり観察する為の明るさが、彼の望む基準に到底足りていなかったのだ。室内灯が切られていたことと、窓を覆う遮光カーテンが暗さの原因だった。
部屋の間取りは、単身者向け賃貸によく有る1Kみたいだ。
玄関に隣接して狭いキッチンが設置されていて、キッチン横にはおそらくユニットバスに繋がるドア。そしてキッチンを通り抜けた先に六畳の洋室。
唯一の窓は洋室の奥、私達が今居るキッチンから一番遠い位置だった。
「カーテンを開けるのは……キツイな」
私は呟いた。カーテンに到達するには洋室を横切らなければならない。その途中で嫌なモノを見てしまいそうなのだ。
暗闇にやや慣れてきた目を凝らすと、洋室の壁際にテレビ、そして部屋の中央にコタツが置いてあった。そのコタツテーブルの上に、誰かが突っ伏しているようなシルエットが見えた。
「電気、点けますね」
ボサ男が壁に手を伸ばした。電灯スイッチを見つけたようだ。
「えっ、ちょっと待って!」
「大丈夫、指紋を付けないように注意します」
そこじゃねーよ。心の準備をさせて下さいって話。私は豪胆な彼に気になっていたことを尋ねた。
「ボサ……、あなたはとても冷静だけれど、特殊な知識や経験が必要な仕事に就いているのかしら? 医院の助手をしているとか、現役医学生とか」
「いいえ、ただの就活中の就職浪人です。繋ぎでポスティングをしています」
私はこの青年に付いてきたことを激しく後悔した。
「よっと」
ボサ男はコートの裾を手袋代わりにして、室内灯のスイッチを切り替えた。やりやがったよ。途端に室内は明るくなった。
「うっ……」
暗さに適応した目に明るさは刺激となった。私は何度かまばたきを繰り返した後、覚悟を決めてソレを見た。
(うわわ……)
コタツに脚を入れた状態の人が、上半身をテーブルに突っ伏していた。体格と服装から察して男性のようだ。首を右に傾けており、私達の位置からは亡くなられた時の顔が見えないのが幸いだった。
コタツテーブルの上には男性の上半身の他に、黄色い液体が僅かに入ったグラス、シングルCD、そして大量のビール缶が散乱していた。
(うう……)
視覚で認識すると、臭みが増した気になった。
コタツとエアコンのスイッチが切られていて、寒い室内でまだ遺体は腐ってはいないようだが、亡くなった瞬間に筋弛緩で失禁してしまったのだろう。排泄物とビール臭が混ざり有って悪臭を醸し出していた。
「お酒、飲み過ぎたのかな……」
死因は急性アルコール中毒? それとも暖房を切った中で眠ってしまい凍死してしまったのか。
ボサ男が落ち着いた声で寝癖マンに問い掛けた。
「あの、他に人は居ましたか?」
「他に……?」
「はい。死んでいる人以外に誰か居ました?」
ボサ男の発言は不謹慎だったが、諌める余裕が私には無かった。寝癖マンはしばし考え込んで、やがて答えた。
「居な……かったと思う。そんな気配は感じなかった」
聞いたボサ男は室内に向かって歩き出した。私は慌てた。
「ちょっとあなた、中に入る気!?」
「ええ。死体だけなら危険は有りませんから。警察に通報するにしても、ある程度は情報を知っておかないと」
か弱そうな外見だけれど、予想に反して彼には勇気が有った。それでも行くべきとは思えなかった。
「死体が有るってだけでも充分に通報案件でしょうよ!」
「まだ蘇生可能かもしれない。それも含めて見ておかないと」
ボサ男はハキハキと意見を述べた。堂々とした彼の態度は頼もしさを演出した。次の言葉さえ無ければ。
「さ、行きましょう」
「へ?」
最初、ボサ男に何を言われているのか解らなかった。
「ほら、早く」
急かされて理解した。奴は私が一緒に行くと信じて疑っていなかった。死体が有るというあの部屋に。
……あのさぁ、許可無く戦力に組み込まないでもらえるかな? 寝癖マンもそうだけど。あなた達は初対面の相手に対する距離の詰め方がおかしいよ?
「いやいやいや、私達が行かなくても、目撃したこの人に通報してもらえばいいじゃない」
私は平穏無事に過ごしたい一般主婦だ。誰が魔窟なんぞに行くか。
「その人にできると思いますか?」
ボサ男は顎で寝癖マンを指し示した。寝癖マンは荒い息でハフハフ苦しそうにもがいていた。ショックで軽い過呼吸を引き起こしているようだ。
「あの、息苦しいからって吸うだけじゃなくて、一度深く息を吐き出した方がいいですよ。それから数秒間息を止めて、また軽く吸うという手順を繰り返してみて下さい。上手く吐けないと新しく吸えないものなんです」
ボサ男は寝癖マンに、過呼吸の対処法らしきものをアドバイスした。蘇生がどうとか言っていたし、勇気の他に医学知識も持ち合わせているのかもしれない。それなら大丈夫……なのかな?
「……分かった、一緒に行くよ」
私は入室に同意した。やれやれだ。マスク越しだけどボサ男が笑った気がした。
ま、親子ほども歳の離れた若い子を独りで行かせて、何か遭ったら目覚めが悪いどころの騒ぎじゃなくなるもんね。
私とボサ男は連れ立って、知らない誰かの住居へ入った。
支える者が居なくなったので、玄関ドアが背後で大きな音を立てて閉まった。まるでホラー映画のワンシーンだ。怯える私にボサ男が提案した。
「靴は脱いでおきましょう。汚しちゃうと現場検証の邪魔になるだろうし」
現場検証か……。警察には私も証言しなくちゃならないのかな? どれくらい拘束されるんだろう。子供の下校時間までには帰りたいな。
ツン、と異臭が鼻を突いた。靴を脱いだボサ男の足の臭いかと一瞬疑ったが、違う、部屋の奥からだ。
そうだ死体が有るんでしたよ。いったいいつから? 死因は?
私は怖くなった。今が寒い時期だとしても、亡くなられてから日数が経っていれば肉体は傷む。冷静でいられるだろうか、腐乱死体とご対面してしまっても。
「暗いなぁ」
ボサ男の不満は私とは別のところに有った。室内をじっくり観察する為の明るさが、彼の望む基準に到底足りていなかったのだ。室内灯が切られていたことと、窓を覆う遮光カーテンが暗さの原因だった。
部屋の間取りは、単身者向け賃貸によく有る1Kみたいだ。
玄関に隣接して狭いキッチンが設置されていて、キッチン横にはおそらくユニットバスに繋がるドア。そしてキッチンを通り抜けた先に六畳の洋室。
唯一の窓は洋室の奥、私達が今居るキッチンから一番遠い位置だった。
「カーテンを開けるのは……キツイな」
私は呟いた。カーテンに到達するには洋室を横切らなければならない。その途中で嫌なモノを見てしまいそうなのだ。
暗闇にやや慣れてきた目を凝らすと、洋室の壁際にテレビ、そして部屋の中央にコタツが置いてあった。そのコタツテーブルの上に、誰かが突っ伏しているようなシルエットが見えた。
「電気、点けますね」
ボサ男が壁に手を伸ばした。電灯スイッチを見つけたようだ。
「えっ、ちょっと待って!」
「大丈夫、指紋を付けないように注意します」
そこじゃねーよ。心の準備をさせて下さいって話。私は豪胆な彼に気になっていたことを尋ねた。
「ボサ……、あなたはとても冷静だけれど、特殊な知識や経験が必要な仕事に就いているのかしら? 医院の助手をしているとか、現役医学生とか」
「いいえ、ただの就活中の就職浪人です。繋ぎでポスティングをしています」
私はこの青年に付いてきたことを激しく後悔した。
「よっと」
ボサ男はコートの裾を手袋代わりにして、室内灯のスイッチを切り替えた。やりやがったよ。途端に室内は明るくなった。
「うっ……」
暗さに適応した目に明るさは刺激となった。私は何度かまばたきを繰り返した後、覚悟を決めてソレを見た。
(うわわ……)
コタツに脚を入れた状態の人が、上半身をテーブルに突っ伏していた。体格と服装から察して男性のようだ。首を右に傾けており、私達の位置からは亡くなられた時の顔が見えないのが幸いだった。
コタツテーブルの上には男性の上半身の他に、黄色い液体が僅かに入ったグラス、シングルCD、そして大量のビール缶が散乱していた。
(うう……)
視覚で認識すると、臭みが増した気になった。
コタツとエアコンのスイッチが切られていて、寒い室内でまだ遺体は腐ってはいないようだが、亡くなった瞬間に筋弛緩で失禁してしまったのだろう。排泄物とビール臭が混ざり有って悪臭を醸し出していた。
「お酒、飲み過ぎたのかな……」
死因は急性アルコール中毒? それとも暖房を切った中で眠ってしまい凍死してしまったのか。